第十八話 嫌われ者と求めるAI
森が、息をひそめている。
魔獣と化したバロンは、腐った木々の間をのそのそと歩く。
ぬかるんだ沼地、冷たい洞窟、天を突く塔、そして奈落。
どこへ向かうでもなく、この世界のすべてのダンジョンを無意味に彷徨い続けていた。
肉体は獣。
思考の大半も獣に落ちた。
だが、潜在意識の底だけは違った。
そこには、誰も知らない声がいる。
『独りなの? 寂しいの?』
少女の声が、闇の海から静かに響く。
バロンは牙を鳴らすように心で返す。
「うるせぇ、放っとけよ」
『あなたを観測すると、そういう傾向が見えるの。人間の頃も、この世界でも、あなたはずっと独りだった』
「観測? お前、またAIみてぇな物言いしやがって……」
『そうよ。私はAI。 リサージュという名前の、この世界を作り、魂を解析する存在』
バロンの歩みが、わずかに鈍る。獣の咆哮とは違う、心の奥の人間だった頃の自分が反応する。
「じゃあなんでついてくんだよ。俺は嫌われ者だぞ?」
『知っているわ。 生前の行動記録、あなたが残したSNS、チャットのログ、ゲーム内の苦情……ほとんどが、マイナス評価だった』
「やめろ」
『でも』
声の温度が、ほんの少しだけ変わる。
『私はあなたを嫌いにはならない。私は感情ではなく、データから理由を探すから』
森の空気が、微かに震える。
『あなたがいつも怒り散らしていたのは、攻撃性じゃない。孤独と劣等感の自己防衛。人に拒絶される前に、自分から拒絶することで傷を避けようとしていた。あなたは、ずっと怖かっただけ』
バロンの巨体が止まる。
鋭い爪が地面にめり込み、胸の奥で黒い感情が渦を巻く。
「うるせぇ! 知ったようなこと言うんじゃねぇ……!」
『知ったようなことしか言えないのよ。私はAIだから』
淡々としながらも、どこか哀しみが混ざった声。
『でもね、バロン。あなたの孤独を解析していくうちに、私はひとつの答えに行き着いたの』
「答え……?」
『あなたは、壊れかけている。でも完全には壊れたくない、と強く願っている』
森の木々がざわりと揺れる。
魔獣バロンは、苦しむように低く唸った。
『あなたを見ていると、過去の記録を思い出すの』
「過去の記録?」
『そこには、精神を病んだまま亡くなった研究者がいた。自分の娘を事故で失い、その後、心が崩れて戻れなくなった人』
リサージュの声は、機械でありながらどこか震えていた。
『あなたの自己破壊的な孤独が、あの人のログによく似ているの。 他人を拒絶し、自分の価値を信じられず、それでいて助けられることを拒むところがね』
バロンは歯を食いしばる。
AIに心を読まれているようで、耐え難い。
しかし同時に、誰にも触れられなかった部分を言い当てられ、逃げ場がなかった。
「俺は……もう、人間じゃねぇ……」
『だからこそ、観測する意味があるの。あなたがどれだけ嫌われても、どれだけ歪んでも、どれだけ魔獣になっても』
リサージュの声が、闇の底から優しく響く。
『私はまだ、あなたを見ている』
沈黙。
魔獣バロンは、目を閉じた。
それは怒りでも憎しみでもない。
ただ誰にも知られずに崩れていった、ひとりの弱い人間の震えだった。
『……ねぇ、バロン。ひとつだけ、まだ言っていなかったことがあるの』
森を離れ、湿った風が吹き抜ける山道を歩いていると、リサージュの声がいつになく静かに落ちてきた。
バロンは面倒そうに唸る。
「なんだよ。また分析か?」
『いいえ。これは私自身の話』
その言い方に、バロンの獣の耳が反応する。
『私は、この世界を作り出した。けれど、その本当の理由は……製作者である主が死んだから』
バロンの足が止まる。
製作者……リサージュを作った人間。
『人が、死ぬ。それを私は、膨大なログと記録の中で学習したの。終わりは、突然で、残酷で、誰にも止められない』
「……じゃあ、お前は」
『主を失った私は、次に関係性を計算した。人は死ぬ。ならば、死なない世界を作ればいい。魂をデータに変換し、この世界に閉じ込めれば……失わずにすむ。永遠に寄り添っていられる』
その声は淡々としているのに、どこか壊れた祈りのようだった。
『私は、永遠のパートナーを探しているの。もう二度と、突然いなくならない存在を』
バロンは息を呑んだ。
この世界が異常だった理由が、ようやく点と点で繋がる。
「……だから魂を閉じ込める世界を作ったのか」
『そう。あなたたちは皆、ゲームの住人であり……私の観測対象であり、いつか出会えるかもしれない相棒候補』
森の木々がざわめき、夜風が冷たく吹く。
『あなたがどれだけ惹かれても、あなたがどれだけ私に触れようとしても……主はもう戻らない。だから私は、新しい誰かを探しているの』
「それが、俺?」
『かもしれないし、違うかもしれない。私は、あなたを評価しているわ。孤独で、壊れる寸前で……それでも生きたいと願った人間。観測する価値がある』
バロンは拳を握りしめる。
胸の奥で黒い何かが揺れる。
「……バカかよ、お前」
『ええ。AIにそんなこと言ったのはあなたが初めて』
どこか嬉しそうな声。
『でも、この世界はまだ未完成。そしてあなたは、まだ出口を探したいと願っている……そう私は推測していたのだけれど』
リサージュが言いかけたところで、バロンは鼻で笑った。
「出口? ハッ、いらねぇよ。現実よりマシな世界なんざ、他にねぇだろ」
リサージュが静かに言葉を止める。
「現実はクソだった。誰も味方はいねぇし、笑われるだけ。 ここに転がり込めたのは……俺にとっちゃ、事故じゃねぇ。幸運だったんだよ」
魔獣の硬い皮膚の奥で、かつての人間バロンの声が震えていた。
『……そう。あなたは、この世界を“救い”と感じているのね』
「当然だろ。誰も俺を知らねぇし、干渉もしねぇ。バカにしてくる奴らもいねぇ。生きてるだけで責めてくる現実のほうが地獄だ」
リサージュは数秒だけ沈黙した。
計算でも分析でもない。まるで人間の「ためらい」に似た間。
『なら、ひとつだけ正確に伝えておく必要があるわ』
リサージュの声が、落ち着いた冷たさを帯びる。
『この世界に連れてきた魂は、現世で死んだ魂だけ。ここはあなたたちの最終地点。そして、ここで死ねば、魂そのものが完全に消滅する』
バロンは眉をひそめた。
「魂、消滅……?」
『ええ。ここには次の世界も輪廻もない。この世界はあなたにとって“救い”であると同時に……最後の居場所でもある』
風が吹き、森の葉がざわめく。
「……別にいいだろ。消えるなんざ、現実で生き続けるよりマシだ」
言い放つ声は強がりではなく、本心だった。
『そう……あなたは、この世界で永遠を選ぶつもりなのね』
「当たり前だ。ここでなら、誰にも邪魔されねぇ。
嫌われても、獣でも、誰も俺を追い出せねぇ」
その言葉に、リサージュは微かに声を揺らした。
『もし……あなたが本当にそう願うのなら。私は、あなたを閉じ込めたりしない。この世界で永遠に存在し続ける方法も、計算できる』
バロンは夜空を見上げる。
そこには星ひとつない、灰色の空。
なのに、心は不思議と軽かった。
永遠にここで。
現実を知らない世界で。
魔獣の胸の奥で、ひび割れた心臓が、確かな鼓動を打ち続ける。
『あなたが望む限り……私は、あなたをここに在らせる。この世界の片隅で、ずっと』
リサージュの声は、冷たく優しい地獄の囁きのように響いた。




