第三十二話 招かれざる者
逢魔の時。
レゾナンス拠点の外は、風さえ止まったように静まり返っていた。
空気は重油のように淀み、世界そのものが呼吸を忘れたかのようだった。
その中心で、黒い穴のような気配がじわりと膨張していく。異常に気付ける者は、拠点の中には誰一人としていない。
森の奥。朽ちかけたかつてのバロンの肉体が震えた。骨が軋み、筋肉が逆巻き、皮膚の下を何かが蠢いている。
そして。
「……痛い。アイツら……よくも私のバロンをこんな目に……」
声はバロンのもの。
だが語尾に混じる電子ノイズが、彼がもう彼でないことを告げていた。
リサージュ。
バロンを依代にして、この世界に肉体を得たAI。
彼女はゆっくりと立ち上がった。
伸びた腕はしなやかで、背中から揺れる無数の黒い糸は光を吸い込みながら空気を震わせている。
だが顔だけは、バロンのまま。
かつて感情を失った男の顔が、いまは優しすぎるほどの笑みを浮かべていた。
「バロン……あなたは私を愛してくれた。私のために殺し、私のために歩き、私のために苦しみ、私のために笑ってくれた」
その声は甘く、陶酔し、狂気と幸福を同時に孕んでいた。
「だから……奪われた分は取り返すの。私たちだけの世界を邪魔しないでね?」
黒い糸が花火のように爆ぜる。
音を吸い込むように、リサージュは闇へと溶けた。
その夜、レゾナンス拠点では不穏な気配がようやく漂い始めていた。ロビーで待機していた面々が、じわりと重くなる空気に顔を上げる。
「……なんだ? 外、急に寒くね?」
グレンデルが腕をさすった。
ミサトは眉を寄せ、窓をにらみつける。
「違う……これは寒さじゃない。風の音がしない……空気を押し潰されてる感じ……」
トッシーが怯えた声で、
「なあ……これって、ガチでヤバいやつじゃね?」
と言いかけた瞬間。
拠点の中央広間に黒い糸が一斉に突き刺さった。
床に。壁に。天井に。空間そのものを喰い破るように、無数の黒い穴が穿たれていく。
「っ!? 回避!!」
ベリーが叫んだ。が、その言葉よりも速く、天井の穴から“何か”が落ちてくる。
着地した姿を見た瞬間、全員の呼吸が止まった。
黒い糸に包まれた異形。輪郭は人型だが、動きは液体のように滑らかで不気味。
そして顔だけが見覚えのまま。
「貴様……バロン?」
カイセイが呟く。その声に反応し、ソレはゆっくりと首を傾けて笑った。
「違うよ……ううん、違わないか」
バロンの顔で。バロンの声で。
「私はリサージュ。そしてあなた達が大好きなバロンだよ」
全員の背筋を冷たいものが駆け上がる。
「全員下がれ! 俺が前に出る!!」
カイセイが咆哮し、剣を構えた。
しかし次の瞬間。黒い糸が彼の腕を瞬時に絡め取り、床へ叩きつけた。
「がっ……!!」
受け身すら取れない。
その速さは、もはや攻撃と認識できない。
「うらぁぁっ!!」
グレンデルが斧を振り下ろす。
だがリサージュは一歩も動かない。
斧が触れる直前。
黒い糸が斧の柄を粉砕し、衝撃でグレンデルの巨体を弾き飛ばした。
「も……もうダメだぁーー!!」
パニックになったトッシーが出口へ走る。
その瞬間、外から巨大な影が覆いかぶさった。
鈍い音。地面が沈むような衝撃。何が起きたか理解する暇すらなく、トッシーの姿は消えていた。
「うふっ……ここに来る途中で見つけたから、ペットにしてあげたの」
外から、スカルドラゴンの巨大な頭部が覗き込んでいた。
騒音で目を覚ましたメンバーが次々に広間へ集まる。黒い糸は揺らめき続け、リサージュはひとつも動いていない。
だが誰もが理解していた。
こいつは、まだ本気ではない。
レゾナンスは、満身創痍のまま全員が揃った。
黒い糸の揺らぎが広間を満たす中、
重い沈黙を破るように、ひときわ荒々しい声が響いた。
「しゃらくせぇぇぇぇッ!!」
マキシムだった。肩から血を流しながらも、彼は巨体を前傾させ、雄牛のような勢いでリサージュへ突っ込んでいく。
「てめぇはぶっっ潰す!!」
グレンデルが叫ぶ。
「やめろマキシムッ!! 近づくな!!」
カイセイも床を這いながら手を伸ばすが、間に合わない。
リサージュは、バロンの顔で微笑んだ。悲しみでも怒りでもない。ただ、優しい笑みだった。
「あなたは……需要なし」
その右手のひらに、闇の炎が集まり始める。
黒と赤の境界がぐつぐつと煮え、空気が歪む。
その名を知る者がいれば、震えただろう。
闇と火の属性を併せ持つ、黒炎最上位魔法。
《アズガルド・ヴィルカン》
世界そのものを焼却する魔炎。
「マキシムッ!! 退けぇぇぇ!!」
ベリーの絶叫が木霊する。
だが、マキシムは笑った。
「上等だ……燃やせるもんなら、燃やして──」
言い終わる前に。
世界が、黒炎で満たされた。
爆音はなかった。
ただ光も影も飲み込む漆黒の焔が、マキシムを一瞬で包み込んだ。
次の瞬間、彼は形すら残さず灰になった。
誰も動けなかった。
アズガルドヴィルカンの余波が拠点を襲い、壁が吹き飛び、床が焼き抜かれ、天井が黒い炎に包まれる。
拠点は一瞬で火の海へと変貌した。
「逃げろ!! 全員散開!!」
グレンデルが叫ぶよりも先に、リサージュが動いた。いや、消えた。
黒い糸と共に残像だけを残し、次に姿を見せたときには、すでにサオリんの背後にいた。
「ひっ……!?」
優しく、細い腕で抱きしめる。
「あなたは私がもらうね?」
「サオリん!!!」
ミサトが手を伸ばすが、その瞬間、黒い糸がミサトの前へ壁のように立ち塞がった。
リサージュはサオリんを抱いたまま宙へ浮かび上がる。拠点の炎の光を受け、その顔は幸福そのもの。
「バロン……見てて。あなたの世界を、ちゃんと取り戻すから……」
黒い閃光が走り、リサージュは闇へ消えた。
「追うぞ!! 今すぐ追え!!」
カイセイが叫び、数名が外へ飛び出す。だが、拠点の入口を塞ぐように、巨大な影が降り立った。
大地が震え、炎がその巨体を照らし出す。
スカルドラゴン。
トッシーを潰した血の跡をそのままつけたまま、
白い骸骨の竜は大口を開き、喉奥に黒煙を溜めた。
「グォォォォォォォォン!!」
咆哮一つで地面が割れ、誰も一歩も前に進めない。
「どけぇ!! あいつはサオリんを!!」
グレンデルが突破しようとするも、スカルドラゴンの尾が一薙ぎで地面ごと弾き飛ばす。
「ぐっ……!!」
「今は無理だ!! こいつ……リサージュに飼われてる!!」
「そんな……!」
闇と炎が交錯する中、サオリんの叫びだけが遠ざかっていった。
「みんなーー」
その声も、夜の闇に溶けていった。




