表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

幸せは、私が決める――逃げなかった妻の物語

作者: 雨日
掲載日:2025/11/12

「身体の調子はどうだ」

寝室に響く穏やかな声に、私は思わず笑みをこぼした。


声の主は――グユウ様。

私が仕えるシリ様の夫であり、ワスト領の若き領主。


「大丈夫です」

シリ様が頬を赤らめながら答える。


ここはレーク城の産室。

シリ様は、三週間前に二人目のお子をお産みになった。


ウイと名付けられたその赤子は、絹糸のような金褐色の産毛を持ち、

群青色の瞳をした愛らしい子だった。


その容姿は、まさしくお二人の血を受け継いだ証。


赤子を抱く二人の姿は、まるで春の日差しのように温かく、

見ているだけで胸が満たされた。


一年前も、シリ様は出産された。

その時に生まれた赤子は、金髪に青い瞳の女の子。


――父親は、グユウ様ではなく、

シリ様の兄、ミンスタ領主ゼンシ様。


あのとき、泣き崩れたシリ様を、グユウ様は大きな愛で包まれた。

誰もが諦めかけた夫婦の絆を、彼は必死に繋いだ。


幾つもの痛みを越え、ようやく、

この若い夫婦は本当の家族になった――そう思っていた。


けれど。


産室の扉を閉め、一歩外へ出ると、その穏やかさは一瞬で消えた。


廊下の端には、かき集められた武器と兵糧。

兵たちが慌ただしく行き来している。

金属音と怒号が、どこか遠くで響いていた。


――争いの匂いがする。


少しして、グユウ様が産室を出られた。

私と目が合う。


「グユウ様・・・」

声をかけると、彼はしばし黙り、俯いたまま言った。


「まだ体調が戻っていないシリには、内密にしてくれ」


「・・・はい」


それだけ告げると、グユウ様は静かに廊下を歩き去っていった。


その背を見つめながら、私は胸の奥で呟いた。


――戦が始まる。


部屋に戻ると、シリ様は寝台の上で静かに赤子を抱いていた。


その横顔をそっと見つめる。


穏やかで、幸福そのものの顔。


産まれたときからずっと彼女の傍にいたけれど、

これほど満ち足りた表情を見るのは初めてだった。


――神様、どうか、この穏やかな幸せが続きますように。


私は心の中で、必死に祈った。


けれど、その祈りが届くことはなかった。



翌日、グユウ様は産室に姿を見せなかった。


出産以来、一日に何度も顔を出していたのに。


最初は静かに待っていたシリ様の顔が、

昼を過ぎるころには、少しずつ不安の影を帯びていった。


扉を隔てた廊下の向こうからは、

いつもと違う――ざわめきが聞こえる。


武具の軋む音、兵の足音、低い声で交わされる命令。


空気が、重い。


「エマ・・・城内で何が起きているの?」


シリ様の問いに、私は答えることができなかった。


何も知らないふりをして、たたんでいた布に視線を落とす。


「エマ」

もう一度、名前を呼ばれる。


声にわずかな震えが混じっていた。


言葉を探していると――産室の扉が静かに開いた。


入ってきたのは、グユウ様。


その顔には疲労の色が濃く滲んでいた。


「・・・グユウさん」


安堵と嬉しさが入り混じったような笑みを、シリ様は浮かべた。


グユウ様は黙ったまま、寝台の隣にある椅子に腰を下ろす。


今日は、ウイ様を抱かない。


いつもなら真っ先に腕に取るのに。


「身体の調子はどうだ?」


その声は、どこか遠くを見ているようだった。


「今回は回復が早いです。明日には・・・もう寝室に戻れると思います」


シリ様の頬が、ふっと赤く染まる。


「・・・それは良かった」


グユウ様の声が、かすかに安堵で揺れた。


けれど次の瞬間、その瞳に決意の影が落ちた。


「エマ、外へ出てくれないか」


「・・・承知しました」


胸の奥で、何かが冷たく沈む。

私は無言で一礼し、産室を後にした。


――これが、終わりの始まりになる。


そんな予感が、背中を冷たく撫でていった。


扉を閉めたあと、私は動けなかった。


静まり返った空気の中で、声がかすかに漏れ聞こえてきた。


「・・・ゼンシ様が、シズル領を攻めた」


その名を耳にした瞬間、私は息を呑んだ。


廊下の灯が、わずかに揺れた気がした。

心臓の鼓動が早まる。


「兄上が・・・?」

シリ様の声は小さく震えていた。


「家臣たちは怒っている。・・・ゼンシ様を撃つことに決まった」


短い沈黙。


木の床が、風に軋むような音を立てた。


「明朝、出陣する」


グユウ様の声は低く、固く、悲しみに滲んでいた。


それは、シリ様の生家と争うことを意味していた。


私は、そのまま立ち尽くすしかなかった。


中へ入ってはいけない。

けれど、離れることもできない。


「・・・そんな」

シリ様の声が掠れた。


あの凛とした方の声が、まるで泣き出しそうに細い。


「この城を出てくれ。ワストが裏切ることをゼンシ様に知らせて――そのままミンスタに帰れ」


言葉の意味が、胸に突き刺さる。


――シリ様を、逃がす。


それが、どれほど苦しい決断なのかを、私は知っていた。


「・・・なぜ、そんな」


「生き延びるためだ。シリを、そして娘たちを守るために」


廊下の灯が滲んで見えた。

涙が頬を伝っていることに気づく。


扉の向こうで、布の擦れる音がした。

きっと、二人は近づいたのだろう。


「・・・グユウさん」


その声に、彼の息が乱れるのがわかった。


言葉にならない想いが、静かな産室を満たしていく。


私は目を閉じ、耳を塞いだ。


それでも、二人の声は心の奥に届いてしまう。


――想い合っているのに、別れを選ぶ。


それがどれほど痛いものか、想像もできなかった。


やがて、扉が静かに開いた。


春の風が、一筋、頬を撫でる。


その風の中に、シリ様の嗚咽が混じっていた。


グユウ様が私を見て、静かに口を開く。


「この後のことはジムに任せてある。・・・エマ、シリと娘たちを頼んだ」


彼の瞳は、切なげに揺れていた。


「グユウ様・・・」

思わず縋るように声をかける。


「エマ・・・頼む」


短く言い残し、グユウ様は静かに頭を下げて、廊下を歩き去った。


私は何もできず、ただその場で膝をついた。


――ウイ様が産まれて、幸せな日々が続くと思っていたのに。


神様は、なんてむごいことをなさるのだろう。


「エマ」


しばらくすると、静かな声が上から降りた。

見上げると、重臣ジムが立っていた。


「お話があります」


促されるまま、私はジムに案内され、奥の部屋へ入った。


ジムは落ち着かない様子で、壁際の椅子に並んで腰を下ろす。


――極秘の話なのだと、すぐに悟った。


「明日の朝、我々がゼンシ様を攻撃することはご存じですか」


「存じております」

そう答えると、ジムは小さく息を吐いた。


産室にこもっていなければ、聡いシリ様ならすぐに気づいたはずだ。


城の空気は、もう戦の匂いで満ちていた。


「グユウ様は、最後まで悩んでおられました。

争いが始まれば・・・シリ様が困ることを」


「だったら、止めてくださればよかったのに」

自然と声が震えた。


「どうにもなりませんでした」

ジムは首を振り、うつむいた。


「家臣たちの怒りは限界でした。

無断で街道を使い、約束を破ったゼンシ様を庇うことは、

ワスト領の民を見捨てるに等しい、と」


正論だった。


それほど、ゼンシ様の行いは重かった。


ミンスタ領出身の私でさえ、反論できなかった。


「グユウ様が支持を続ければ、家臣たちは背くでしょう。

そして、それは――領が割れるということです」


ジムは言葉を切り、扉のほうを見やった。


ここからが本題なのだと、私は悟った。


「今夜のうちに、シリ様とお子様方の荷物をおまとめください。

明日の朝、北門からゼンシ様のもとへ出発していただきます」


「逃げる・・・ということですか」


「はい。馬車と馭者をひとり、北門に残しておきます。

そこから領境の宿へ向かってください。ミンスタの家臣が待っています」


「そこで・・・謀反の報せを?」


「ええ。シリ様からの報告であれば、

ゼンシ様もすぐには剣を向けないでしょう」


「・・・そんなことをして、ワスト領はどうなるのです」


「わかりません。

ただ、グユウ様は――シリ様と子どもたちを生かす道を選ばれました」


私は何も言えなかった。


「そのまま、ミンスタ領へお逃げください」


ジムの声は静かで、どこか祈るようだった。


「ジム・・・あなたはミンスタ領の味方なのですか」

思わず問いかけると、彼はかすかに笑った。


「違います」


「エマがシリ様を想うのと同じように、私もグユウ様を大切に思っているだけです。

だからこれは命令ではなく、願いとして伝えます。

どうか――シリ様をお守りください」


「・・・わかりました。私にできる限りのことを」


短く礼を交わし、私は部屋を出た。


足が震えていた。


向かったのは、お二人の寝室。

そこは、いつも穏やかな空気に包まれた場所だった。


ワスト領の旗印が刻まれたティーカップが二つ、

ソファとローテーブルの上に並んでいる。


その傍らには、シリ様の好物――黄色いプラムの砂糖漬け。


ここで、あの二人はよく語り合っていた。

愛と夢と、未来のことを。


私は黙って荷造りを始めた。

嫁入り道具の箱に、最低限の衣を詰めていく。


衣類は嵩張るから、すべては持っていけない。


真っ先に、乗馬服を入れた。


これは嫁ぐ前、シリ様が最初に箱へ詰めたもの。


きっと大切な品なのだ。


そして最後に、ピンクのドレスと髪飾りをそっと畳む。


――グユウ様が贈ったもの。


服に興味を示さないシリ様が、唯一、大切にしていた衣装だった。


手を触れた瞬間、込み上げてくるものを必死で堪えた。


「・・・辛い任務だわ」


それでも、手を止めなかった。


やるべきことは、まだ山ほどある。


夜明けが、静かに近づいていた。



あくる朝、レーク城は争いを前に、張り詰めた空気に包まれていた。


産室もまた、静かながら異様な緊張に満ちている。


シリ様の頬は青ざめ、唇には、強く噛みしめた痕が残っていた。


その指先は、何かを握りしめるように固く震えている。


私は、ただそのそばに寄り添うことしかできなかった。


――今日で、レーク城を去る。


「私が・・・しっかりしていれば・・・」

シリ様が、悔しさを滲ませて呟いた。


ワスト領とミンスタ領の間を取り持つこと。


それが彼女に課せられた、姫としての務めだった。


けれど今、両者は剣を交えようとしている。


生家と嫁ぎ先が争う――それは、彼女にとって何よりもつらい現実だった。


扉が静かに開き、グユウ様が入ってこられた。


高い背に、紺の軍服。

肩に掛けた青いマントが、重々しく揺れる。

刺繍されたワスト領の旗印が、彼の背負う責務そのもののように見えた。


シリ様とグユウ様の瞳が、静かに交わる。


そこには言葉にならない想いが滲んでいた。


グユウ様は、二人の子どもをひとりずつ抱き上げた。


小さな手が頬を掴み、何も知らぬ瞳で父を見つめる。


「・・・ユウ、大きくなったら父を忘れてしまうかもしれないな」

そう呟く声が、かすかに震えていた。


産まれたばかりのウイ様は、幸せそうに眠っている。


その頬に口づけを落とし、グユウ様は目を閉じた。


「シリと二人きりにしてほしい」


その言葉を聞いた瞬間、胸が締めつけられた。


――あぁ。別れの言葉を伝えるのだ。


私は小さく頷き、悲しげに見つめ合う二人を背に、静かに産室を出た。



しばらくすると、産室の扉の外に佇むグユウ様を見かけた。


辛そうな、悲しげな表情。


その横にジムがそっと寄り添う。


「グユウ様・・・」


扉の内側から、泣きじゃくるシリ様の声が微かに漏れてくる。


「・・・行こう」


グユウ様は短く言い、静かにホールへと歩き出した。


ジムが一度だけ振り返り、私と目を合わせて頷く。


私も静かに頷き返した。


「お元気で」

ジムの声は穏やかで、どこか祈るようだった。


私はそっと産室の扉を開けた。


部屋の中央で、シリ様は泣き崩れていた。


肩を震わせるその背中を、私は何も言わずに撫でた。


「シリ様・・・」


その背中に手を当てると、悲しみと切なさで震えている。


「シリ様・・・やらなくてはいけないことがあります」


私は感情に蓋をして口を開いた。


シリ様は黙って頷く。


悲しみに浸る時間は、あまりに短い。


城を抜ける時刻は十時。

その時間帯は、家臣や侍女たちが休憩に入るわずかな隙。


――それが唯一の脱出の機会だった。


けれど、シリ様は静かに呟いた。


「最後に・・・シンに会いたい」


グユウ様と前妻の子、シン様。

血の繋がりはなくとも、シリ様は彼を心から愛していた。

そしてシン様もまた、シリ様を本当の母のように慕っていた。


子供部屋に入ると、シン様がすぐに気づいて駆け寄ってきた。


「ははうえ!」


無邪気な声が響く。

シリ様は思わず膝をつき、抱きしめた。


「シン・・・!」


その鳶色の髪を撫で、頬を寄せる。


黒い瞳がまっすぐに見つめ返す――それはグユウ様と同じ瞳だった。


シリ様の頬を流れる涙を、シン様は不思議そうに見つめた。


「痛いの?」


「ううん、違うの・・・」

震える声で微笑み、彼の髪を撫でる。


「シン、大好きよ」


何度もそう告げて、何度も抱きしめた。


見つめる私の目にも、涙が滲んでいた。


――女の子の姫たちは、この城を出られる。


けれど、男の子のシン様は残るしかない。


血が繋がっていなくても、

別れを告げなければならない現実は、あまりにも酷だった。


やがて、シリ様はシン様の頬を両手で包み、もう一度だけ微笑んだ。


「シン、元気でね」


その声が震え、私の胸の奥を切り裂いた。


――運命の歯車は、もう動き始めている。


そして、まもなく時計の針は10時になろうとしていた。


私は急いで玄関へ向かった。


背後から、シリ様の足音が小さく続く。


廊下を進みながら、シリ様は一つひとつの柱や壁を、愛おしそうに見つめていた。


まるで、この城のすべてを胸に焼き付けるように。


「・・・グユウさんは、夫で・・・初恋の人で・・・恋人だった」

シリ様の声が、かすかに震えた。


書斎の前を通りかかった時、彼女は足を止めた。


「ここで・・・ウイを授かったとき、グユウさんは喜んでくれたの」


その表情には、深い哀しみと、穏やかな光が同居していた。


私の目から見ても、

シリ様はミンスタ領で過ごした二十年よりも、

ワスト領で過ごしたたった二年の方が、ずっと幸福そうだった。


――グユウ様が、ありのままのシリ様を認めてくださったからだ。


けれど今、その人がいる場所から離れなければならない。


胸が締めつけられる。


玄関の重い扉を押し開け、城外へ出る。

春の風が、髪を揺らした。


「変ね」


シリ様が小さく呟いた。


侍女たちや女中たちは、私たちの姿を見ても誰一人声をかけない。

気づかないふりをしているのだ。


――ワスト領を抜け、故郷へ戻ることを、黙って許してくれている。


皆、優しい人たち。

領主であるグユウ様と同じように。


馬車は、馬場の奥に用意されていた。

家臣たちの目を避けるため、玄関までは乗りつけられない。


すでに乳母と幼い姫君たちが、馬車の中で待っている。


「シリ様、急ぎましょう」

私は声をかけた。


シリ様は小さく頷き、足を速めた。


馬場へ向かう道は、いつもグユウ様と散歩した小径だった。

見慣れた風景が、胸を締めつける。


木々の間から、陽の光を受けてロク湖がきらめいている。

その中心に、チク島が静かに浮かんでいた。


「あぁ・・・」


シリ様の口から、息のような声が漏れた。


そして、力が抜けたように地面に座り込んだ。


その瞳に映る湖面は、涙に揺れていた。


私は慌てて傍に膝をつき、手を取った。


けれど、言葉は出なかった。


――この人は今、愛するすべてを置いていくのだ。


春の風が、二人の頬をなでた。


「シリ様」

私は震える声で呼びかけた。


「・・・行かなくてはなりません」

静かに、けれど切実に。


「・・・なぜ、行かなくてはいけないの?」

シリ様の声は、かすかに震えていた。


「シリ様には、任務がございます」

言葉が詰まりながらも、なんとか伝える。


――ワスト領が裏切ることがあれば、ミンスタ領に即座に報せること。


それが、シリ様に課せられた務めだった。


「兄上は・・・人でなしだわ」


唐突なその言葉に、息を呑む。


「兄は約束を破って、ワストを裏切った。それだけじゃない。嫁ぐ前の私に、乱暴をしたの」


その声は悲しみではなく、怒りで震えていた。


「そんな人でなしのために、私は――グユウさんと離れるの?」


怒りに染まった青い瞳が、湖面のように揺らめいた。


私は胸の奥が焼けるような思いで言った。


「グユウ様は・・・シリ様の幸せを願っておられます。だからこそ、逃げるようにと・・・」


一刻でも早く、シリ様を馬車に乗せなければ。


焦る気持ちを押さえ、声を上げる。


「この城はいずれ滅びる。・・・それでも、シリ様に生きていてほしいのです」


「幸せ・・・」


シリ様が呟くように繰り返した。


「そうです。生き延びることが、グユウ様の――」


そこまで言いかけた時。


「・・・行かない」


あまりにも小さな声だった。


「・・・え?」

思わず聞き返す。


シリ様は、ゆっくりと立ち上がった。


その顔には、もう迷いがなかった。


湖から吹く風が、彼女の髪をそっと揺らす。


その瞳は、深い青に光っていた。


「エマ・・・ごめんなさい」

静かな声だった。


けれど、その言葉には揺るぎない意志が宿っていた。


「・・・戻らないわ」


シリ様は、迷いのない足取りで馬車の方へ向かった。


「え・・・シリ様?」


私は息を詰まらせながら、その背を追いかけた。


春の風が、草を揺らし、裾を翻す。


「ヨシノ、モナカ――城に戻りましょう」


その声は凛として、揺るぎがなかった。


「シリ様、どういうおつもりですか!」


思わず掴みかかる勢いで叫んでしまう。


シリ様は、振り向いた。


その瞳は澄みきっていて、恐れの色がなかった。


「もう、兄上には従わない」

静かな声だった。


しかし、その一言には確かな決意が宿っていた。


「私がどう生きたいか――それは、私が決めるの」


風が吹き抜け、シリ様の金色の髪が光を帯びる。


その姿がまるで神聖なもののように見えて、私は言葉を失った。


「それでは・・・それでは、定めを外れることになります!」

絞り出すように叫ぶ。


女が己の意志で道を選ぶことなど、許されない時代だ。


それを分かっていて、なおシリ様は前を向いていた。


「幸せは私が決めるの。誰が決めるものではない」


そう言い切った後に、


「ごめんね、エマ」


シリ様は静かに微笑んだ。


その笑みがあまりに穏やかで、涙が滲んだ。


私は何も言えなかった。


その背中を見つめながら――彼女が、本当の意味で“生きる道”を選んだのだと悟った。


シリ様は、ゆっくりと城へ歩き出した。


玄関の扉を押し開ける。


その瞬間、廊下にいた侍女たちが息を呑んだ。

誰もが、言葉を失って立ち尽くす。


「シリ様・・・?」


誰かが震える声で呼ぶ。


家臣のカツイでさえ、目を見開いたままつぶやいた。


「お逃げに・・・ならないのですか?」


それでも、シリ様は止まらなかった。


凛とした背筋のまま、光の差す廊下をまっすぐに歩いていった。


――もう、誰の命令でもない。


自らの意志で生きるために。


「カツイ」


シリ様の声が、静かに響いた。


玄関の奥にいたカツイが、驚いたように姿勢を正す。


「グユウさんは、どこで争っているの?」


その口調は淡々としていた。


けれど、瞳の奥には強い光が宿っている。


「え、えぇと・・・その・・・」


カツイは視線を泳がせ、落ち着かぬ様子で身体を揺らした。


「どこ?」


シリ様が一歩近づく。


その眼差しが壁にかかる地図へ向けられる。


「・・・領境です。不意打ちの・・・争いだと」


カツイは答えた途端、しまったという顔をした。


言ってはいけないことを口にしたのだ。


けれど、シリ様は静かに頷いた。


「そう。やっぱりね」


壁の地図に指を伸ばし、境界線の一点をそっとなぞる。


「カツイ、私は知っているの。

グユウさんは――兄を討とうとしているのよね」


カツイは気まずそうに目を逸らす。


「その場所なら・・・この城に戻るのは早そうね」


シリ様は地図を見つめながら、静かに呟いた。


「え、ええ・・・まぁ・・・」

カツイは額に浮いた汗が、一筋流れ落ちた。


「準備をしましょうか!」


突然、シリ様の声が張り上げられた。


その響きに、廊下の空気が一瞬にして張り詰める。


「じゅ、準備・・・とは?」

カツイがしどろもどろに尋ねる。


シリ様は迷いなく言い切った。


「戦が終わったら、兵たちは疲れきっているはずよ。お腹も空かせて帰ってくるわ」


シリ様は腕まくりをしながら、静かに言った。


「皆で兵を迎える準備をしましょう」


その言葉に、周囲の家臣や侍女たちがざわめく。


誰もが想定していなかった提案だった。


「勝っても、負けても――皆でご飯を食べれば、心が一つになるの」

シリ様の声が響いた。


「やりましょう!」


その瞳は、燃えるように強い光を宿していた。


一瞬の沈黙ののち、カツイが「はっ!」と返事をし、

それを皮切りに人々が動き出した。


シリ様の指揮のもと、料理人、侍女、馬丁、家臣までもが総出で準備を始める。


廊下には鍋の音、薪のはぜる音、笑い声、そして、人の声が戻ってきた。


つい先ほどまで静まり返っていた城が、

まるで生き返ったように温かな活気に満ちていく。



翌朝、控えめなノックの音とともに、カツイが姿を見せた。


「我が軍・・・勝ちました」


「兄は?」


「・・・逃れたようです」


「そう」


シリ様は静かに目を閉じた。


ーー争いには勝った。けれど、兄を逃したということは、

いずれこの城に報復が訪れる。


それでも、声に出したのは一言だけだった。


「兵が帰ってくるわ。準備を始めましょう」


ゆっくりと席を立つ。

その背筋は、少しの揺らぎもなかった。



玄関の扉が、重々しく開かれた。


戦の塵をまとったグユウ様が、静かに城に入ってくる。


その姿を見つけると、シリ様は歩み寄り、柔らかく微笑まれた。


「お帰りなさい」


グユウ様の目が見開かれる。


「シリ・・・」

かすれた声が、胸の奥から零れ落ちる。


シリ様は振り返り、背後に控えていた兵たちに声をかけた。


「皆さんも、どうぞ」


その声は澄んでいて、

戦の匂いを一瞬で和らげるような優しさに満ちていた。


美味しそうな香り、兵たちの笑い声、談笑。

戦の直後とは思えぬほど、和やかな雰囲気が生まれていく。


ジムがそっと私に近づき、声をかけた。


「エマ。何があったのですか」


「私たちは、馬車で逃げようとしたんです」


ジムは黙ってうなずく。


「直前で、シリ様が逃げることを拒否しました」


「なんと・・・」


「シリ様のお命を守るために、説得をしました。

けれど・・・揺るぎませんでした」


私は小さなため息をつく。


「そうですか」


「シリ様が、どんな想いでその決断をしたのか・・・私にはわかりません。

でも、少なくとも今は幸せそうです」


ジムはホールを見渡した。


満ち足りた笑顔で食事をする兵士たちの姿に、どこか心が洗われるようだった。


「この食事は・・・シリ様の提案ですか」


「ええ。ミンスタ領では、戦に勝っても負けても兵士に料理を振る舞っていました。

皆で美味しいものを食べれば、結束が生まれ、兵も強くなる――

それが、シリ様の父上の考えです」


「そうですか。ワスト領では、そのような習慣がありませんでした」


ジムは兵士たちの楽しげな様子を見て、穏やかに微笑んだ。


「良いことですね。今後、取り入れたいです」


「シリ様が指揮をとりました。料理人、侍女、馬丁まで総動員して。

あれだけ人を巻き込んで動かす方は、そうそういません」


「・・・お休みいただきましょう。お子を産んで日も浅いのに」


そう呟き、私は急いでシリ様の寝室へ向かった。


寝台に横たわるシリ様は、申し訳なさそうに目を伏せる。


「エマ、ごめんね」


「エマには・・・いつも苦労をかけさせているわね」


私はシリ様の金色の髪をそっと撫でる。


「もう慣れております」


そう微笑むと、シリ様はかすかに涙を浮かべた。


「でも・・・」


「私は、シリ様のその強さに呆れながらも・・・惹かれてしまうのです」


思わず、苦笑いがこぼれる。


「エマ、ありがとう」


シリ様はそっと私の手を取った。


「きっと、グユウ様も・・・シリ様のそういうところをお好きだと思いますよ」


そう言って、優しく布団を掛けた。


「ゆっくりお休みください」


そう告げて寝室を出る。


廊下では、緊張した面持ちで歩くグユウ様とすれ違った。


「エマ・・・」


グユウ様がためらいがちに声をかける。


「お二人で、ゆっくりお話しください」


頭を下げたまま、私は静かにホールへ戻った。


荷解きをしなくては。


今日から――また、この城で暮らすのだ。


この物語は『秘密を抱えた政略結婚』の外伝として、

侍女エマの視点で描いた短編です。


逃げなかった妃――シリの強さと優しさを、少しでも感じていただけたら嬉しいです。


同じテーマで、夫グユウの視点から描いた短編もあります。

二つを合わせて読むと、より深く世界を味わっていただけると思います。


『戦のあと、妻は「幸せは私が決めます」と言った』

https://ncode.syosetu.com/n0392li/


そして、物語の原点はこちら。

シリの視点で描いた本編連載(完結済)です。


『秘密を抱えた政略結婚 〜兄に逆らえず嫁いだ私と、無愛想な夫の城で始まる物語〜』

https://ncode.syosetu.com/n2799jo/


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ