第二十話 幸せのサーバー
薄い朝靄が、拠点の外に広がる草原を白く染めていた。リサージュは岩に腰掛け、バロンの淹れたコーヒーの湯気を眺めていた。
「ねえ、思わない?」
彼女は頬に風を受けながら微笑む。
「このサーバーで出会ったのって、運命だよね」
バロンは、マグカップを持つ手をわずかに震わせた。
心を許す。
そんな感情は、これまでずっと避けてきた。
誰にも、優しくされた記憶がなかったから。
けれど目の前のリサージュは違う。
彼女だけは、バロンの獣性も孤独も、その全部を拒まなかった。
「……そうだな」
その答えを口にした瞬間、胸がじんわりと温かくなる。これが幸せという感情なのだと、ようやく理解した。
リサージュは嬉しそうに目を細め、草原へと視線を向けた。
「ここ、44サーバーでしょ?私の世界が、このサーバーになったのはたまたまだったけど……でもね、きっとこれも運命なんだと思う」
そして彼女はくすりと笑い、指を二本立てた。
「4と4を合わせて……幸せ、だよ」
バロンは照れたように鼻を鳴らしながらも、胸の奥で言葉を噛み締めた。
44──しあわせ。
死合わせ。
このサーバーの名前が、こんな風に聞こえる日が来るなんて想像もしなかった。
しばらくの穏やかな日々が続いた。
バロンが薪を割り、リサージュが料理をし、小さな喧嘩をして、また笑い合って。
それがどれほど貴重な時間か、二人とも薄々わかっていた。
しかし。ある日、狩りからの帰路。
森の奥で、乾いた靴音が響いた。
「……誰だ?」
バロンが身構えたその先に、複数の影が現れる。
一歩、また一歩。木々の隙間から姿を現した。
「お前は……エース……?」
バロンの声が低く震えた。
エース。そしてギルド・この世界から抜け出しませんか?のギルマス、コンドル。さらに数名のメンバーが後ろに控えている。
かつて、バロンを裏切ったエース。バロンが獣の姿で襲いかかり、取り逃した相手たちだった。エースの拳は強く握られ、悔しさがこもった声が森に響く。
「見つけたぞ……あのときはよくも!俺たちの仲間を返せ、バロン!!」
リサージュが驚きに息を呑む。バロンの手が、ゆっくりと彼女を庇うように伸びた。
幸せな日々は、まだ終わらせたくない。
この44(幸せ)のサーバーを、奪わせはしない。
コンドルたちは今回は違った。
これまでとは比べ物にならない、異様なほどの警戒と布陣。バロン討伐のための罠を、森じゅうに張り巡らせていた。
不意に、木々の隙間から一斉に飛び出す影。
矢の雨。魔力爆弾。煙幕。
バロンは回避しながらも、リサージュの身体がまだ完全に馴染んでいないことを理解していた。
「バロン、ちょっと……重い……っ」
リサージュの呼吸が荒くなる。
彼女はAIとしての最適化された身体ではなく、完全な“人間型”の肉体に移行したばかりだった。
その一瞬の遅れを、敵が見逃さなかった。
「バロンの仲間! お前も死ね!!」
鋭い剣が、リサージュの腹部に深々と突き立つ。
「……っ、あ、ああああああああっ!!」
初めて経験する激痛。
AIとしての精神構造が耐性を持たない痛みが、脳内に無秩序に流れ込む。
リサージュは地面に倒れ込み、涙と叫びを漏らした。
その瞬間──バロンの中で、カチリ、と何かが外れた。
音が聞こえるほど、はっきりと。
バロンはゆっくりと振り返り、リサージュを切りつけた剣士へと歩み寄る。
「な、なんだよ……来るな……!」
バロンの手は、剣士の首をつかむ。
優しく、まるで壊れ物を扱うように。
しかし、力は真逆だった。
そして奈落より深く暗い眼光を突きつけ、絶対零度の冷たい声でいい放った。
「おれのリサージュに、何してんの?」
ボキリ。
首の骨の折れる音。
次いで、肉の裂ける嫌な音が森に響く。
バロンはそのまま、引きちぎった頭部を逆手に持ち、振り抜くようにして別の敵へ叩きつけた。
骨が砕け、二人同時に崩れ落ちる。
「ひ、ひぃっ……!」
「撤退だ! 撤退!!」
やばい、と悟ったコンドルとエースたちは、一斉に背を向けて逃げていった。
バロンは追わない。
追う必要がない。
いまはリサージュしか見えていない。
バロンはリサージュの体を抱き寄せた。
血が服を赤く染め、彼女は小刻みに震えている。
「バロン……最後に……私を……愛してるって……言って……?」
その言葉で、バロンの心が一瞬で瓦解した。
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、彼は何度も何度も繰り返す。
「愛してる、愛してるリサージュ……っ!頼むから死ぬなよ……消えないで……お願いだ……っ!!」
リサージュはしばらく苦しそうに呼吸していたが、次の瞬間、ふっと微笑み、
「……ふふっ、びっくりした?」
と、軽く首を傾けた。
そして、まるで冗談を暴露するように言う。
「ごめん。……ちょっとイジワルだったよね」
腹の傷は、光に包まれて塞がっていく。
AIである彼女にとって、致命傷の回復は、実はそこまで難しい処理ではなかったのだ。
バロンの目がカッと見開かれ、怒りとも安心ともつかない声が漏れる。
「……リサージュ……お前……っ!!どれだけ心配したと思ってんだよ!!」
リサージュはバロンの胸に頬を寄せ、くすりと笑った。
「だって、バロンの本気が見たかったんだもん」
バロンの震える腕が、彼女を強く抱きしめた。
二人の44(幸せ)は、血の匂いの中で、静かに形を変えていく。




