第8話 レイグラント伯爵家の悲報
◆報せの朝に
レイグラント伯爵家の館には、朝から張りつめた空気が漂っていた。
執事や使用人たちが、何かに怯えるように目を伏せ、主の前で足音ひとつ立てぬよう慎重に動いていた。
――それは、一通の報せが届いた直後からだった。
「……馬車が……谷底に……?」
ガロウス=レイグラント伯爵は、椅子から立ち上がったまま動けずにいた。手にはしわくちゃになった手紙。手紙の端には、泥と血が混じったような染みがついていた。
「キルアが……死んだ、だと……?」
彼の妻、クラリッサ夫人は、唇を押さえたまま、何も言えずにいた。白い顔は恐怖と混乱に染まり、かすかに震えていた。
「違う……そんなはず……キルアは、帝都に行くはずだったのに……」
「手紙には、盗賊に襲われたとある。……馬車は谷底に落ち、御者も護衛も全員、死体が上がったそうだ。遺体は損傷がひどく、本人かどうかの判断は……」
「いや、いやよっ!」
クラリッサは椅子から崩れるように床に膝をついた。
「まだあの子は……っ、あの子は何も悪くないのよ!? なんで、なんでこんな……!」
ガロウスは唇を噛みしめ、拳を強く握った。
(あんな形で家を出すべきではなかった……)
あの日のことが、頭をよぎる。
「魔術学院に落ちたからと言って、平民に下ろすなど……」
そう言ったのは、自分だ。
だが今、息子は――もう、この世にいない。
「……すまん、キルア……すまん……」
ガロウスは顔を伏せ、ひざまずくクラリッサの肩に手を伸ばした。
だがその手は、空を切った。
夫人は涙を流したまま、息を詰まらせるように倒れ、気を失ったのだった。
◇ ◇ ◇
そして、その騒ぎを一歩離れた場所から、静かに見つめる少年がいた。
セドリック。
レイグラント伯爵家の次男にして、キルアの弟だ。
「……ふーん。倒れたか。まあ、予想通りだね」
淡々とつぶやいたその声には、兄を悼む感情は一片もなかった。
父と母が悲しみに暮れているというのに、セドリックの唇には薄い笑みすら浮かんでいる。
「ようやく、“邪魔者”がいなくなった……ふふっ」
そのつぶやきを聞きつけたのか、廊下の奥から黒衣の男が音もなく現れる。
セバスチャン――セドリックの側近であり、影の実行者だ。
「ご報告いたします、セドリック様。ご命令通り、谷への馬車誘導と……事故の偽装は完了しました」
「ふふん、見事だったよ、セバスチャン。キルアの“最後の目”も見届けた?」
「はい。馬車は断崖を転落、激流の底へ。あの高さなら……確実に生存は不可能かと」
「……そうか。なら問題はないね」
セドリックは、紅茶の入ったカップを手に取り、窓辺の椅子に腰を下ろした。
外では、伯爵家の庭師たちが沈痛な面持ちで手を止め、何やらざわついていた。
「兄上がいなくなれば、次に“跡継ぎ”としてふさわしいのは、当然この私。……優しく、才能もあり、学院でも高評価の僕に異を唱える者など、いない」
「まったく、キルア様は不要な“失敗作”でしたからな」
セバスチャンは薄く笑った。
「魔力量だけは多かったけどね。ふふ……そのせいで魔法が使えなかったなんて、本当に間抜けだよ。きっと落ちる瞬間も、自分が無能だったことを悔やんでたに違いない」
セドリックは紅茶を口にし、ひと息つく。
「さあ、次は……“後継ぎのための準備”を始めようか。父上も、いずれは僕を認めるはずさ。むしろキルアより、はるかに役に立つと気づくだろう」
「すでに、周囲の貴族家への根回しも進めております」
「ふふ、いい子だ、セバスチャン」
その日、レイグラント伯爵家の中では、ひとつの命の喪失と、ひとつの野望の胎動が静かに交差していた。
誰にも気づかれぬように、家族のふりをした“仮面”が、少しずつ剥がれはじめていた――。
◆沈む星を踏み越えて
「……あら、それは本当なの?」
クラリス=エヴァンティーヌは、優雅な手つきで紅茶のカップを口元へ運びながら、静かに尋ねた。
紅茶の香りが部屋に広がる。ここは、レイグラント家の別邸。客人として通された応接室には、クラリスとセドリック、ふたりきりの時間が流れていた。
彼の言葉は――衝撃的だった。
けれど、クラリスは少しも取り乱さなかった。
「ええ。兄は……先日、山道で馬車から転落したそうです。遺体は見つかっていませんが、崖の底は谷川。捜索隊も、もはや“生存の可能性はない”と断定しています」
セドリック=レイグラント。十五歳とは思えぬ冷静な語り口で、まるで他人事のように話していた。
(……やっぱり)
クラリスは、心の奥でつぶやいた。
あの日、初めて彼と向き合ったときから、確信していた。
この少年――いや、“男”は、兄を超える存在だと。
「可哀想に……キルア様。まさか、あんな形で命を落とすなんて」
口ではそう言いつつ、クラリスは唇の端をわずかに上げた。
心のどこかで、安堵している自分がいた。
(これで……もう、迷わなくていい)
キルアが学院に落ちたあの日から、クラリスの胸にはずっと靄のような感情が渦巻いていた。過去の情、憐れみ、そして微かな後悔。
だが――死という現実は、すべてを断ち切った。
「兄は……弱すぎたんです。魔力に溺れ、現実を見ようとしなかった。貴族としての責任も、自分の立場も、すべて投げ捨てた」
セドリックの言葉には、冷たさと――わずかな哀れみが混じっていた。
(きっと、情もあったのだろう)
だが、それでも彼は決断した。
自分の未来のために、家のために、兄を切り捨てたのだ。
(ふふ……素晴らしい)
クラリスは思わず、心の中で拍手を送っていた。
「セドリック様こそ、次期伯爵にふさわしいお方ですわ」
彼の前で、堂々とそう口にする。
「十五歳でここまで考え、動ける人が他にいるかしら? 策略も、実行力も申し分ないわ」
セドリックはわずかに微笑んだ。
「恐縮です。……でも、これは家のため。家を守るのは、当主として当然の責務です」
「もちろんよ。だからこそ、私もお支えしたいの」
クラリスは、目を細めながら言った。
それは“愛”などではない。もっと冷静で現実的な、貴族としての誓いだ。
(キルアには、もう失望しかなかった。でも……セドリック様は違う)
クラリスは席を立ち、ゆっくりとセドリックに歩み寄る。
「これで、ようやく“ふたり”で未来を築けるのですね」
「……ええ」
セドリックも立ち上がり、クラリスに向き直る。
彼女は紫の髪を風に揺らしながら、そっと微笑んだ。
「私は、この日を待っていたのかもしれない。あれだけ好きだったはずのキルア様の死を、こんなに安らかな気持ちで受け入れられるなんて……不思議ね」
「それは、あなたが強いからですよ」
「いいえ。あなたが、導いてくださったからですわ」
ふたりの間に流れるのは、恋ではない。
もっと現実的で、貴族らしい“利害”と“未来”に基づいた共鳴。
「いずれ、この国の貴族社会を動かすのは、私たちかもしれませんね」
「なら、なおさら気を引き締めなければ」
ふたりは、静かに頷き合った。
◇ ◇ ◇
帰りの馬車の中。
クラリスは、夕日に染まる王都を眺めながら、小さく笑った。
(キルア……ありがとう。あなたが失敗してくれたから、私はこうして前に進める)
かつての想い人の死。
その知らせは、クラリスにとって“悲劇”ではなく、“祝福”だった。
「私、やっぱり間違ってなかった……」
呟いたその声は、震えてはいなかった。
紫の瞳が、未来を見据えて輝いていた。
――それは、誓いを果たす少女の、冷たくも強い微笑みだった。