閑話4 セドリック、断罪される!
◆呪いは巡りて
森に吹く風が、どこか冷たさを帯びていた。
キルア=レイグラントは立ち止まり、空を見上げた。銀の髪が風に揺れる。胸の奥に、妙なざわつきが広がっていた。
「……なんだ、この感覚」
背筋を何かが這うような、言い表せない不快な気配。傍らにいたエルフのはぐれ魔女・リーナが、ピンクの長髪を揺らしながら振り返る。
「あんた、どうかしたの?」
「いや……ちょっとだけ、嫌な感じがしただけだ」
そのときだった。森の奥から、ひとりの少女が歩いてきた。
柔らかな栗色の髪を揺らしながら、白いワンピースをまとった少女――アリア=デュフォール。フラン帝国、名門デュフォール公爵家の娘。そして、キルアの婚約者だ。
「……キルア!」
アリアは息を弾ませながら駆け寄ってきた。彼女の顔色が少し険しい。
「急いで来たの。さっき、ものすごく強い呪いの波動を感じたのよ。……それも、あなたに向けてなのよ!」
「呪い、だと?」
「ええ、かなり念が込められてる。感情のぶつけ方が尋常じゃないわ……」
キルアは、すぐに思い至る。
「……セドリック、か」
声が自然と低くなる。谷底に突き落とされ、家を追われたときの記憶が、胸をよぎった。
「場所的には、ちょうど南の方角から届いてる。これは間違いなく“意図的”な呪いよ。しかも……古代呪術の流れを組む本格的なやつ。対処を間違えたら、下手すりゃ命に関わるわよ」
アリアの目が真剣になる。その手には、小さな精霊の石が握られていた。
「でも、私の力で“跳ね返せる”かもしれない。――やってみる」
彼女は小声で詠唱を始める。精霊術と呪術を併せた複合術。その中心にいるアリアの姿は、いつになく神聖で、美しかった。
「……来た!」
空間が歪む。森の空気が黒く染まり、キルアの体に何かが絡みつこうとする。
「《返還の環》!」
アリアが叫ぶと、彼女の掌から放たれた光が、黒い呪いの気配を吸収していく。
その光は一度、渦を巻くように空中に集まり、瞬間――まるで雷のような音とともに、元来た方向へと弾き返された。
「これで……送り返したわ」
アリアは息をつきながら微笑んだ。だが、その瞳にはかすかな違和感が残っていた。
「どうかしたのか?」キルアが尋ねる。
「ううん……ちょっと気になっただけ。さっきの呪い、王家の印に似た符文が混ざってたの。普通の裏組織じゃ使わないような……」
「……王家?」
リーナが驚いた声を上げる。
「ま、まだ確証はないけどね。でも、少なくとも本気であんたを殺そうとしてたのは間違いない」
「……俺の弟は、そこまでやる人間になったってわけか」
キルアは小さくつぶやいた。口元に苦笑を浮かべながらも、その瞳はどこまでも静かだった。
「もう気配は完全に消えたよ。これで大丈夫」
「ありがとう、アリア。……助かった」
「当然でしょ。私は、あなたの婚約者なんだから」
アリアは照れたように笑い、キルアの袖を軽く引いた。
「さ、もう森で立ち話してるのもなんだし、家に戻ってご飯にしましょう?」
「ああ。今日はリーナがスープ作ってくれるらしいしな」
「ふん、あんたたちが呪いだなんだって騒いでる間に、準備してたんだからね」
三人はいつものように笑い合い、森の奥にある小さな山小屋へと歩き出した。
◇ ◇ ◇
一方そのころ――
レイグラント邸の地下室。
術師が逃げ去った後、セドリック=レイグラントは一人、暗闇の中で呻いていた。
「う……っ、あ……っが……」
全身に焼けつくような痛みが走る。額、頬、喉、胸――全身にぶくぶくと腫瘍のようなこぶが浮かび上がっていた。
鏡を見た瞬間、彼は絶望に呑み込まれる。
「な、なんだこれ……!!」
その顔は、かつて“王都一の美少年”と謳われた面影などどこにもない。醜くゆがみ、化け物のように歪んでいた。
「……ば、かな……! 俺が……こんな……!」
絶叫とともに、地下室に響く乾いた嗚咽。
そしてそのまま、セドリックは誰にも見捨てられるように、屋敷の外へと移されていった。
◇ ◇ ◇
数週間後。
帝都の片隅。誰にも知られることなく、ひとりの男が、ぼろ屋の中で呻きながら過ごしていた。
名は、セドリック=レイグラント。
もはや人前に出られぬその姿と、日々襲ってくる激痛の中で、彼は悔しさを噛みしめていた。
(キルア……なぜ、お前だけが……)
だが、その声が届く相手はもういない。
呪いは巡り、すべてを飲み込んだ。
その果てに残ったのは、破滅だけだった。
◆崩れゆく紫の夢
その知らせが届いたのは、曇り空の午後だった。
エヴァンティーヌ子爵家の屋敷で、クラリス=エヴァンティーヌは自室のソファに腰かけ、静かに紅茶を飲んでいた。
けれど、その優雅なひとときを破るように、扉が乱暴に開かれた。
「クラリス様! たいへんです……!」
侍女のアンが、青ざめた顔で駆け込んできた。
「どうしたの? 何がそんなに……」
クラリスがゆっくりと立ち上がると、アンは震える声で言った。
「セドリック様が……呪術の儀式で、何かが……! 姿が……人の形じゃ……!」
「……っ!?」
カップが落ち、床で砕けた。
クラリスは言葉も出せず、ただその場に立ち尽くした。
セドリックが?
あの冷静で完璧な彼が?
何かを誤って、呪いを受けた――?
「まさか……そんな……っ」
彼が言っていた。「兄がこの国に戻れないようにする計画がある」と。
(その計画が……失敗したの?)
震える手でドアを押し開け、廊下を走る。レイグラント家に使いを出していたのは今朝のこと。すでに何か動きがあるだろうと思っていたけれど……こんな形で返ってくるなんて。
けれど、悲劇はそれだけではなかった。
その夜、クラリスの身体に異変が起きた。
――最初は、左手首だった。
紫色の、奇妙な痣。触っても痛みはないが、冷たくて、ぞわりとする感覚。
(なにこれ……ただのアザじゃ……ない)
翌朝には、右の頬にも同じ痣が現れた。鏡を見て、悲鳴をあげた。
「ああ……っ!」
その声に、侍女たちが駆け寄ってくるが、彼女はベッドにうずくまり、顔を見せようとはしなかった。
医師を呼んでも、薬を塗っても、魔術師に診せても、痣は消えない。
「これは……呪術の余波かもしれません。セドリック様とあなたが深く関わっていたなら、何らかの形で“返し”が来てもおかしくは……」
魔術師の言葉を聞いた瞬間、クラリスの顔が真っ青になった。
(そんな……そんなはずない……)
思い返せば、あの夜。セドリックと口づけを交わしたあの夜。
彼は笑っていた。兄を封じ込める計画をすべて終えたように語っていた。
(わたしたちの未来は、完璧に計画されていたはずなのに……)
――けれど、現実はどうだった?
キルアは呪術を受けず、逆にセドリックが呪いを受けた。
クラリスにも、その影響が降りかかった。
すべてが、崩れていた。
(どこで……どこで間違えたの?)
クラリスは、寝台に突っ伏し、泣き崩れた。
もう鏡を見たくなかった。
友人の前に出たくもなかった。
外にも出たくなかった。
――屋敷に閉じこもる日々。
カーテンは閉ざされ、明かりは薄暗く、屋敷全体がまるで彼女の心そのもののようだった。
毎夜、痣を見ては涙をこぼす。
(どうして……あの時、キルアを信じてあげなかったの……?)
そんな後悔が、喉の奥に引っかかって離れなかった。
(いや……違う。セドリック様を信じたのよ。彼がすべて正しかったはずなのに……)
揺れる想い。後悔と怒り、戸惑いと失望。
そして、気づけば心の奥にぽっかりと空いた“虚しさ”だけが、クラリスを支配していた。
――紫の髪に、紫の痣。
鏡の中のクラリスは、もうかつての華やかで誇り高い子爵令嬢ではなかった。
ただ、過ちと後悔に沈む少女の姿がそこにあった。
未来を信じたあの夜は、すでに遠い記憶。
クラリスの夢は、静かに、そして確実に崩れていく――。




