第4話 キルア、谷底に落ちていく
◆谷底の叫び
朝靄が立ち込める森の中、木々のざわめきが風とともに流れていく。
キルアを乗せた馬車は、帝都西区へ向けて、レイグラント領を抜ける街道を静かに進んでいた。御者台には無言の男がひとり。無口で表情もなく、手綱を握る指先は妙に落ち着き払っていた。
馬車の中、キルアは薄い毛布にくるまり、窓から外をぼんやりと見ていた。
昨日まで「伯爵家の長男」として暮らしていた自分が、今では身ひとつで追い出された平民だ。
「……これで、よかったんだ」
自分にそう言い聞かせる。
弟のセドリックは笑っていた。優しさではなく、哀れみでもない、純粋な“解放”の笑顔だった。それが、胸に深く残っていた。
(兄さんなんて、いなくてよかった――そう言いたかったんだろ)
拳を握る。毛布の中、キルアの指先はわずかに震えていた。
突然、馬が大きく嘶いた。
――キィイイイン!!
鋭い金属音。次の瞬間、車輪のひとつが吹き飛び、馬車が大きく傾いた。
「うわっ――!」
キルアの身体が浮く。馬車の横板に頭を打ち、視界がぐるりと回る。
「これは……!」
耳元で何かが弾けた。矢だ。矢が車体を貫き、次々と飛んでくる。
(襲撃……? まさか、盗賊か!?)
キルアはとっさに腰に差していた剣を握った。かつて父に授けられた、銀色の細身の剣。いまやこれだけが、自分を貴族であった証として繋いでいる。
だが、もはや馬車の進行は完全に制御不能だった。
前方には、谷――ミリア渓谷。
「止まれっ!! 止まれぇぇぇっ!!」
御者の叫びが遠く聞こえた。
けれど、もはや止まらない。
木々をなぎ倒しながら、暴走した馬と車輪の外れた馬車は、そのまま――
ごうっ!!
谷へと、落ちた。
◇ ◇ ◇
「――あ、ああっ……!」
空が反転する。重力がひっくり返る。
キルアの視界はぐるぐると回り、耳の中に風が突き刺さる。
木の枝が顔をかすめ、車体が破裂するように割れ、馬車が真っ二つに裂ける音がした。隣にあったはずの御者台は見当たらず、空中で散り散りになっていた。
「くそっ……!」
キルアは必死に剣を握りしめた。
どうにか助かりたい。
まだ死にたくない。
誰に認められなくてもいい、ただ、生きたい――!
その瞬間、頭の中に光が走った。
今まで何度やっても形にならなかった、魔力の流れが――
“なぜか”、一本に束ねられていく。
「お願いだ、お願い……風よ、応えてくれ!!」
彼の身体の周囲に、魔力の渦が生まれた。
風がうねる。空気が爆ぜる。
今にも崩れそうな術式が、剣を媒介にして、キルアの魂に根を張る。
「《ウィンド・シールド》ッ――!!」
空中でキルアの身体が、一瞬、止まった。
まるで空に抱かれたように、彼の身体の周囲を風が包み込んだのだ。
空中で風が渦を巻き、衝撃を受け流す緩衝層を作る。それでも、完全には受け止めきれず、キルアは岩壁に叩きつけられた。
「……ぐ、うっ……!」
肺が空気を失い、痛みが身体を走る。
けれど――命はあった。
血が頬を流れ、腕がひどく擦り剥けていた。
馬車は崩れ、谷底の木々に引っかかりながら燃えていた。遠くで火の粉が舞い、馬の悲鳴が風に消えていく。
キルアは、倒れたまま、宙を見た。
「……生きてる……? 俺……魔法、使えた……?」
手の中の剣は、まだ折れていなかった。
そして、それを通して初めて放った魔法――それが、自分を救った。
彼は、微笑んだ。
泣いているのか笑っているのか、自分でも分からなかった。
けれどそのとき、彼は初めて、「生き延びる」ということを実感していた。
貴族ではない。誰からも認められない。けれど、自分の命は自分のものだ。
「俺は……俺のために、生きる……」
傷だらけの身体を、木の根元に引きずり、キルアはその場に座り込んだ。
朝靄が、少しずつ晴れていく。
谷底に、光が差し込む。
それはまるで、彼の再出発を告げる合図のようだった。
◆沈む星と、新たな契約
重たい扉が、ぎぃ……と音を立てて閉まった。
エヴァンティーヌ子爵家の応接室。深紅の絨毯が敷かれたその空間には、いまだ落ち着かぬ緊張の空気が漂っていた。
クラリス=エヴァンティーヌは、父の対面の椅子に腰を下ろしていた。紫色の髪を丁寧に結い上げたその横顔には、どこか冷えた影が宿っている。
テーブルの上には、一通の手紙。
――王立魔術学院からの通達。そして、レイグラント家からの書状。
「……やはり、決まったか」
子爵――クラリスの父は、深くため息をついた。銀縁の眼鏡を外し、目頭を押さえる。
「キルア=レイグラント殿。正式に、王都から“追放”とのことだ。学院試験の不合格に加え、魔術不全の診断書も添えられていた。名門の名を汚す前に……という判断らしい」
「……そう」
クラリスは、静かに目を伏せた。
キルアのことを、嫌いになったわけではない。彼が努力していたことも、誰より知っている。
けれど、もはや感情だけでは動けない。
「当然ながら、レイグラント伯爵家からも正式に“婚約破棄”の申し出が来ている。……キルア殿は、もはや家の者ではないと」
「それで……お父様は、どうしたいの?」
クラリスがゆっくり顔を上げると、父の目がわずかに鋭くなった。
「……クラリス。お前の年齢、今年で十五だったな」
「ええ。セドリック=レイグラントも同じ年です。あの弟君」
子爵の口元が動き、ふっと笑みのようなものが浮かぶ。
「やはり気づいていたか。……実を言えば、向こうの伯爵からも打診があった。“クラリス嬢との縁談を、次男セドリックに変更してはどうか”と」
「やっぱり」
その瞬間、クラリスの中に広がったのは安堵だった。
(やっぱり、私の選択は間違ってなかった)
数日前のあの訪問が、無駄ではなかったと確信できた。キルアの背中を見て、ただ失望するだけの少女ではない。――自分の人生を、自分で切り開くために動いたのだ。
「……セドリック君には、未来があるわ。魔術の才能も申し分ない。兄と違って、周囲の声にも耳を傾ける」
「冷静な分析だな、クラリス」
父は皮肉めいて言ったが、責める様子はない。
「クラリス、お前は感情に流される子ではないと思っていた。だからこそ、今回の件も“機会”と捉えることができるはずだ」
「機会……ね。なら、私はその機会を“選ぶ”わ」
父は一瞬、目を細めた。
「……つまり?」
クラリスは、姿勢を正し、言葉をはっきりと口にした。
「セドリック=レイグラントとの婚約を、進めてください」
空気がぴたりと張りつめた。
しかし、父はすぐに静かに頷いた。
「分かった。だが、この婚約が“次男”とのものである以上、状況次第では覆る可能性もある。それを承知しておくように」
「ええ。私はレイグラント家に嫁ぐのではなく、“勝者”に賭けたの。……誰が跡継ぎになるにせよ、私はその“光”を選ぶわ」
父はしばし沈黙し、それから椅子の背にもたれた。
「クラリス……お前は、いつの間にそんな顔をするようになったんだ?」
「この世界で生きるためよ。私が“愛”を手放しても、誇りまで捨てたわけじゃないわ」
紫の瞳が、まっすぐに父の瞳を見据えていた。
◇ ◇ ◇
その夜。
クラリスの部屋のバルコニーには、夜風が静かに吹いていた。
月明かりの下、彼女はバルコニーに立ち、遠く王都の外れを見つめる。
(キルア。あなたのこと、忘れないわ。でも……)
彼のことを愛していたのは事実だった。あの優しさも、静かな努力も、全部――本当だった。
けれど、それでは未来は守れない。
「私は、私の“誓い”を守る」
それは冷たい決意ではなく、少女の強さの証だった。
これから始まるのは、新しい物語。
キルアを切り捨てた女として――ではなく、新たなレイグラントの後継者と並ぶ存在として、自分を築き上げるための。
クラリスは紫の髪を風になびかせながら、そっと目を閉じた。
――その瞼の奥には、過去ではなく、“未来”の光だけが輝いていた。