結局傷ついているときは何を塗ってもしみるものだと思う
昨日こんなことがあった。
夕方、気晴らしに散歩にでも行こうかと、ぷらぷらと家を出て行ったのだが、途中で雨に振られた。
仕方なく、時折行くカフェの店先で雨宿りさせてもらうことにしたのだが、一向に止む気配がない。少し出るだけだと思って、スマホを家においてきてしまったので、穂波に迎えに来てもらうこともできない。
あと少しだけ待って止まなかったら、ずぶ濡れになって帰るか、ということを考え始めたところで
「傘、忘れられたのですか?」
と声を掛けられた。
見ると、店の中からカフェの店員が出てきたらしい。年は俺の少し上。大学生ぐらいの女性だった。
「……あ、勝手に雨宿りしてすみません」
俺が店先に立って迷惑をかけたのだと思って、すぐに謝ったのだが
「いえ気にしないでください。どうせ雨なので、お客さんも来ないですし」
店の中を見てみれば、マスターもコップを磨きながら、興味深げにこちらを覗いていた。確かに他に客はいなさそうだ。
「すみません。今日は本当に手ぶらで家を出たので」
財布も持ってきておらず店の中で時間を潰すこともできないのだ。
「よく、来られてますよね?」
「え?」
「よく窓際の席で、お一人で本を読んでいらっしゃるでしょう」
「ああ。顔、覚えられちゃってましたか」
確かに休日は何度かこのカフェで本を読んでいたことはあった。
「大学生ですか?」
彼女は、そう尋ねてきた。
「いえ、高校生です。高校二年生」
「え! 私と同じくらいかなって思ってました。随分と落ち着いていらっしゃるので」
「はは、友達にはオジン臭いってよく言われます」
「そんなことないですよ。素敵だと思います」
「どうもです」
流石は接客業だ。リップサービスも心得ているらしい。これでこのカフェに通う頻度が増えるほど、俺もチョロい、こともあるかもしれない。
「止みませんね」
店員さんは灰色の空を見上げて言った。
「もう梅雨なんですかね」
「今年は少し早いらしいですしね」
「雨は嫌いじゃないんですけどね」
「どうしてです?」
「匂いが好きなんです。まるで森の中にいるみたいになるので」
「……なるほど。でもそのせいでお家に帰れないわけですけど」
彼女はいたずらっぽく笑った。
「……全く、面目ないです」
「……あ、少し待っててください」
彼女はそう言って、店の中に戻っていった。
一言、二言マスターと言葉を交わし、店の奥に消え、戻ってきた時には、手に傘を持っていた。
「よかったらどうぞ」
彼女は、その傘を差し出してきた。
「そんな、いいんですか?」
「常連さんですから」
「……じゃ、また来たときに返します」
「はい! お待ちしてますね!」
彼女は微笑んでいた。「あなたの笑顔だけで、礼としては十分以上ですよ」なんて台詞が口から出かかったが、よく考えなくてもその台詞は俺のものじゃなかった。全く本当に商売がうまい。
でも「渡る世間に鬼はなし」という言葉の信憑性を若干上げる例くらいにはなるかもしれないな、と俺は思うのだった。
閑話休題。
修学旅行という非日常の世界から帰ってきて、数日が経過した。平年より少しだけ早く梅雨がやってきて、窓の向こうの空は灰色に染まり、パラパラと雨が地面を叩いている。
これが春の終わりから夏のはじめにあるべき日本の姿であるわけだが、主たる移動手段が自転車である高校生にとっては、梅雨という時期はなかなか曲者だ。別に雨自体は嫌いではないのだが、こうも毎日降られると、靴や服が乾かないという現実的な問題が鎌首をもたげてくるので、お天道様には少し配慮して欲しいなと言うのが心情である。
さて、件の修学旅行は俺としても大きな事件であった訳だが、この数日それに関してさしたる進展はなかった。彼女に少し考えさせてくれるかしらと言われた手前、待つしかないのだが、いつまでかという期限は聞いておくべきだったと後悔している。彼女というとあれから別段変わったところはなく、いつもと同じように……いや、あれからまともに会話していないな。
ここにおいてまともな会話というのは、社交辞令のようなものを指すわけではない。そのような当たり障りのない会話なら、部活や委員会をする上で避けられないからだ。当然それくらいの会話ならしている。
俺達の場合、まともな会話というのは
「鶏口牛後とは言うが、トップに立つのもなかなか大変だろ。俺が思うに、矢面に立つ役目は他のやつに任せて、その傘下で二番手に立ち、のうのうと生きるのが一番楽だと思うんだ」
「あら、それはつまり、私と相合傘をしたいという、遠回しなアピールなのかしら?」
「おい。いつ雨傘の話になった?」
「まあ、あなたがぬかるんだ地面に頭をこすりつけて、濡れ鼠になるまで私に懇願したら、同じ傘に入れてあげないでもないわ」
「話聞けよ。てか、そこまでする意味」
「それで『お前のせいでずぶ濡れになったんだぞ! シャワー貸せ』とか難癖をつけて、私の家に無理やり上がり込んで、私のシャンプーにしゃぶりつくようにして『ハァハァ。みゆきたんとおんなじ匂いがする』みたいなことを言うに違いないわ。ああ気持ち悪い」
「おーい、戻ってこい」
みたいな感じのものであるわけで……。俺も大概、橘のせいで頭がおかしくなっているらしい。
彼女に悪口を言われなくなって、逆に心配するような日が来ようとは夢にも思わなかった。
待つしかできないというのは、何よりも辛いものだ。
そんな感じで教室でも俺はずっとそわそわしていた。
色々とお察しらしい各務原は、修学旅行から戻ってきても、そのことには触れずそっとしといてくれている。なんだか気を使わせているようで、申し訳ない。
それに対して、あの馬鹿の方はというと、ただ静かにしているだけの俺を捕まえては
「おいおいどうしたんだよ花丸ぅ?! 元気出せよ、ポッキーゲームしようぜ!!」
とちょっかいをかけてくる。そしたら修学旅行を通してすっかり仲良くなったらしい、ショートボブの伊良湖が
「あらあら、外野くん。無理に誘っては悪いですよ。花丸くんも色々と悩み事があるでしょうから」
とタッグを組んで俺に挑んでくる。いや、伊良湖は伊良湖で俺を助けようとしてくれているのかもしれないが、外野と組むと、外野の口撃が増強され、効果はバツグンだ!
「何何?! 悩み事だと! 花丸のいけず。この悠久の時を共に駆けた大親友に隠れて悩み事なんてするなよぉ! 何でも話せよ!! もしかして失恋か? 失恋したのか?!wwwwwww」
ほら見ろ。
俺は内心ギクリとしたのを隠すように
「おめえ、ぶん殴るぞ」
と返した。
「やっぱ失恋したんだぁ!!wwwwww」
「外野くん! およしなさいよ」
外野は、無論俺と橘との間で何かあっただなんて知る由もなく、何も考えずに適当に言っているだけなのだろう。それでも、いやだからこそ忌々しい。本当に何なのだお前は。
そんな俺を、各務原が心配そうに見守っているのが、なお堪える。
このアホ坊主のアホはいつか治るのだろうかと、憎たらしい顔を思い出しては、こめかみを押さえるのだが、アホというのは不治の病であるから端から予後不良であったことに気づき、ため息をついた。
放課後になって、俺が鞄に荷物を詰め終えたところで、誰かが肩を叩いてきた。それと同時に
「部室行こ」
と声をかけてくる。
そこにいるのはもちろん安曇だ。
彼女はニコニコしている。何でもないときによく見せる、彼女のチャームポイントの、暖かな笑顔だ。
流石に安曇はどこかよそよそしい俺と橘を見て何かあったであろうことは気付いているのだろうが、あえて触れてきていない。
もしかしたら橘から事の真相をすべて伝えられていて、全く脈がないと知っているから、そっとしているのだろうか?
最近、世間(ただし外野は除く)が俺に優しいのも、橘美幸という少女に嫌われている俺を、神が哀れんでのことなのだろうか?
「まるもん、大丈夫?」
安曇の声で、はっと我に返った。
「ああ。……行くか」
……いくらなんでと考え過ぎか。少し神経質になり過ぎているらしい。
俺は息を吐いて、頭をリセットした。
それから立ち上がって、彼女と一緒に教室を出た。
廊下を歩きながら、安曇と少し話をした。
「ねえ、まるもんさ、パンフレット見た?」
「なんの話だ?」
「ブダペストの姉妹校との交換留学のやつ。SSHの」
俺は少し記憶を探ってから
「ああ、帰りに配られたやつか」
毎年、ブダペストの学校から留学生が二週間だけ来て、その代わりうちからも数名向こうへ行って、文化交流をしている。交換留学するのは二年生なので、その募集者を募っているのだ。
「安曇、留学とか興味あるのか?」
「……うんと、ちょっとね。気になってると言うか」
「すごいな」
「……まるもんは興味ないの?」
「……俺は自分の腹の中に、外に出ていくのに見合うだけのものを持ってないからな」
「……どういうこと?」
「よく世界を見たら人生が変わるとか言うだろ」
「うん」
「でも実際そうかって言うと大抵そうじゃない。大金払って、外国に行って、異文化に触れてみれば、高揚感みたいなものは得られるだろう。でもその高揚感は帰ってきて一ヶ月もすれば消えちまう。新しいものを見て興奮するのは当たり前だが、それで人生が劇的に変わるかというと、普通は元の生活に戻るだけだ」
「ん、うーん?」
首を捻っている安曇を横目に俺は続けた。
「俺達にとっては異文化でも、現地の人間にすれば、なんの変哲もない日常の風景なわけだろ。逆に考えれば、外国人からすれば、俺達が気にも留めてないようなことが、刺激的に映ることもある。俺たちが見逃しているものでさえな。つまりすべては自分の気の持ちようなのさ。外国だから、旅行だからという気でいれば、目に映るもんがやたらキラキラして見えるんだろうよ。当然それだけで成長できるほど、甘くない。
結局、俺は俺という人間の枠から飛び出すことはできないし、俺の枠があるのはこの国のこの街だ。刺激を求めて、自分を探しに、外国に行っても仕方ない。俺が見つめるべきなのは、異文化じゃなくて、俺自身なんだよ。
要するに空っぽな人間が、何を見ようと、何も得られんてことさ。無論、何か目的意識を持って赴くなら、身になることもあるだろうが」
「……」
「どした?」
「うーん、なんかやっぱ、まるもんって捻くれてるよね」
「おいおい。俺たちもそこそこ長い付き合いなんだから、俺の性格くらい分かってると思っていたんだが」
「分かってるよ。捻くれてて面倒臭くて、全然素直じゃない。もうほんと面倒くさい」
……えと、なんか、ごめんね。
安曇は二、三歩ステップを踏むように先に進んだかと思えば、今度は首をひねるように振り返り
「でも別に嫌いじゃないよ。そういうとこ。もう慣れちゃったし」
と言った。
「……安曇は優しいんだなあ」
「そうだ。私は優しいのだ」
そう言って彼女は笑顔を浮かべた。
*
部室に入ってから、三十分ほど経過した。今日もやはり、かつては途切れることのなかった、橘美幸の舌鋒は、鞘に収まったままである。
ちらと橘の方を見てみる。何度見てもやはりこちらを気にする素振りはなく、至って平静な様子で、静かに本を読んでいる。
橘さんがあまりに何事もなかったかのように振る舞うから、なんだか俺もあの修学旅行の夜のことは全部夢だったんじゃないかと思えてくる。……そうかあれは夢だったんだな。俺は何も言っていない。だから橘さんも何も言ってこないんだな。なるほど納得。
……。
ふと橘と目があった。
勇気を奮い起こして声をかけようと口を開いたら、彼女はさっと俺から目をそらした。
「……」
やっぱり、夢じゃないよなあ。
部室では、雨の音、俺達三人の呼吸音、誰かが参考書をめくるパラパラという紙の音、そして時折安曇が橘に話しかけ、橘が短く「ええ」とか「そうね」とかいう声以外、何も聞こえなかった。
なんだろう。これはやってはいけないことを俺はやってしまったということなのだろうか。彼女は俺が彼女のことを女性としてみているという事実を知って、冗談半分に言っていた罵詈雑言が、本格的な嫌悪へと変わってしまったというのだろうか。しかしながら、そうであるなら、あの修学旅行の夜にそうと言いそうなものだが。さしもの橘美幸と言えど、厳島神社の御前では、一人の男を返り討ちにするだけの度胸はなかったということだろうか。
このまま何も言葉を交わさず、部活を引退するなんてことになったら……。
俺の思考がネガティブワールドにバーストリンクしようかというところで、スマホに着信が来た。
見てみれば、橘からのメールである。すぐ目の前にいると言うのに、口すら聞きたくないのか。ぐすん。
泣きたい気持ちになりながら、恐る恐るアプリを開く。「キモいから消えろ」とか書いてあったらどうしよう。ショックの余り、俺のハートがネガティブバーストして、死んでしまうかもしれない。
そんな不安を拭い去ることができぬまま、彼女からのメッセージを見た。
『このあと少し話がしたいのだけれど』
……。
ちらりと彼女を見れば、顔は伏せたまま、こちらには目をやらずじっとスマホの画面を見つめていた。
仕方がないので、俺もメールで『分かった』とだけ返した。
*
部室を引き揚げて、とりあえず自転車を取りに向かった。幸いにも雨はやんでくれたらしい。雲の切れ間からとはいえ、日の光を見るのは随分と久しぶりな気がする。
俺が駐輪場から自転車を引っ張り出しているところで、駐輪場の横を通った橘が、指で校門の方を指した。
俺は急いで自転車を用意し、半ば駆け足で先を歩く彼女の方へ追いついた。橘は俺が追いついても、こちらには顔を向けず、澄ました様子で歩いている。
校門を出たところで、さて彼女はどこに行く気だろうかと覗えば、ツカツカと駅と反対方向へと歩いてゆく。五、六歩、歩いたところで門の前で立ち尽くしていた俺に向き直り、ちょいちょいと手招きをした。
俺は恭しく彼女の後を追った。
橘が向かったのは学校近くの小さな公園だった。雨上がりだというのに、ぬかるんだ広場で小学校低学年くらいの子たちが数名で遊んでいるのが見える。
橘は藤棚の下まで行き、そこで藤を見渡すようにしてから
「もうほとんど散ってしまっているわね」
と呟いた。
「……藤の花のことか?」
「ええ。私、結構好きなのよ」
「そうなんだ……」
多分初めて聞く話だ。
橘は少し口惜しそうな顔をしたが、「季節は誰にも止められないか。でも季節は変わるから美しいのよね」と誰に言うでもなく囁いて、そこでようやく俺に正対した。
彼女が口を開き言うには
「結論から言います。私はあなたとはまだ付き合えません」
「……そうか」
俺はそのまま踵を返してトボトボと歩き始めた。
「……あ……あ……あ……あ」
さてこの世界をどうやって壊してやろうか。手始めに霞ヶ関を破壊してからだな……
そんな俺に対し
「ちょっと、どこ行くの? まだ話は終わっていないのだけれど」
と橘は咎めるように言う。
「……え?」
俺はピクリと振り向いた。
見れば彼女の顔は、雲の切れ目から顔を出した夕日のせいで赤く染まっているように見えた。
そこで俯きがちに
「どうすればいいか分からないのよ。私、男の人と付き合ったことなんてないし、そもそも付き合うって言われてもよく分からないし……」
とボソボソ言う。
「……じゃあ、どうしたいんだ?」
俺はそんな彼女に聞き返す。
「だから、あなたに十回チャンスをあげる」
「チャンス?」
「そう。十回私とデートして、私を本気にさせたら、正真正銘あなたの恋人になってあげてもいいわ」
彼女は揚々とそう宣言した。
「……十回デートしたら恋人になってくれるっていうのか?」
「私が本気になったらね。言うなればこれは試用期間なのよ。あなたと私との間で仮の恋人契約を結ぶということね」
「……じゃあ、まだ振られたわけではない?」
「そう取ってもらって構わないわ」
……。
「じゃあ、頑張る」
俺がそう言えば、橘はまるで上司が業務連絡の了解をするような態度で
「そう。頑張って頂戴」
と言ったのだった。
*
相談内容:【最近雨ばかりで、部活ができなくて寂しいです。なんとかしてください】
「祈祷師に頼んだらどうかしら」
「いきなり神頼みかよ。その神頼みすら人頼みだし」
「今から晴れるよ?」
「やめろ」
相談内容:【花丸くんは女の子を泣かせたときはどういうふうに対応していますか?】
「……そんなこと言われても、そんな経験ないしなあ」
俺が言った瞬間、橘と安曇がジトーっとした目を向けてきた。
「……なんだよ?」
「「別に」」
咳払いした橘が続け
「泣いてる女子には甘い物をやるのが、この男の常套手段よ。そんなので機嫌治すほど甘くないってもんだわ」
「お前も俺に甘くないけどな」
相談内容:【花丸先輩は年下好きだと聞きました。年下の女の子の魅力ってなんですか? ラジオネーム:世界一の後輩】
なんかこれ書いた人の顔が目に浮かぶようだけれど、気にしないことにしよう。
「……生憎だが、女性を年上か年下かという区分で括るのは無理があると思うし、一口に年下と言っても色々あんだろ」
「それに花丸くんはそもそも、年下好きじゃないしね。執行部の小生意気な一年生とデートなんて絶対にしないものね」
俺の醜聞を全校放送で垂れ流すのやめてね。
「うんうん。まるもん、萌菜先輩のこととかになると、めっちゃテンションあがるし、女の先生に用事言いつけられてるときとか、いつもヘラヘラしてるし、むしろ年上好きだと思う」
ちょっと、安曇さん?!
「……へえ」
橘さん、笑顔で足踏むのやめて。オープントゥのスリッパだから。ほんとに痛いから。