オレンジを隠すムスク
病気の描写があるので苦手な方はご注意ください
ふとした瞬間、香りが変化したことに気付く。
目の前にいるのは数年連れ添っている旦那様。
最初は一族同士の政略。
医療を優先して領地運営をしているが他国との繋がりが弱い私の家と、貿易を主軸として、稀に発病する風土病に悩まされる彼の家は、お互いに不足しているものを補うように結び付いた。
政略といえども、ゆっくりと、確実に絆は深めていた筈だった。
お互いの意見や習慣を摺り合わせて、誤解を招くことがないように何でも話し合える関係だったのに。
ここ最近、視線が合わなくなった理由を予想して溜息を吐いた。
実家に手紙を送っているが、芳しい返事がこない。
「ソフィア、悪いが寝室を分けてくれ」
そう宣告されたのは何か月前だったか。
「私が、何かしてしまいましたでしょうか?」
「君は何も悪くない、少し距離を置きたいんだ」
鳶色の瞳も、月光を弾くブロンドも変わらない。
ただ顔色だけは以前よりも白くなった。
旦那様は分かりやすい。
結婚した当初から、隠し事は上手くない人だった。
以前は柔らかく笑っていたが今は少し硬い表情。
いつも爽やかなオレンジの香水を好んでいたのに、今は甘くスパイシーなムスクの香りが漂う。
「明日からは、食事も別にしよう」
寝室を分け、ティータイムをなくし、唯一会話ができる場所が食事の席だった。
いつも通りに夕食を終えた時に言われ、静かに目を伏せる。
旦那様の周りに置かれる灯りが減っていた。
―この時がきてしまった。
本当に、分かりやすい方だ。
夜中、実家に充てて再び手紙を認めた。
どうか、間に合いますように。
震えそうな指で封蠟をする。
窓の外、眺めた月は静かに輝いていた。
♦♦♦
旦那様と顔を合わせなくなって一か月経った。
実家からの返信と掌に収まる小箱が届き、祈るような気持ちで封を切った。
「……間に合った」
「奥様?如何なさいましたか?」
「実家からとてもいい報せが届いたの。旦那様に会いに行くわ」
「けれど、旦那様からは取り次がぬようにと……」
侍女が言い淀むがもう気にしない。
この一か月、何度も面会を申し込んでは却下されてきた。
妻でありながら会えないもどかしさと、執事のローランを始めとした使用人達の忠誠心に感心した日々だった。
「ええ、分かっているわ。本当に、優しい方よね。でも、私はそれに怒っているのよ」
引き留めようとする侍女を置いて足早に旦那様の部屋に向かう。
ローランがいない時間帯だということは把握していた。
「失礼いたします」
驚く使用人達の引き留める声を無視して寝室のドアを開く。
「……ソフィア」
「旦那様、私は怒っております」
青白い顔で、ぐったりとベッドに横たわる姿に安堵と悲しみと、ほんの少しの憤りが沸き上がる。
ベッドに近付き、一か月前より細くなった手首を掴む。
静かにリズムを刻む、小さな小さな動きが愛おしい。
「怒り……そうだな、離縁してやれば良かったな、こんな状態じゃ……」
「旦那様はお勉強が出来るだけの朴念仁ですわね。離縁を切り出されたら旦那様のジュストコールの背中全てに大きな羽根飾りをつけるところでしたわ。袖にはレースも勿論縫い付けてね」
かさついた手の甲を包んで撫でると、旦那様は小さく笑った。
「それじゃあ、言わなくて良かったな」
「離縁についてはそれで良くても、病の事を隠した、というのは許せませんわ。私達は確かに政略結婚でしたが、尊重しあって夫婦として生活していましたもの」
負担にならないように、ベッドに浅く腰掛けて旦那様の瞳にかかる髪を払いのけると、病人独特の香りがした。
爽やかなオレンジでも、むせ返るようなムスクでもない、暗い影を落とすような香りだ。
「高価で、手間がかかる薬だとお分かりだったのでしょう?―馬鹿にしないでいただきたいわ。私の一族は、病を克服する意志の強さを何よりも重視していたつもりです」
鳶色の瞳が揺らいで私を見つめている。
いつもその視線は真っ直ぐで、嘘を吐かない誠実さに、相手に恵まれたと感謝していた。
「高価ですけれども、借金をする程ではございません。この先数年、私に割り当てる予算を削ればいいのです。ドレスなんて新作を誂えなくても死にはしません。今も着るものに困ってはおりませんし―貴方がいなくなってしまうなら、新しいドレスなんていらないんですよ……」
「それは困る。君にはもっと着て欲しいドレスが沢山あるんだ。柔らかな茶色のドレスは君のダークブロンドによく似合うだろう。金糸で飾ると更に君を引き立てるドレスになりそうだ」
少し笑ってから疲れたように深く溜息を吐いた旦那様に、実家からの小箱を掲げて見せる。
「この先何着だって、結婚記念日には最高級のドレスを仕立てていただきたいわ。私の怒りが収まるまでは」
「そうか、君は怒っているか」
いつも、私が怒ると旦那様は困ったように笑う。
呆れではなく、仕方がない、と私の我儘を楽しむように。
その余裕が羨ましく、悔しかった。
この人はいつだって、その余裕で私を置き去りにしようとする。
私の気持ちなんて、想像もしていないように。
「心配するのも、看病するのも、辛さを分かち合うのも、私だけの権利ですもの。その権利を邪魔されたんですから、私は怒っています」
気を遣うところが違っています、と呟けば旦那様は「ごめんよ」と小さく呟いた。
「……高価だが、借金をする程ではないか」
「ええ。先代の頃ならこうはいかなかったかもしれません。けれど、沢山の人々を救う為に私の一族は日々研究しているのです。何も言わなかった旦那様に私の両親も兄も怒っています」
旦那様の生きる事を諦めたような態度を、彼等はきっと怒るだろう。
一族の研究を何だと思っているのかと。
なるべく値段を抑えて皆が薬を手に入れられるようにしていた努力を知っているはずだと。
「それは、申し訳ないな」
「そう思うなら、しっかり治して、久し振りに会いに行きましょう。兄からのお説教は甘んじて受け入れてくださいね」
「……そうだな」
小箱の包装を解いて、液体が入った小さな瓶を旦那様に差し出す。
「私は、助かるのか」
「……ここで負けたら、許しません。負けたら黄色のジュストコールですよ」
私が言うと、旦那様は青白い顔のまま、けれど楽しそうに笑った。
「紳士たるもの、礼節を弁えた服装を希望するよ」
「五十年早いのです。私は子供は三人は欲しいです。貴方と名前を決めて、成長を見守りたい。そして、最期は貴方によく似合うジュストコールを選んで、皆でお見送りと決めているんです。貴方は一人で進んでしまうから、私はゆっくり後を着いて行きますね」
旦那様がゆっくり上体を起こした。
背中に手を添えるとその細さに背筋が冷たくなり、手が震えそうになるが平然を装い瓶を旦那様の手に握らせた。
旦那様の震える手を支えるように、ゆっくりと瓶を口元に近付けていく。
喉が動き、滑り落ちる液体に安堵を覚える。
「……苦いな」
「特別苦くしていただきました」
それくらいの意趣返しは許されるでしょう、と言えば旦那様は微かに笑った。
「ありがとう……頼りなくてすまなかった。……明日も、来てくれるかい?」
「ええ、毎日看病に参りますね、アドリアン」
また、彼からオレンジの香水が漂う日も近いだろう。
終
個人的には何も言われない事の方がしんどいのです。
架空の病気なのでふわっとさせてますん。
★登場人物★
ソフィア(24)・・・ダークブロンド、ライトブラウンの瞳。怒ってもあんまり迫力ない。今回も怒っているのに迫力ない。クローゼットにはちゃんと羽根飾り用意済。
アドリアン(26)・・・ブロンド、鳶色の瞳。飄々としていて弱みを見せられない。ソフィアにはいい恰好したい。




