ひこうき雲
職員室に退部届けを出した帰りの廊下で、自動販売機の群れが横目に入った。
パックが八十円・ペットボトルが百円という一律設定は、高校生の懐事情をよく理解していると思う。
立ち止まった足が休憩を欲しているようだったので、兄のお下がりの革の財布をズボンのポケットから取り出した。
いつもの紅茶の前に立つと、現金な喉が渇き出す。
この一年半、目隠ししても買えるほど飲んだのに、まだこの指は飽きずに見慣れた青紫のレプリカの前に伸びるのだろう。
所詮、自分の未来など簡単に予想がつく程度でしかない、と多少自笑気味に百円玉を摘む。
無遠慮に耳に入ってくる背後の喧騒は、別段気に留めることもない、普段通りの光景だ。
ああ、俺以外の世界は穏やかなんだ、と百円玉を投入口に入れかけた瞬間、
「ゆーきっち君!」
チャリーン……。
右肩に受けた強い衝撃が、俺の手から百円玉を吹っ飛ばす。
「あ」
……という間に、硬貨は綺麗な弧を描き、隣り合う自動販売機との狭い隙間に吸い込まれていった。
「すまないゆきち君! 今すぐ私が取り出してあげよう!」
「ゆきやです、部長」
自動販売機の前でベッタリと腹を床に付け、二台の間に無理やり腕をねじ込もうとする無茶な人に、呆けつつもキッチリと訂正する。
苗字が福沢だからといって、お札の人と一緒にするのはやめてほしい。
一年半もの間、言い続けて直らないのだから無駄だろうとは思うけど。
俺は今日、部活を辞めた。
昨日までとは違い、この人は俺にとって、ただの一学年上の先輩のうちの一人になった。
だから別に、もう自分の名前を訂正する必要は無いのだけれども。
そこは、一年半もの間に染み付いた習慣の一つと言うか……。
「むっ!」
「取れたんですか?」
「無理だ!」
今更になって、強打された右肩がじわっと痺れてきた。
「財布は部室だ。よし、行くぞゆきち君!」
「あの部長、俺もう部活は」
「先方にはアポイント済みだ!」
「……はい?」
何がとか誰にとか聞きたいことは色々あったが、今は強引に引っ張られていく右腕が本当に痛かった。
そして部室に行くのかと思いきや、なぜか紅葉が綺麗な中庭に到着した。
本日の最高気温は十度。
初秋のこの時期、まだ寒さに慣れていない体には、若干辛い。
「あの、誰を待っているんですか」
俺の当然の疑問に、部長は歯切れ悪く、ある人名を口にした。
それは俺もよく知っている名で、肩書で言うなら副部長だ。
「……今度は何をしたんですか」
「なぜ私が悪い前提なのだい? たっ……多少激しい意見交換さ!」
「ただの喧嘩かよ……」
温厚な副部長を思い浮かべながら、俺はうんざりとため息をついた。
謝れば必ず許してくれるであろう副部長に、部長が謝罪をためらう理由がわからない。
あんなに優しい人なのに。
「来ませんね」
「しかたがない。今日はここで部活を始めるとしよう。これぞまさに一石二鳥!」
そういえばまだ退部したことを伝えてなかったな、と俺は話を切り出した。
「部長」
「どうしたゆきち君!」
「誠に恐れいりますが、俺は退部したのでひこうき雲の観察はお一人でどうぞ」
この破天荒な人が部長を努める部活の名を「ひこうき雲研究会」という。
帰るか、と立ち上がった俺の右腕が部長にホールドされる。
いつも手加減無しの全力でくるが、本当に痛いのでやめてほしい。
振り払うように腕を動かすが、部長が気にした様子はない。マジか。
「なななぜなんだゆきち君! 正当な理由がない限り退部は認められない決まりだぞ!」
「申し訳ありませんが、日がな一日、窓の外をボーと眺めるだけの毎日に意味を見出すことは出来ませんでした」
「待つ楽しみがあるではないか!」
「それに入部も……半ば強引というか……入部届けに帰宅部とはっきり書いてあったからサインしたんですけど。帰宅部が部員集めという口実に多少の不信感を感じながらも」
「帰宅部で良ければひこうき雲研究会でも良いではないか! 消せるボールペンという日本の素晴らしい文房具文化にケチを付けるつもりかい!?」
「今思い出しても、やっぱり詐欺ですよね」
「もう時効だよゆきち君!」
「詐欺の時効は七年です」
「これは一本取られたよ!」
全く悪びれなく笑う部長に、俺はまた大きなため息をつく。
まあ、こういう人だよな。
「というわけで、帰ります。腕、痛いので離してください」
「いいいや離さないぞー! ゆきち君にはぜひとも居てもらわなくてはいけない事情が!」
「痴話喧嘩に巻き込まないでください」
「君にも関係がある話だぞ!?」
はぁ? と聞き返そうとしたところに、副部長が現れた。
「幸也君?」
「こんにちは副部長。さっさと仲直りしてくださいあと俺を巻き込まないように部長に言ってください迷惑です」
「相変わらずだね、幸也君」
一気にまくし立てた俺に、副部長はふわりと笑う。
俺は顔を逸らしながら、右腕に張り付いた部長をはがし、副部長の前に押しやった。
「じゃ、俺は帰ります。いままでお世話になりました」
「幸也君?」
柔らかな声音が疑問系で自分の名前を紡ぐのを聞きながら、俺は逃げるようにきびすを返した。
部長と副部長は恋人同士だ。
俺が入部した時からそうだったので、それに疑問を抱いたことはない。
何かの折に、幼馴染だと聞いたことがある。
お互いの家が近いので、自然とそうなったらしいが、それにしても副部長は趣味が悪い……。
そこまで考えて、俺にはもう関係ないことか、と皮肉な笑みが浮かぶ。
不毛な恋に悩むのが馬鹿らしくなって、それでも好きな人の顔が見たいという欲望に逆らえずに、ズルズルと一年半も経ってしまった。
未練がましい己に嫌気が差し、バッサリと関係を断つことを選んだ自分は、逃げたと言われても反論はできない。
――いや……事実、逃げたんだろうな。
サッパリしたような、どこか胸に穴が空いたような気持ちを持て余しながら見上げた秋晴れの空は晴れやかなばかりで、ひこうき雲などどこにも浮かんではいなかった。
「……何を」
「身軽を装ってハァハァ一気に階段を駆け上ったらゲホゲホゲホ……」
自動販売機の前で息を切らしている部長を見た瞬間、無意識に声を掛けていた。
いつも通り不審な行動をしている部長の様子から、きっと副部長と仲直りしたんだろうなと思うと同時に少しだけ残念な気持ちが湧いてくる。
本当に俺は、未練がましい。
「そうですか」
部長の回復速度が不明なため、待つという選択肢はない。
そもそも、待ったところで部長と俺はもう他人同士だ。
立ち去りかけた俺の右腕が、強い力で掴まれた。
「待ちたまえ!」
バン!と自動販売機を叩いた部長に、驚いて振り返る。
ゴトンと何か落ちる音がして、思わず自動販売機の無事を目で確認する。
すると部長が、俺の腕を掴んだまま器用にしゃがみ込み、商品取出口から何かを取り出した。
それは、見慣れた青紫色のラベルがついた、俺のお気に入りの紅茶だった。
「副部長とは別れた」
印籠のようにペットボトルを掲げながら、部長ははっきりとそう発音した。
俺はというと、部長の言葉をうまく飲み込めなくて棒をのんだように立ち尽くす。
そんな俺に構わず、更に部長は言葉を重ねる。
「君が好きだ」
開け放たれた窓から入ってきた少し冷たい風が、部長の長い黒髪を揺らす。
女性にしては強い握力で握られ続けた俺の右腕は、すでに痛みを訴えていた。
「私と付き合ってくれ、幸也君」
右手に押し付けられたペットボトルは熱い。
「なぜ……」
混乱してそれしか言えない俺に、部長はニカっと白い八重歯を見せる。
一年半前、俺が一目惚れした笑顔だ。
「君と一緒に見るひこうき雲は、いつだって最高だった」
部長が指差す窓を見ると、低い雲が並ぶ秋晴れの空に、ひこうき雲がゆったりと伸びていくところだった。
「これからも、きっとそうであるのだろうなと思ったら、もう止まらなかった」
「本当に……変な人ですね」
穏やかで頭脳明晰、将来有望の副部長ではなく、目立った取り柄がない俺を選ぶ辺りが特に。
それとも、恋とはそういうものなのか。
不思議そうに小首をかしげた部長の、綺麗な黒髪がサラリとなびく。
その動作に見惚れながら、この変人を一年半も思い続けてきた俺が言う資格はないとの結論に達する。
そして後に残ったのは、まるで秋晴れのような爽やかな気持ちだ。
俺はまた、己の現金さにあきれながら、負けを認めるように頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「任せておけ!」
間髪入れずに聞こえた偉そうな返事に、俺は思わず顔を上げる。
そこに居たのは何の変哲も無いいつも通りの部長で、こうなったらとことん付き合ってやろうと決めた俺は、変人から恋人に格上げされた部長に向かって破顔した。