第5話 山のはぐれ魔女
◆山の魔女
水の音が、ずっと耳に響いていた。
キルアは谷底で目を覚まし、しばらく動けずにいた。体のあちこちに打撲や擦り傷があったが、骨は折れていないようだった。とはいえ、痛みは尋常じゃない。特に左腕は腫れていて、まともに動かせなかった。
「……魔法、使えたんだよな……」
あの瞬間の記憶が、まだ身体に残っていた。生まれて初めて成功した魔法。それが自分の命を救った。
だが、今はその余韻に浸っている場合じゃない。
落ちた場所は、谷底の岩の間。すぐ近くを激しい急流が走っていた。もし落下の勢いが少しでも違っていれば、いまごろ水の中に飲まれて命を落としていたかもしれない。
「こんな場所……いつまでもいたら死ぬ……」
キルアは岩壁に手をつき、よろよろと立ち上がった。川沿いの道は、ぬかるんで滑りやすく、ところどころに倒木が道をふさいでいたが、それでも彼は足を動かした。
父にも母にも、弟にも見捨てられた。
けれど――
「生きるって決めたんだ……!」
その想いが、彼の背中を押した。
◇ ◇ ◇
何時間歩いただろうか。
川の流れをさかのぼって進んでいくと、やがて森の空気が変わった。木々が途切れ、小さな平地が広がっていた。
そして、そこに――ぽつんと、小さな山小屋が建っていた。
煙突からは細い煙が立ちのぼり、扉は半分だけ開いている。壁には乾かされた薬草の束が吊るされ、入口には木製の看板のようなものが立てかけてあったが、文字は消えて読めなかった。
「……人がいる……?」
キルアは半信半疑で近づいた。警戒はしていたが、体力も限界だった。
トントン。
力なく扉をノックすると、しばらくして、中からかすかな足音が聞こえてきた。
「……どなた?」
出てきたのは、自分と同じぐらいの年齢の女性だった。
グレー色のローブをまとい、ピンクの長い髪を編み込んで後ろで束ねている。瞳は深い紫色で、どこか人ならぬ気配を漂わせていた。
「……す、すみません……助けて、ほしくて……」
キルアはそう言ったあと、ふらりと膝をついた。身体がもう限界だった。
女性はしばらく無言で彼を見下ろしていたが、やがて、小さくため息をついた。
「……まったく、面倒ごとを呼び込むのが好きね、私は」
そう言って、彼女はキルアの腕を引き、小屋の中へ連れていった。
◇ ◇ ◇
小屋の中は意外と暖かかった。暖炉の火が揺れ、テーブルの上には乾いたパンや果物が置かれている。壁には棚がずらりと並び、薬草や瓶詰めの液体がぎっしりと並べられていた。
「熱はないけど……左腕は打撲と軽い脱臼。あとは擦り傷と栄養失調。……よくこんな状態で谷を歩いてきたわね、バカじゃないの?」
女はキルアの腕を慎重に戻しながら、呆れたように言った。
「……す、すみません……っていうか……あなた、医者……?」
「違うわよ。私は“魔女”よ。山に住んで薬を作ってる、ただの変人。それで十分でしょ?」
「魔女……」
キルアは思わず呟いた。
父から聞いたことがある。王国の奥地には、王に仕えるでもなく、ただ自分の力で森や山に生きる“魔女”たちがいると。魔法を使い、薬を作り、ときには未来すら見るとも――
「なんでこんな所に? まさか、誰かに追われてるわけじゃ……」
魔女はキルアの顔をじっと見て、鋭い瞳で問いかけた。
キルアは、一瞬言葉に詰まり――それでも、嘘をつかなかった。
「……俺、殺されかけたんです。帝都に向かう途中で、馬車が……谷に突き落とされて……」
「ふうん……つまり、“殺されたことになってる”のね」
彼女はポンと手を打って、茶をいれながら言った。
「あなた、名前は?」
「キルア……元・レイグラント伯爵家の長男です」
「伯爵家、ねぇ……こりゃまた面倒な子が来たもんだわ」
魔女は笑いながら、湯気の立つカップを差し出した。キルアはお礼を言って受け取り、じんわりとした温かさを感じながら、一口だけ飲んだ。
身体に染み渡るような、優しい味だった。
「とりあえず、今日は寝なさい。明日から、ここで少し働いてもらうわよ。寝床と食事代、ちゃんと稼いでもらうから」
「……いいんですか? 俺、何も持ってないし、もう……貴族でもない」
「だから何? 私は貴族に興味ないし、むしろ嫌い。魔法が使えるかどうかの方が、よっぽど大事よ」
魔女は、キルアの持っていた剣をちらりと見て、笑った。
「それに、あんた……魔法、やっと目覚めたみたいじゃない?」
キルアの胸が、どくん、と高鳴った。
「……あれは、偶然だったんじゃ……」
「偶然でも、命をつなげたなら本物よ。才能はあっても、それを開くには“死の恐怖”ってのが一番効くの。皮肉だけどね」
魔女はそう言って、キルアの頭を軽くぽん、と叩いた。
「私の名前は〈リーナ〉。この山に住む“はぐれ魔女”。……しばらくはここにいなさい。死んだことになってるなら、外には出ないこと。いいわね?」
キルアは、小さくうなずいた。
――こうして、命を失いかけた少年と、孤独な魔女の静かな共同生活が始まった。
◆はぐれ魔女と、名もなき青年
山の空気が、どこかざわついていた。
魔力の流れに敏感なリーナには、そういうとき、何かが起こる予感のようなものが分かる。だからあの日も、薪を取りに出ようとして扉に手をかけたとき、胸の奥がひやりと冷えたのだった。
――来る。
そう思った瞬間、扉を叩く音がした。
トントン。
弱々しく、力のない音。
「あら……」
軽く眉をひそめながら扉を開けると、そこにはひとりの少年――いや、青年がいた。
濡れた衣服、泥まみれの顔、腫れた腕。目の下にはくっきりと疲労の影が浮かんでいて、それでも彼は、ぼそっと言った。
「す、すみません……助けて、ほしくて……」
次の瞬間、がくりと膝をついた。
――まったく、面倒ごとを呼び込む体質ってやつね。
リーナはため息をつきながらも、倒れ込んだ彼を抱き起こし、小屋の中に連れていった。こんな山奥まで来るなんて、ただの旅人じゃない。ましてや、彼が放つ“匂い”は普通じゃなかった。
(……魔力の匂いがする。しかも……かなり強い)
ひとまずベッドに寝かせて傷を診た。左腕は軽い脱臼。擦り傷に打撲、極度の栄養不足。生きてたのが奇跡としか思えない状態だった。
手際よく手当てをし、薬草の茶を煎じて飲ませる。
やがて、彼は小さくつぶやいた。
「……俺、キルア。……元・レイグラント伯爵家の……長男です」
その言葉に、リーナの手が止まった。
レイグラント。王都の北部に広大な領地を持つ伯爵家。そこから追放された? こんな状態で? ――訳ありもいいところじゃない。
だけど、彼の顔を見ていると、不思議と“重さ”ばかりが伝わってこない。苦労はしてきたはずだ。でも、目の奥にほんの少しだけ、灯るものがある。
(まったく……この顔、放っておけないのよね……)
泥にまみれた顔の中に、どこかあどけなさと芯の強さが共存している。無鉄砲で、無防備で、それでいて人を惹きつけるような。――そんな顔だった。
「明日からは、ここで働いてもらうから。寝床と食事代、きっちり払ってもらうわよ」
からかうように言うと、彼は小さく「はい」とうなずいた。
(本当に馬鹿正直な子ね)
だが、リーナは感じていた。この子の魔力は“目覚めたばかり”。もしかすると、自分よりもずっと先を行く存在になるかもしれない。いや――たぶん、なる。きっとそうなる。
(なぜそんな子が、谷底に捨てられてるのよ)
怒りというより、呆れに近い感情が胸をよぎった。魔力の扱いも知らず、世間の冷たさを知ってなお、それでも生きようとした少年。こんな森の中まで、ボロボロになりながら、ただ「生きたい」と願って歩いた少年。
「私の名前は〈リーナ〉。山に住んで薬を作ってる“はぐれ魔女”。」
彼の顔が、ほっと緩んだ。
(ああ……やっぱり放っておけない)
こうして出会ったのは偶然か、それとも運命か。
それはまだ分からないけれど――
キルアの存在は、リーナの静かな日常を、確実に少しずつ変え始めていた。
そして彼女自身も、それを嫌だとは思っていなかった。