名古屋にシャチがいるのは金のシャチホコのおかげかもしれない
俺は名古屋行きの電車に揺られていた。
橘さんから、お試しデートを十回するというご褒美というか、試練を与えられてしまったわけなので、任務を遂行するべくこうして名古屋に出向いている。
今日は栄でランチを食べてから、地下鉄で港区まで行き水族館を見学する予定だ。
橘とは栄地下のクリスタル広場で集合することになっている。
栄というのは名古屋都心を形成するまさに名古屋の中心である。だから俺は今都心に向かっていると言えなくはない。
だがこういう言い方をすると、「東京都の中心を都心と言うんだ、この田舎者め」と鬼の首を取ったかのような形相で野次ってくる奴がいる。俺の私見だが、そう言う奴は大抵東京に憧れるあまり、「東京に行ってくる」と息巻いて地方から上京した類の人間であり、家賃の高さに喘いで不健康で非文化的な最低の生活を送っているに違いない(偏見)。つまり東京都心に住む人間は日本国憲法第二十五条で守られていない。つまり東京都心は無法地帯。
よって東京都心こそ未開拓地である。違う。
それはそれとして首都の中心を都心だと言い張る偏狭な人間がいたら、ここ名古屋大帝国には都心環状線という名前のついた高速道路があることをお教えしたい。つまり都心環状線がある名古屋は紛うことなき都心であり、曰く都心は首都にあるので名古屋は首都である。それも違う。
「都心」という言葉の本来の意味は都市の中心業務地を指すのであり、首都の中心のことを指すのではない。「ドーナツ化現象」を論じる際に都心の空洞化という言葉を使うように、地理学的には人口十万の都市なら都心を形成しうるとされる。流石にそれだと日本は「都心」だらけになってしまうから、便宜上百万規模の中心市街地なら「都心」としてよいだろう。
だから都心に住みたいやつは地方に行くべきだ。なぜなら安いから。おすすめは名古屋。と言うことでみんなで名古屋に住もう。
そんな名古屋大帝国発展に余念のない俺が名古屋駅で東山線に乗り換え栄についたところ、橘はまだ来ていないようだったので、広場を支えている柱の一つに寄っかかるようにして彼女を待った。
クリスタル広場は地下なのに噴水があったのが妙に印象的だったのだが、橘曰く数年前の改装で撤去されてしまったという。直接的な影響がないにせよ、自分の知っているものがなくなっていくのはなんだか寂しいものだ。
新しく生まれ変わった広場もシックな感じで、それはそれでいいのだが。
俺が待ち始めて数分と経たずに、橘が駅の改札の方から歩いてきた。
「ごめんなさい。待たせてしまったかしら」
「いや、今来たとこ」
ご挨拶でそう言ったが、そんなことよりも俺の目は橘の格好に釘付けになっていた。
白を基調とした花柄のワンピースに麦わらで編まれたカンカン帽。シンプルだがそこがいい。彼女の端麗な容姿と相まって、得も言われぬ美がそこに顕現している。
「……かわいいな。その格好」
俺がボソボソと言ったのを聞いて、橘は目元を真新しい麦わら帽子のつばで隠した。
「そんなことよりもお腹が空いたのだけれど」
目は隠せても耳は隠せない。真っ赤な耳がお目見えしたままだ。頭隠して尻隠さずとはこれを言う。
まあ、指摘するなんて野暮なことはしないけどね。
「どんなものが食べたい?」
栄駅の周りにある、女子が好きそうなオサレなカフェやレストランは調べてあるが、一応尋ねた。
すると予想外の答えが橘口から飛び出す。
「せっかくだし、名古屋めしというものを食べてみたいわ」
「……え、名古屋めし?」
「ええ。名古屋めし。味噌かつとか手羽先とかの名古屋めしよ」
これはまいったぜ。そっちの方はあまりリサーチしていない。
というか……
「お前、名古屋のど真ん中住んでるくせして、名古屋めし食ったことないのかよ」
「だって、女の子一人で行ったら恥ずかしい店ばかりでしょう」
「……それ、全国のB級グルメ女子を敵に回す発言なのでは?」
「半分冗談よ。でも家の人に外で食べさせてもらうときは、堅苦しいお店の堅苦しい料理ばかりだっただから、そう言う店に慣れていないと言うのも事実なの」
それはあなた……。下賤のものが食べているものを口にしたら、頭が悪くなりますぜお嬢。というかプリティな格好をしたあなたをそういうお店に連れて行く俺に、周りの人間が向けてくる視線の痛さがすでに想像できるんだけど。
だが食べたいというのを止めてやるのは道理ではないから、俺は候補を上げた。
「台湾まぜそばとかどうだ?」
すると橘は怪訝そうな顔を浮かべた。
「台湾まぜそば? 花丸くん、性格ばかりだけでなく、聴神経までひねくれてしまったの? 私は台湾めしが食べたいだなんて一言も言ってないのだけれど」
「いやだから、台湾まぜそばは名古屋めしだよ? あとついでに言うと台湾ラーメンも名古屋めしだからね」
橘は驚嘆の表情を浮かべる。
「……なんですって」
「……そういえば、高一の遠足で滋賀の長浜行ったとき、長浜ラーメンてなものを食ったが、あれも実は長浜名物じゃないらしいな」
俺はレトロな街並みが印象的だった長浜の景色を思い出しながら、そこで食べたラーメンの裏話を語った。
「……え、長浜ラーメンって……あの博多ラーメンをあっさりさせたようなラーメンのこと?」
「そうまさしく、博多ラーメンをあっさりさせたような、福岡名物長浜ラーメン、ということらしい。福岡市に長浜っていう地名があるんだとよ」
橘は驚嘆の表情を浮かべる。
「……なんですって」
「ほら、あれだ。愛知で造っても、北九州で造っても、アメリカで造っても、ト○タ車はト○タ車であるようなものだろ」
「それはまた別な話のような気もするけれど」
*
結局駅から数分歩いたところにあったまぜそばのチェーン店で、台湾まぜそばを食べたのだが、二人で辛い辛いと言いながらもしっかり完食して、橘は「家でも作れるかしら」と独りごちていたので、それなりに気に入ったらしい。
カウンター席が一列だけの狭い店内で、美少女と冴えない男子高校生という二人組は奇妙に映っているだろうなと、チラチラ向けられている他の客の視線をかいくぐりながら
「汁がない分、他のラーメンより健康的だな」
と俺はコメントした。
「ラーメンの汁を飲み干すことを前提としていることに、あなたの食生活の悪さが窺い知れるのだけど」
橘は呆れていた。
「悪くないもん」
「どうかしら。一度あなたに健康的な食事が如何なるものかしっかり教える必要がありそうね」
「それはもしかして、俺に君の手料理を食べさせてくれるというお誘いかい?」
橘は一瞬ぴたりと動きを止め、それからコップに手を伸ばし水を一口飲んでから
「……そこまで食べたいと言うのなら、別に食べさせてあげてもいいけれど。仮とはいえ恋人契約をした以上、私としても真摯に対応する義務があるし」
と答えた。
最近、冗談で言ったことにツンデレ姫がガチな答えを返してきて、逆に俺が萌え死ぬことが多くなってきているから、呼吸困難になって死なないように気をつけねば。
店を出て駅に戻り、栄から地下鉄名城線で金山に向かい、それから名港線に乗り換え、終点で今回の目的地でもある名古屋港駅に降り立った。ここからしばらく海の方に向かって歩くと、海に浮かんだ状態で展示されている、昔の南極観測船「ふじ」と並んで水族館が見えてくる。
名古屋港水族館というのは、総床面積が日本で最大級の水族館であり、県民が誇れる数少ない観光資源の一つである。俺が一番すごいと思うのは、同館が世界で初めてアカウミガメの屋内繁殖に成功しているという事実……ではなく、そのことが世間様で全く取り沙汰されていないことだ。なぜだ? みんなカメが嫌いなのだろうか。某夢の国にいる喋るカメさんはあんなに人気だというのに。
本館とは別のところにひっそりと佇むカメの繁殖場はいつ行っても人気がなく静かだ。
そのほうがカメさんのためにはなるのかもしれないが。
水族館を入るとすぐにシャチやイルカの水槽が見えてくる。イルカはともかく、シャチを見られる水族館というのは日本に二つしかない。だから間近にシャチを見たことがある日本人はかなり少ないはずだ。そのためもあってか橘さんのテンションはすでに爆上げだ。
これを見ると水族館のこの配置というのは、客に与えるインパクトを最初で最大に持ってくることを意図しているように思えてくる。そういえば動物園でもサイやゾウ、ライオンといった目玉となるような生き物は正門の近くに飼育されていた。漫画雑誌で巻頭カラーに選ばれるのが人気作品であるのと同様な話か。逆に言えば、出口あたりつまりページの最後の方に載っているものは……。いや、やめておこう。
彼女の動物に対する愛情というものは哺乳類に向けられているのか、この世の生きとし生けるもの全てに向けられているのかはわからないが、とりあえず可愛いやつは大好きらしい。俺は彼女がこのあとどういう反応を見せ、どういう言葉を言うか既に知っていたような気がしたが、花丸元気と橘美幸が二人で水族館に来たなんて事実は確認されていないから、その妙な感覚はデジャヴュとして捨てておく他ない。
「ねえ花丸くん。私思うのだけれど、イルカの可愛さって、あの黒くて艶々した瞳にポイントがあると思うの」
「なるほどなるほど」
「でもシャチは少し苦手だわ。だって目が怖いもの」
「やっぱ、目は大事なんだよなあ」
てっきりパンダみたいな柄だからシャチも好きなのかと思ったが、どうやら違うらしい。
「それにシャチってイルカを食べるのよ」
橘は声のトーンを落としヒソヒソと内緒話をするように言った。
「シャチは生態系のトップにいるからな。それも地球の七割を占める海の王者だ。陸上生物とは格が違う。ホッキョクグマやアザラシに加え、ホオジロザメやシロナガスクジラも食うらしいからな」
橘は眉を顰めた。
「Killer whaleとはいうけれど、呑気に観察しているのが恐ろしくなるわね。やっぱりイルカがいいし、ゾウの方が可愛いわ」
そうかもしれないけど、ゾウも大概危険だと思うよ。
「……でもシャチって頭がいいんだろう。獲物をなぶり殺して遊ぶことあるらしいし」
陸上動物でもそういう奴いるけどね。ニンゲンって言うんだけど。
「頭がいいことは確かなのだけれど、でも頭がいいからといってみんなに好かれるわけじゃないわよね。……花丸くんみたいに」
「それはお前だけは俺のこと好いているって言う意味でOK?」
橘は二時間ほど前にやった時みたいに、目元を帽子で隠した。
「……そんなことは言ってないけれど」
照明の都合上、彼女の顔色が確認できなかったのが残念である。
「でもまあ、人間でもみんながみんな残虐なわけじゃないのとおんなじで、イルカと仲のいいシャチもいるんじゃないか? ブタ飼ってるお前ならわかるだろ」
知性の高さが異種族に対する友好性に振られていても全くおかしくはない。その場合人間が観察をするのは難しいだろうから、シャチの残虐性にばかり焦点が当てられてしまうのは仕方のないことなのだろう。
同様にこの世では星の数ほどの豚が人に殺されており、宇宙人が見たら人間という生き物は残虐な生き物だなという感想をもらってもおかしくはないのだが、橘のように豚をペットとして慈しむ人間もいる。ペットに豚を飼いながら、トンカツは食べられるなんて正気か? と思う奴もいるだろうが、橘曰く金魚を飼っている人間が、寿司を食べるのと一緒の感覚らしい。その話を聞いたときには思わず唸った。
「……それは確かにそうね。考えを改めることにするわ」
橘は顎を触りながら納得した様子で呟いた。
「ところで、ドロの不可逆則って知ってる?」
「知らぬ存ぜぬ」
「簡単に言うと、生物が進化の過程で一度ある器官を失うと再び得ることはできない、と言うものね。イルカやクジラが鰓呼吸ができないみたいに」
「ほーん。一度壊れたら元に戻らない人間関係みたいだな」
「……それはちょっと何を言っているのか分からないけれど」
「それかこうだな。昔は自転車で何キロでも走れたのに、今じゃ近所のコンビニに行くだけで車を使ってしまう、疲弊しきった社会人、みたいな」
「多分それは進化とか退化のせいじゃないと思うのだけれど」
「分かる。悪いのは全部この社会」
「……次行きましょうか」
それからシロイルカを見て、日本近海の魚を集めた大水槽を見て、と進んでいきクライマックスのペンギンゾーンにやってきたところで、不意に橘が口を開いた。
「一つ私が後悔していることがあるのだけれど、何だと思う?」
俺が後悔していることならすぐにでも思いつく。人生の岐路に立たされたとき常に間違ったほうを選択して来たような思いすら抱いているから。
けれど橘が後悔していることというのはなんだろうか。
もし「今日あなたと水族館に来たこと」とか、「十回もデートするなんて無謀な約束をしたこと」とか、「そもそもあなたに出会ってしまったこと」とかであったらどうしよう。もとき泣いちゃう。
俺はそんな恐れを抱きながら返した。
「さっぱり分からん」
橘は答えて
「今日の格好よ。今ふと気付いたのだけれど、この格好あなたが以前ゲートモールでデートしていた小娘の装いに酷似しているわ。だからしまったなあと思って。……あの娘なんて名前だったかしらね」
……いや、覚えてるよね。覚えていてあえて聞いてきてるんだよね。
さも世間話をしているかのようなにこやかな態度でおられますが、その綺麗すぎる笑顔が逆に怖い。
俺は問い詰められているのだと思い、慌てて取り繕った。
「いや、だから、あれはデートじゃないよ? 安曇に聞いたら分かると思うけど、俺は相談があると思って、行っただけだし、行ったら行ったで荷物持ちさせられたし、あんなのデートじゃないもん。モトキ悪くないもん」
「私はそんなこと聞いていないのだけれど。名前を聞いているのよ? なぜ答えないの? 何かやましいことでもあるの?」
彼女はやはり笑顔のまま再び尋ねてくる。
「……。蒲郡さんです」
「そう。確かそんな名前だったわね」
橘はそれだけ言ってスタスタと歩き始めた。
「え、ちょ、待ってよ」
俺が追いかけ声を掛けたら、彼女は振り返る。
「別になんとも思ってないわよ。だってあなたが私のことしか眼中にないの、前から知っていたもの」
「……お、おう」
俺は単にからかわれただけらしい。その為に服装も被せてきたのかな。……やはり彼女には敵わない。
そんな感じで動物園に行った時と同じようなやりとりを水族館の出口にたどり着くまで繰り返した(途中イルカショーを見たり、ペンギンと写真を撮ったりしたけど)。
地下鉄に乗り栄に戻ってきたところで
「今日は楽しかったわ。ありがとう」
と橘は満足気に微笑んだ。しかし俺の顔を見るや
「どうかした? 不服そうな顔をしているわね」
と言う。
「不服ってわけじゃないんだが、試験でデートするとか言ってた割にお前があまりに楽しそうだから……」
「そこを気にするあなたも大概ね」と小さくため息を付き「思ったのよ。どうせなら楽しまなきゃ損だなって。……せっかく与えてくれた時間だから」
と答えた。
「……そうだな」
彼女は小さく手を振り帰路についた。
俺はいまいちデートの正解というものをわかっていないのだが、あの子があれだけ楽しそうに笑って過ごす以上の正解が果たしてあるのだろうか、と言う甘い考えが浮かんでは、自分一人で機嫌を取れる彼女に俺が隣に立っている意味とは? みたいな苦い疑問も同時に生じるので、如何ともし難い。
「いやはやどうすれば」「楽しそうならいいじゃないか」「いやだめだろう」みたいに自分の頭の中で押し問答が生じて、一向に決着のつかぬまま、時の流れ止むことを知らず、映画に行き、岐阜城を見に金華山に登り、養老の滝を見て涼んで、橘グループがスポンサーとなっているオートレースチームが8耐に出ると言うので鈴鹿まで行きと、そんなことをしていたらあれよあれよと言うまに一学期も終わろうとしていた。