第9話 キルア、死者として生きる
◆死者として生きる理由
山の空気は、昼と夜で別世界のようだった。
朝の光が差し込むころ、キルアはひとり、小屋の裏手の川辺に座っていた。ゆっくりと流れる水の音が、心のざわつきを少しだけ落ち着けてくれる。
――あれから数日が経った。
大剣による魔力制御の訓練は順調で、リーナの言う通り、剣を通すことで力の暴走はかなり抑えられるようになっていた。
だが、訓練がうまくいくほどに、心のどこかで「家族」のことが浮かぶ。
(母さん、どうしてるかな……父さんは、怒ってるだろうか)
気がつけば、空を見上げていた。
故郷の屋敷には、広い中庭があった。母が好きだった花畑、父の書斎の窓、弟セドリックの剣の練習の音。
――それらが今は、ただ遠く、ぼんやりとした記憶になっている。
「ねえ、どうしたの。朝から浮かない顔ね」
リーナの声が背後から聞こえた。
振り返ると、いつものローブ姿で、木のかごを抱えていた。どうやら薬草を摘みに出ていたらしい。
「……リーナさん。俺……そろそろ、家に自分が生きてるって知らせたほうがいいんじゃないかって思ってて……」
キルアの言葉に、リーナはぴたりと足を止めた。
彼女は黙って数歩近づき、かごを横に置くと、川辺の石に腰を下ろした。
「ふむ。それは、どうして?」
「……母さんや父さんを安心させたい。事故のこと、きっと……すごく悲しんでると思う。俺のこと、追い出したのに、死んだって知ったら……」
そのとき、リーナの瞳が、じっとキルアを見つめていた。まるで、見透かすように。
「本当に“事故”だったと思ってるの?」
「えっ……?」
キルアは目を見開いた。
「盗賊に襲われた――そう言ったわよね。護衛も全滅。馬車ごと谷底へ」
「……はい。俺も含めて皆が谷底に落ちて、俺だけが魔法を発動して、奇跡的に助かった……」
「でもね、それを聞いて、私は少し引っかかったの」
リーナは小さく息をつき、語り出した。
「盗賊っていうのは、基本的に“金目の物”を狙うの。命よりも金。商人の荷車とか、王都帰りの貴族を狙うことはあっても、道を外れて“谷底”に誘導するようなことはしない」
「……」
「しかも、馬車を襲うならまず馬車を“止める”ことが優先。車輪を壊すとか、馬を驚かせるとか。でも、キルアの話だと、まるで最初から“崖へ向かわせるよう”仕組まれていたように聞こえる」
「まさか……じゃあ、あれは事故じゃなくて――」
「……あなたを殺すための“計画”だった可能性がある」
リーナの口調は静かだったが、その言葉は鋭く胸に突き刺さった。
キルアは息をのんだ。
「誰かが、俺を……」
「ええ。そう考える方が自然。魔力は多いのに制御できない“出来損ない”として見捨てられたあなたが、生きていては都合が悪い人がいる。たとえば――後継ぎの座を狙っている者とかね」
その瞬間、脳裏に弟・セドリックの顔が浮かんだ。
(……まさか……あいつが……)
「もちろん、今はまだ確証はない。けれど、自分の死が“喜ばれている”可能性がある以上、むやみに知らせるのは危険よ」
「……でも、母さんは……本当に悲しんでると思う。もし、知らずに……」
リーナはキルアの肩にそっと手を置いた。
「だったら、誰よりも強くなりなさいな。盗賊が何人きても返り討ちにできるぐらいの強さを手に入れるのよ。それまでは、死者のふりをしておくのがいいわ」
「……」
「あなたの中の魔力は、きっとこの国のどの魔術師よりも強大。だから、あなたならなれるはずよ。この国、最強の魔術師にね。優秀な師匠もいることだし」
リーナは小さく微笑んだ。
「焦らないで。今のあなたには、死んだふりが“盾”になる。安心と油断は、何よりの武器になることもあるわ」
キルアは唇を噛みながら、うなずいた。
自分はもう、レイグラント伯爵家の人間ではない。
でも――
「……いつか、必ず。見返してみせます。俺の命を狙った者たちに、そして、自分自身にも」
「それでこそ、私の弟子よ」
リーナは立ち上がり、草の上に手を伸ばす。
「さ、朝の鍛錬、再開よ。逃げたら承知しないからね」
「……はい!」
キルアは立ち上がり、大剣を背にかける。
“死者”として、今を生きる。
それが、彼に与えられた新しい“運命”だった。
◆魔女の静かな推理(リーナ視点)
朝露の残る草を踏みしめ、私は森の中を歩いていた。
薬草かごの重みはもう慣れたものだ。けれど、今日はいつもより心がざわついていた。――キルアが、自分の家族に「生きている」と知らせたいと言ったからだ。
……無理もない。彼はまだ、若い。母に会いたい、家に帰りたいと願うのは、当たり前のことだ。
けれど私は、彼の話に違和感を覚えずにはいられなかった。
(あの馬車事故……本当に“事故”だったの?)
谷底。全滅した護衛。盗賊の襲撃。――だけど、どれも引っかかる。
金目の物を狙うはずの盗賊が、わざわざ危険な崖道に馬車を誘導するなんて、効率が悪すぎる。それに、護衛全滅? 狙いが最初から“殺し”に向いていたように思えてならない。
(キルアが言った通り、彼は馬車ごと谷底に落ちた。そして生き残った)
もし、それが「事故」ではなく「暗殺計画」だったとしたら?
そして――彼の死を一番望んでいた者が、黒幕だとしたら?
「後継ぎの座を狙っている者……か」
私は小さくつぶやく。
確かに、いちばん利益を得るのは“次期当主”の座を手にする人物。けれど、セドリック――あの子はまだ十五歳。そんな計画を一人で立てて、実行に移せる年齢ではない。
……では、誰が?
(側近。執事、兵、家庭教師……セドリックの周りの“大人たち”。彼らの誰かが、彼の背後で動いていたとしたら?)
そう考えるのが自然だ。幼いセドリックを操り、その影に隠れて、全ての指示を出していた者。
しかも、それはキルアの死で利益を得られる者――だ。
「……やはり、危険ね」
私は草の上にしゃがみ込んで、小さな薬草を摘みながら考える。キルアは今、油断すれば再び狙われる立場にいる。下手に“生存”を知らせれば、再び命を奪われかねない。
(……けど、それを逆手に取ることもできる)
たとえば――
「囮として、キルアを使う。……それも、ありかもしれないわね」
生存を“選ばれた人間”だけに知らせる。その中に犯人がいれば、きっと再び動くはず。だが、それを実行するには、彼が誰にも負けない力を持っていなければならない。
「……それが問題なのよね」
キルアの魔力量は、私の予想をはるかに超えていた。おそらく、王都の上級魔術師をすら凌ぐポテンシャルを秘めている。だが、まだ未熟。力を支える“土台”ができていない。
今の彼では、狡猾な敵に抗えない。
――ならば、どうするか?
私はふと、空を仰いだ。まだ朝の光が淡く、雲の隙間から木漏れ日が差し込んでいた。
(強くなるしかない。けど、ただ訓練するだけじゃ駄目)
キルアに必要なのは、ただの鍛錬ではない。
“経験”だ。
強敵との戦い。敗北と恐怖。命のやり取り。そのすべてが、彼の力になる。魔力の制御にも、身体の鍛え直しにも、それらは不可欠。
「盗賊相手じゃ、足りない……」
この辺りに出る盗賊や山賊では、彼の訓練相手にはならない。あまりに“格”が違いすぎる。魔物も弱い種ばかり。――この山では、彼の力は“育たない”。
(やっぱり、この国じゃ駄目ね)
私は思った。
キルアのような天才が、本当に“力”を得るには……この国を出るしかない。
「……フラン帝国、か」
北の大国。魔術文化が根付き、騎士団や冒険者の層も厚い。闘技場や魔法学院、傭兵団や異種族の国境地帯もある。――そう、力を求めるにはうってつけの地だ。
(でも、彼にとってこの国は、家族と記憶の場所。すぐに離れるとは言い出せないかもしれない)
だからこそ、いざというときに備えておかなくては。
旅支度。金。偽名。装備。逃げ道。――そして、何よりも。
「キルアの覚悟ね」
彼はもう、“死者”だ。名前も身分も、過去も捨てた。
その上で、生きる意味を見つけなくちゃいけない。
“ただ強くなる”だけじゃない。誰のために、なぜ戦うのか――そこに魂が宿る。
(……せめて、私が支えてあげなきゃ)
私は立ち上がり、かごを胸に抱えて歩き出した。
薬草の香りが風に乗って広がっていく。
「さ、朝の鍛錬よ。今日も手加減はしないから」
キルアの成長は、もう始まっている。
“死者”として生きるこの時間が、彼にとっていつか最大の“武器”になる。
それまで私は――彼の背中を、絶対に守り続けるつもりだ。