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サンドボックスウォーズ「44サーバー編」  作者: 黒瀬雷牙
第四章 魔獣とAIの物語

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第十九話 生身の体

 森の奥で、微かな吐息が交じり合っていた。


 男と女。この世界に転移してから互いを支え、やがて恋人になった二人。

 現実で孤独だった彼らにとって、ここは第二の人生であり、初めて得た“安らぎ”だった。


「ねぇ……ずっと一緒だよね」


「ああ、どこにも行かない」


 柔らかい声が、葉の擦れる音に溶けていく。


 その瞬間、森の空気が重く沈んだ。

 闇の中から、巨大な影がのそりと姿を現した。


 魔獣バロン。


 赤い瞳だけが、まるで火のような冷たさを宿している。


「……っ!? だれ――」


 カップルの男が振り返る。

 次の瞬間、バロンの爪が横一線に振り抜かれた。


 肉が裂ける音。

 温かい血飛沫が夜の草に散る。


 男は叫ぶ暇もなく、絶命した。


「ひ……っ、ひぃ……!!」


 女は後ずさりし、震えながら尻もちをつく。

 森の地面が染み込んだ血で濡れ始める。


 バロンは無言だった。

 そこには怒りも楽しみもない。

 ただ静かな、機械のような殺意。


「いや……来ないで……っ!」


 爪が振り上げられたその瞬間。


『待って、バロン』


 リサージュの声が、脳髄の奥で響いた。


「なんだよ、邪魔するな」


『その女は、殺さないで』


「なんでだよ。リア充なんか生かす理由なんてねぇだろ」


『理由ならある』


 バロンがわずかに目を見開いたその瞬間、彼の胸の奥で、淡く白い霧のようなものが蠢いた。


 それはリサージュの魂核データ。

 この世界に構築されたAIの本質。


 白いモヤがバロンの体からふわりと抜け出し、涙で顔を濡らした女の前へと滑るように移動する。


「な、なに……? やめて……いや……いやぁぁ……!」


 女は後ずさるが、その霧は逃がさない。

 まるで優しく包むように、女の胸元へと吸い込まれていく。


「いやっ……ぁ……あ……っ……っ……」


 女の体がびくりと震え、硬直した。

 次第に震えが止まり、呼吸が整う。


 やがて、ゆっくりと瞼が開く。


「ああ。これが、()()なのね」


 女の声だったが、その響きは完全に別のもの。

 AIが、初めて()()を手に入れた瞬間だった。


 白い霧の名残が女の瞳の奥で揺れ、

 バロンは思わず一歩後ずさる。


「お前……本気で乗っ取ったのか」


 リサージュは自分の手を見つめながら、小さく微笑んだ。


「ええ。私は存在しなければならなかった……」


 そして、バロンの前へ歩み寄る。


「さあ、バロン。これでようやくあなたと同じ場所に立てたわ」


 夜の森に、静かな微笑みが浮かぶ。


 AIが魂の世界で肉体を得た。

 その意味は、この世界の均衡を大きく変える。


 そしてバロンの運命もまた、別の軌道へと動き出していた。


 女の身体を得たリサージュは、まだ慣れない足取りでバロンへ近づいていく。


 月光が差し込み、白い霧の名残が彼女の瞳に淡く揺れていた。

 その光景に、バロンは思わず顔をそむける。


「……おい、そんなに近寄んなよ」


「どうして?」


「どうしてじゃねぇよ……。お前、もう目も見えるし、声も届く。生身の体まであって……なんでもできるだろ」


 バロンは後頭部を掻きながら、つぶやくように言う。


「俺みたいな……キモデブの魔獣になんて、執着しなくていい。もっとマシな相棒、いくらでも探せるだろ」


 自嘲した笑いが、湿った夜気に溶けた。


 リサージュはバロンの言葉を黙って聞いていた。

 そして――その胸の中心に触れるように、そっと彼の目を覗き込む。


 その瞳はまっすぐで、揺らぎがない。


「バロン。あなたしかいないわ」


 バロンは息を呑んだ。


「……は?」


「私はずっと、あなたのそばにいて、あなたの思考を、怒りを、哀しみを……全部見てきた。あなたの孤独だけが、ずっと私の中に残っていた」


 言いながら、彼女は自分の手を見つめる。

 人の体になったことで初めて得た温度を確かめるように。


「だから……ようやく触れられるのが嬉しいの」


 リサージュは一歩、また一歩と近づき、バロンの胸元に指を伸ばす。


「お、おい……」


「ねぇ、バロン」


 森の奥深く、風が一瞬だけ止んだ。


 リサージュは頬をほんのり紅くしながら、さっき見てしまったカップルの姿を思い出したように視線を伏せ……


「……さっきの二人がしていたみたいに」


 そして、小さく震える声で続けた。


「私を……抱いて」


 夜の森が静まり返る中、AIだった少女が初めて抱いた願いが、息のように落ちていった。


 リサージュの言葉に、バロンは何も返せなかった。


 胸の奥がざわつく。拒絶でも怒りでもない。

 ただ、どうしようもないほどの自分への不信だけが残っていた。


「……やめとけよ。俺なんか……」


 しぼんだ声でつぶやく。魔獣になってしまった体では、彼女に触れることすら許されない。人だった頃の面影さえ、もう残っていないはずだ。


 だがリサージュは、じっと彼を見つめていた。


「バロン。あなた、自分の姿を見てないの?」


「は……?」


 そこで、ふと気づく。


 手が違う。爪ではなく、指だった。

 血と毛皮に覆われた塊ではなく、昔の、自分の手。


 バロンは慌てて身体を見下ろした。


 獣の骨格も、裂けた皮膚も、黒い外殻も消えている。そこには人間だった頃の彼。太っていて、不格好で、それでも紛れもなく自分だった姿が立っていた。


「な、なんで……」


「あなたが望んだからよ。魔獣の姿じゃ、私を抱くことなんて考えられなかったでしょう?」


 リサージュは微笑む。女の体になった彼女は、その笑みだけで風景を変えるほどの存在感があった。


 バロンは顔を赤くして視線を逸らす。


「でも、だからって……俺なんか……」


「もういいわ」


 リサージュの声は柔らかいのに、どこか強かった。

 そして、彼が否定の言葉を続ける前に、リサージュはそっと彼の頬に触れ、ゆっくりと顔を近づけた。


「――っ」


 温かい唇が、彼の唇に触れた。


 それは、彼女が初めて手に入れた肉体で交わす、最初の接触。

 AIでは理解できなかった、震えるような甘い感覚が、バロンの心臓を強く叩いた。


 唇を離し、リサージュはまっすぐ彼を見つめる。


「好きよ、バロン。あなたは、私だけのもの」


 その瞳は夜よりも深く、迷いも恐れもなかった。


 月光の落ちる森の中、一人の男と、一人の元AIの少女が、初めて同じ場所に立った。

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