プロローグ
熱い。
意識の底から這い上がってきた最初の感覚は、喉を焼くような渇きと、肌を舐める不快な熱気だった。
「……っ、げほっ、……あ、……」
ラグナは、ひび割れた石畳の上で身悶えした。
肺に流れ込む空気は、煤と煙、そして鼻腔を突く焦げた潮の香りに汚染されている。
おかしい。つい先ほどまで、自分は二階の自室で昼寝をしていたはずだ。
窓の外からは、入り江を撫でる穏やかな潮騒の音が聞こえ、高台のリンゴ園からは、熟した実の甘い香りが風に乗って届いていた。
お父さんの畑仕事を手伝い、お母さんが焼いてくれたパンを食べ、ご褒美にもらった真っ赤なリンゴを半分、大好きな近所のお兄ちゃん――レミィに残しておこうと机に置いた。
そんな、どこにでもある、ひどくありふれた「幸福な午後」の中にいたはずだった。
「……あ、……赤、い……?」
薄氷を踏むような危うい意識で、ラグナは目を開けた。
視界を埋め尽くしていたのは、大好きだった青空ではない。すべてを飲み込むような黒煙の渦と、天を焦がす様な赤黒い炎だった。
自慢だったリンゴの木々は、葉の一枚一枚までが火の粉を散らして燃え盛り、まるで断末魔の叫びを上げるように爆ぜている。海を見下ろす美しい高台の町は、今や巨大な火葬場と化していた。
呆然とただ見ていることしか出来なかった少女に、足早に一人の少年が近づく。
「ラグナ! 大丈夫か!?」
返事を待たずに煤まみれの腕が、ラグナの身体を乱暴に抱き上げた。レミィだ。
いつも明るく、ラグナが密かに憧れていたその人の顔は、今は恐怖と焦燥に歪み、あちこちに火傷の痕が痛々しく刻まれている。
「レミィ、お兄ちゃん……お父さんは? お母さんはどこ……?」
「……今は、逃げることだけを考えよう! 大丈夫だ、必ず会える!」
レミィは彼女を抱えたまま、火の海の中を駆け出した。だが、逃げる道すがら、ラグナは見てしまった。この世のものとは思えない蹂躙の光景を。
石造りの商店街が、何の前触れもなく、横からとてつもなく大きな衝撃を受けたかの様に弾けて行く。逃げ遅れた村人たちの悲鳴がかき消されるほどの轟音。かつてお店だったものは空高く宙を舞い、瓦礫となって降り注ぐ。
海へ逃げようとした人々は、さらに凄惨だった。空中を歩む白銀の髪の男が、退屈そうに指先を振る。その瞬間、船上を青い炎が舐め尽くした。男が再び腕を振るうと、炎は一瞬にして半透明の「黒の氷」へと変わり、波ごと人々を凍結させた。
そして、呼吸を置く間もなく。絶対零度の氷像となった彼らに、不可視の衝撃が走る。
物理法則を無視した圧倒的な暴力に、凍りついた「人間だったもの」は、ガラス細工のように脆く砕け散り、キラキラと輝く塵となって消えていった。
「……ああ……あ、あ……」
たった十一歳の少女の眼前には、理解を絶する絶望が連なっていた。ラグナの喉から、声にならない呻きが漏れる。
そんな惨状の中でも、レミィは必死に平静を保とうとしていた。彼はラグナを抱えたまま、崩れかけの建物の陰へ滑り込む。
「はぁ、はぁ……ラグナ、いいか。裏の山まで逃げるんだ」
レミィがラグナを地面に下ろす。既に行き手は異形の影――魔人たちで埋め尽くされていた。二人で逃げるのは不可能だと、少年は悟ったのだろう。
「え……お兄ちゃんは?」
「すぐ追いつく。だから、行け……!」
それは、あまりに下手な嘘だった。そして、尊い犠牲の精神すら、それらの破壊者たちには届かない。
「……まだそこにいたか」
頭上から、低く濁った声が降ってきた。
漆黒の皮膚を持つ怪物が建物の上から覗き込んでいた。建物は3階建ての家。すでに少女の理解力は優に超えていた。
視線が合った瞬間、ラグナの心臓が凍りつく。時間が止まったかのような静寂。
直後、建物が何の前触れもなく、内部からひしゃげるように倒壊した。
ラグナは理解できなかった。迫りくる巨大な瓦礫の塊を、ただ呆然と見上げることしかできない。
「ラグナ!」
レミィが間一髪、ラグナを力いっぱい突き飛ばした。
彼女が地面を転がるのと同時、轟音と共に、彼がいた場所は瓦礫の山へと消えた。
「が……あ、あああああっ!?」
レミィは下半身を巨大な石材に押し潰され、逃げることすら叶わぬまま瓦礫の下敷きとなった。ミシミシと骨が悲鳴を上げる。
「レミィお兄ちゃん!」
「くるな! 行けッ……早く……っ!」
そこへ、白銀の髪をなびかせた魔人が、羽毛のように優雅に舞い降りる。彼は足元の惨状を一瞥し、指を鳴らした。
「……消えろ」
レミィの身体が黒の氷に閉ざされ、次の瞬間、魔人の不可視の圧力がそれを粉砕した。
耳を劈く硬質な破壊音。
ラグナの頬に、弾けた氷の破片が突き刺さる。熱風の中、残酷に輝きながら氷片が舞い落ちていく。
「…………ぁ、……ぁあああああああああああああッ!!!」
ラグナは泥の中に突っ伏し、血の混じった土を掻きむしりながら叫び続けた。
涙は熱風に蒸発し、視界は赤く滲む。だが魔人たちは、その慟哭を歯牙にもかけない。
彼らは、ラグナの横を無関心に通り過ぎていった。
殺す価値さえない。ラグナという存在は、彼らにとって、道端の石ころや、踏み潰すまでもない虫けらと何ら変わりないのだろう。
「撤収だ」
そう銀髪の魔人がいうと巨躯の魔人を始め、広場にたむろしていた魔人たちはけらけらとあざ笑いながらその場を後にした。
魔人たちの去った後、燃え続ける町に、波の音だけが虚しく響く。
そして涙が溜まった瞳の先は、先ほどまで魔人たちが跋扈していた街の広場に移る。
そこには、見慣れた両親の、もはや人としての形を留めぬ遺体が横たわっていた。
ひとり残された少女の慟哭は、次第に低く、重い、呪いのような呻きへと変質していく。
「う……あっ…あぁ」
お父さんを返して。お母さんを返して。レミィお兄ちゃんを返して。
もう、誰もいない。何も残っていない。
あるのは、頬を伝う熱い血の感触と、鼻を突く腐ったリンゴの臭いだけ。
「…………」
不意に、声が止まった。ラグナはゆっくりと身体を起こした。
泥と灰にまみれたその瞳からは、十一歳の少女が持つべき光が、完全に消え失せていた。
頬に刺さったレミィの破片を、震える手で引き抜く。鋭い痛みが、彼女の心を「復讐」という名の鋼に変えた。
「……絶対に、許さない」
かつては愛し、今は呪うべき故郷の海を背にして。
少女は、子供であることを捨てた。
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ふと、目が覚める。
鳥のさえずり。木々のさざめき。
頬を撫でる朝の空気はどこまでも澄んでおり、彼女の瞳には自然豊かな大地がどこまでも続いている。
もう何度見たかわからない夢だ。
目覚めるたびに、あの日の焦げたリンゴの臭いが鼻をかすめる。
あれ以来、彼女にとっての唯一の生きる意味は、一つ。
「……私があいつらを、殺し尽くす」
頬についた小さな傷跡をなで、手元にある細剣の鞘を強く握りしめる。
あの日故郷を焼き尽くした魔人だけではない。
いまだに飽きもせず戦争を続ける人間。
今もぬくぬくと国に居座る呑気な連中が、まともな警備を配置さえしてくれていたら、こんな結果にはならなかったかもしれない。
傲慢な使徒や、人の猿真似がうまい機械――もう何もかもが憎かった。
この世界のすべてが、あの日の地獄をまるでないもののように無視して回り続けていることが耐えられない。
かつてはあどけなく笑っていた少女。
くすんだ赤髪の下で、可愛らしい面影は、漆黒の殺意によって塗りつぶされていた。
彼女の旅が、始まる。
世界を救うためではなく、世界を終わらせるために。




