なつきたるらし
翌日。梅雨も明け灼熱列島に邁進中の日本。青く瑞々しい田からはムワッとした空気が漂ってきている。田畑に囲まれた道を抜け、街中の川沿いの道を行くのが、俺の通学路である。
県立神宮高校は市内では最も古くに建てられたためか、市の中心街に近接している。創立当時は周りに民家などほとんどなかったようだが、今では住宅に囲まれている。
そのせいで生徒の声がうるさい、体育祭は静かにやれ、ブラスバンドはもっとうまく吹けないのか、とご近所トラブルに発展しやすいわけなのだが……。
学校周辺というものは教育にふさわしい環境を確保するために、騒音や臭気を発する工場、性風俗店やパチンコ店などを含む娯楽施設といったものの設置を禁じられており、その代わり公園、病院やスーパーマーケットが建てられやすいので、一言で言えば治安が良く住みやすい場所である。
しかしだ。学校近くの住宅地の唯一にして最大の難点が学校が近くにあることである。
つまり学校があるから住みやすいのであり、学校があるから住みにくいのだ。ふふふ、訳が分からないだろう。俺もそう思う。
とにかくブラスバンドの不協和音と、校庭に響く金属音と怒声を聞いて、幸せになれるような特異体質の人でない限り、学校近くに住むことはおすすめしない。
そんなことを考えながら、チャリを爆走させて火照った体を冷やすために、教室で気休めに下敷きをパタパタさせていた俺に、安曇が話しかけてきた。
「穂波ちゃんどう?」
俺は彼女を仰ぎ見た。
「昨日の今日だから。まだ何とも」
「そっか。だよね。……まるもんも元気出せ!」
「俺はもとより元気だが」
元気だけに。
「え、だって、穂波ちゃんが辛い目に遭ってまるもんも辛いかなって思って」
「……俺はシスコンじゃねえ」
「……普通にシスコンだと思う」
「……」
ハハッ。朝から冗談きついぜ。俺がシスコンだと言いたいなら、まずその論拠を以て論理的に説明してください。話はそれからだ。
……。
「あ」
俺は昨日のことを思い出して、声を上げた。
「えっと、何?」
自分の席に戻りかけていた安曇は足を止め、こちらを振り向いている。
「あ、えっと、……やっぱなんでもない」
安曇は怪訝そうな顔を浮かべたが
「ふーん、変なの」
と言って自分の席へと戻っていった。
俺が言いかけて、口を噤んだこと。それは昨日の橘のことについてだ。
女子はよく泣く生き物だと言うことは、親父(講義)と妹(演習)から教わったことだが、昨日の橘の涙はよく分からなかった。
穂波に感情移入するあまり涙が零れてしまったと言うのであれば、その心の優しさに痛み入り俺まで涙がちょちょぎれるが、どうにもそれは違うように思えた。それは彼女自身のうちから溢れる涙のように思えたのだ。
だが一晩考えても理由が分からなかった。だからあの場面で出る女子の涙というのが一体どういう意味を持つのか、安曇に聞こうかと思ったのだが、あそこまで頑なに話さなかったその理由を、彼女の友人を介して知ろうとするのは卑怯な気がして、聞くのを躊躇われたのだ。
朝のホームルームが終わって、一限目まで少し時間があったので、もやもやとした気分を抱いたまま授業を受ける気にもならならず、橘の教室を覗くことにした。
階段を上り彼女の教室の戸口に立って中を覗き込んだら、すぐに席について授業の準備をしている橘の後ろ姿を見つけられた。多分百人女子を集めて後ろ向きに立たせても、その中から見つけ出せる自信がある。思うに見慣れた人物の骨格というものは、顔や匂い、声紋なみに効力を持つのだろう。
それはそれとしてここからが問題。
俺の対人スキルは、あの修学旅行の夜、厳島神社の御前で橘に対峙したときにピークを迎え、それ以後緩やかに下がり続けているので、女に会うために他のクラスにズケズケと入っていく胆力などもはや残っていない。
だから別の能力を開花させようとじっと彼女のことを睨んだ。
そしてこちらを向けと念じる。
いわゆるテレパシーである。
当然付け焼き刃の念力に効果はなかった。
俺が教室の戸口に立ちストーカーまがいのことをしているときに、どこやらから戻ってたそのクラスの男子が俺のそばに立った。
「……花丸、お前何してんの」
俺は怪訝そうなその顔を見つめ、朧気な記憶の中から彼の名前を引き出す。
「……山崎」
何某は大層驚いた表情で答えた。
「いや最後のきしか合ってないよ? よし、ヒントだ。よく神社の賽銭箱の上にあるやつといえば?」
何某、出血大サービスと言わんばかりの表情。
だが俺という人間は、理系ゆえ生憎伝統と文化と名の付くものにはてんで弱い。そしてその範疇にある宗教のことも当然存じ上げないので、釈迦が捨家して法華がうまいと聞けば、鮭ほっけ焼いたらうまいホーホケキョと答える自信がある。まして神社の賽銭箱の上にあるものなどよう知らん。ちなみにホーホケキョと鳴くのはウグイスで、ウグイス色なのはキウイの皮で、キーウィはニュージーランドの飛べない鳥で、テッペンカケタカと鳴くのはホトトギス。どうでもいい。
しかしながら必死な彼を見て無碍にするほど俺も鬼ではないので
「……ああ鐘木か!」
うんうん唸って捻り出した。
「おい!? もっとメジャーな苗字があるだろ! 大体それ神社じゃなくて寺にあるやつだろが!?」
「まあ冗談はさておき、理仁よ、橘呼んでくれるか」
「……あいよ、色男」
鈴なんとかくんは「てかもう下の名前でいいじゃん」とブツブツ言いながら、不承不承と言った様子で橘を呼んでくれた。もう少しだけ付き合ってあげたい気持ちもあったが、朝の時間は何よりも貴重なのである。すまない錫木くん。
入れ替わり出てきた橘は昨日と打って変わりさっぱりした顔で
「どうかしたの? 花丸くん。というか私に会いたいからといっていちいち教室に来られると困るのだけど。あなた他人の迷惑というものを知ってる? ああごめんなさい。知っていたらこんなことしないわよね。私ながら浅慮だったわ。反省します」
とのたまった。
「……あ、えっと。お元気そうで」
「何? 元気だといけない?」
「いや、いけなくはないけど」
あまりにケロッとしているので俺も拍子抜けである。
「それで、何しに来たの?」
「心が体を追い越してきたんだよ」
「……私、前世からあなたのこと蚊ぐらいにしか思ってなかった気がするわ」
「蚊って言うと、夏は四六時中プンプン飛び回って、線香焚いたり何なり蚊のことばかり考えているから、実質お前は俺のことばかり考えているということだな。照れる」
「……今、蚊取り線香にヒ素を練り込むというアイデアを思いついたのだけれど、今度実験してみない?」
「確実にこちらを殺りに来てる!?」
「それで、ほんとに何しに来たの? まさか顔を見に来ただけなんて言わないでしょうね?」
俺はどこか気丈に振る舞っているように見える橘に対し、なんと言ってやれば良いのやら分からず、とりあえず
「あ、えっと、……大丈夫か?」
と尋ねる。
橘は若干迷惑そうに眉を顰めた。
「だから全く問題なんてないけれど」
「……そっか、ならいいんだ。邪魔したな」
俺はそう言いつつも、首を捻りながら教室に戻った。
*
それから一週間ほどが経過した。
穂波は普段通りに過ごしているし、やはり橘もケロッとした様子でいるので、俺は狐につままれた思いがしていた。
けれどある日、学校から家に帰ったら穂波がソファにぐでりとなり、嫌にしょんぼりしているのを目にしたので
「どしたの」
と声をかけた。
穂波は陰鬱な表情でこちらを見てから
「自己嫌悪」
と呟き深くため息をついた。
いろいろと察した俺は
「言ったのか?」
とだけ尋ねた。
穂波はコクリと頷き
「だから自己嫌悪。美幸さんが言ったみたいに自分勝手にしただけだったなあって思ってさ」
と項垂れている。
「……おいおい。穂波よ。自己嫌悪と言ったらお兄ちゃんの十八番じゃないか。それを横取りしようとは大した度胸じゃないか」
どのくらい頻繁に自己嫌悪しているのかというと、あまりに自己嫌悪しすぎて自分でも自己嫌悪が趣味なんじゃないかって思うくらい自己嫌悪している。
俺の戯言に対し
「お兄ちゃんってほんとバカ」
と強がって悪態をついているが、泣きそうな顔をしているから世話がない。
そんな妹になんと言ってやれば良いか分からず、とりあえず
「ギュッとしてもいいぞ」
と腕を広げたら
「ギュッとはしない」
と返された。
「昔だったらしてくれたのになあ」
とぼやくように言うと
「もう十六になるし。というかキモいし」
と素気無く返されてしまったので
「ぱおん」
俺は泣き声をあげておいた。
それから穂波は「あ゛ぁ゛〜〜」とうめき声をあげたかと思ったら、ソファから立ち上がって屈伸をし、リビングの戸口まで走って行った。そこでぴたりと動きをとめ、俺に背を向けたまま
「でも、ありがと」
とボソリと蚊の鳴くような声で呟いて、またドタドタと二階へと駆け上がっていった。
俺はカバンをおろし、穂波のためにケーキでも買ってきてやるかと思って、財布だけ持って家を出ていった。