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朝の恋人

作者: 日進 月歩
掲載日:2026/02/15

ずっとネタとして残っていて、なかなか物語にすることができませんでした。

ようやく形ができて、こうして公開することができて安堵しています。

読んでいただけますと幸いです。

美術室は、いつも少し冷えていた。

放課後になっても、窓から差し込む光は弱く、石膏像の白だけがやけに浮いて見えた。

部長はほとんど喋らない人だった。必要な指示だけを短く告げ、それ以外の時間は黙ってキャンバスに向かっている。その背中を、私はいつも少し離れた場所から眺めていた。近づけば邪魔になる気がして、でも目を離すこともできなかった。

不思議なことに、部長の描く絵は、本人とは正反対だった。

線は細く、色は淡く、触れれば溶けてしまいそうなほど繊細で、そこに描かれた人物や風景は、どれも静かに息をしているように見えた。どうして、あんな絵が描けるのだろう、と何度も考えた。


「モデルになってくれないか」


私がモデルを頼まれたのは、夏の終わりだった。最後のコンクールだから、と彼はぶっきらぼうに告げた。一度も視線が合わないまま、淡々と。

断る理由はなかった。部長が普段見ている世界にモデルとして足を踏み入れていいのだと嬉しかった。


「自然体でいてくれ」


そんな風に言われ、私はどうしようかと悩んでいると、雲ひとつない青空が目に入った。窓を開けると、朝の光が一気に流れ込んできた。冷えていた美術館の空気が、わずかに揺れる。

頬に触れた光は思いのほか柔らかく、まぶたの裏まで透けるようだった。

私は目を細め、深く息を吸う。

外の匂いがほんの少しだけ混じる。それだけで、胸の奥が静かに澄んでいく気がした。

絵を描いている間、部長はほとんど瞬きをしなかった。その視線が力強く、私自身に注がれてゆく。痛みさえ感じてしまいそうだった。

筆がキャンバスを撫でる音だけが、室内に響いていた。

迷いのない線が、私の輪郭をなぞっていく。ときどき、絵の具を混ぜるかすかな音。青と白が溶け合い、光の色が生まれていく。


彼の視線は、私の表情ではなく、その奥にある何かを探しているようだった。

ただ座っているだけなのに、内側を覗き込まれている気がして、

胸の奥がひりつく。


けれど、不思議と目を逸らしたくはなかった。



コンクールの結果が出たのは、秋が深まる頃だった。

美術室の掲示板に、紙が一枚貼られただけだった。

金賞、銀賞、奨励賞。

部長の名前は、そのどこにもなかった。

誰かが小さく息を吐き、誰かが慰めるような言葉を落とした。けれど部長は何も言わなかった。ただ一度だけ、自分の絵の前に立ち、ほんのわずか、肩を落としたように見えた。


「いい絵だったのにね」


そう言ったのは、誰だったか。

私は何も言えなかった。

あの視線の強さも、静かな呼吸も、紙切れ一枚で測れるものじゃないと、言葉にできなかった。

それから、部長は美術室に来なくなった。

キャンバスはそのまま置かれ、絵の具も筆も、使いかけの状態で時間だけが積もっていった。

冬が近づき、窓から入る光はさらに白く、冷たくなった。

訃報を聞いたのは、朝だった。

廊下で、担任が低い声で告げた。

事故だったのか、病気だったのか、詳しいことは誰も知らない。

ただ、「亡くなった」という事実だけが、乾いた音を立てて落ちてきた。

私はその日、美術室に行った。

石膏像は相変わらず無言で、窓辺の光も変わらなかった。けれど、あの背中はどこにもなかった。絵を描く人の気配だけが、抜け殻のように残っていた。


それから、季節は静かに進んだ。

黒板の端に書かれる日付だけが、確かに変わっていく。

教室の席替えも、模試の結果も、進路の話も、

どれも私の外側で起きているようだった。

美術室の前を通るたび、扉は閉じたままだった。


卒業式を翌日に控えた午後、私は校舎の中を歩いていた。

特別な用事があるわけじゃない。

ただ、気づけば足が、知っている場所へ向かっていった。


階段の手すり。

掲示板の角。

窓際の床に落ちる、四角い光。


どれも、少しずつ色あせているのに、触れれば、まだ温度が残っていそうだった。

美術室の前で、私は立ち止まった。扉は閉まっていて、中は見えない。けれど、冷えた空気や、絵の具の匂いを、身体は覚えていた。

あの夏の終わり、「自然体でいてくれ」と言われ、私は椅子に座り、ただ朝の光を浴びていた。

それが、誰かの中でこんなにも長く残るものになるとは、そのときは思いもしなかった。

廊下を抜け、階段を下りる。足音が、やけに大きく響く。

学校の玄関に入ると、すぐに曲がり角がある。その先にある壁に大きな一枚の絵が飾られていた。

足が、止まった。そんなはずはない。ここはただの学校で、過去の作品が無造作に飾られる場所のはずだった。

それでも、視線は自然と引き寄せられていく。


「…あ」


思わず声が漏れた。


額縁の下に、小さなプレートが添えられている。

作者名と、卒業年度。

その下に、作品名。


――寄贈:春永悠馬 卒業生

『朝の恋人』


一瞬、その言葉の意味がわからなかった。


恋人。

私たちのあいだには、一度も使われなかった言葉だ。

私は、彼の絵のタイトルを、何ひとつ知らなかった。

完成した絵を、きちんと見ることすら、なかった。

だから、今になって、わかってしまう。

あの静かな視線が、ただの観察ではなかったこと。

あの朝の光ごと、私はここに残されていたのだと知る。


言葉にされなかった気持ちが、遅れて、名前を持つ。

それだけで、胸の奥が、静かにほどけていった。涙が溢れ出した。


ーーーそこには、白に溶け込むように淡く滲んだ朝の光が差し込む教室の窓辺。そして、海のように深く青い双眸をわずかに細め、誰かに微笑む朝田結衣()がいた。

いかがでしたでしょうか?

よければ、感想を書いていただけると喜びます。

よろしくお願いいたします!

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