第33話 キルア、アリアと婚約する
◆伯爵令息の真実と、公爵家の決断
夜の帝都は、昼間とはまるで違う表情を見せる。
静まり返った通りには灯がともり、公爵邸の中庭では虫の音が微かに響いていた。
アリアとキルアは、散策から戻るとすぐに、アリアの父――デュフォール公爵の執務室を訪れた。
「入ってよいぞ」
重々しい声が扉の向こうから聞こえ、アリアは緊張しながら扉を押し開けた。
部屋の中には、大きな机と革張りの椅子。壁一面には書物がずらりと並び、中央には地図が広げられていた。
デュフォール公爵――アリアの父であり、帝国でも屈指の名門貴族の当主。
銀髪に眼光鋭く、威厳と知性が滲み出る男だった。
その公爵が、じっとアリアとキルアを見つめていた。
「……何の用か、アリア」
「父上、私からお話があります」
アリアは一歩前へ出て、まっすぐに父を見た。
「私、キルアさんとお付き合いすることになりました。そして……できれば、彼と婚約したいと考えております」
しんと、空気が張りつめた。
公爵の視線が鋭くキルアへと向けられる。
その威圧に、普通の人間なら一歩下がってしまうだろう。
だが、キルアはその場から動かず、まっすぐに公爵の目を見返した。
「……貴様は確か、あのグリーンドラゴン討伐の英雄の一人だったな」
「はい」
「確かに、その功績は疑いようがない。だが……貴様は“平民”だ」
その言葉に、アリアの眉がぴくりと動く。
「父上……」
「落ち着け、アリア。言いたいことは分かる。だが、貴族というのはただの家柄ではない。
政敵というものがいる。我が家が“平民と婚姻した”という事実だけで、口を極めて非難してくる連中が山ほどいるのだ」
公爵は立ち上がり、机の前に歩み出る。
「だが、私は貴様を拒絶するつもりはない。英雄としての実績は、むしろ我が家の誇りとなる。
ただ……このままでは貴様を正式に婚約者として認めるわけにはいかぬ。どこか由緒ある家に“養子”として入ってもらう必要がある」
そのとき、キルアが静かに口を開いた。
「公爵閣下。……一つ、伝えておかなくてはならないことがあります」
「なんだ?」
キルアは深く息を吸い、そして言った。
「私は……実は、隣国リュード王国のレイグラント伯爵家の長男です」
アリアが目を見開いた。
「え……!?」
公爵もまた、表情を険しくする。
「レイグラント伯爵家だと……?」
「はい。かつて、魔法学院への入学試験に落ち、伯爵家から追放されました。
“役立たず”と罵られ、私は家を出され……その直後から、何者かに命を狙われるようになった。
おそらく、家の者の誰かが私を……完全に消そうとしたのでしょう」
アリアは、言葉も出せずキルアを見つめていた。
彼の過去が、そんなに重く、そして孤独なものだったとは――
「それゆえに、私は身分も名前も偽り、命を守るためにこの国に身を寄せてきました。……黙っていて、申し訳ありません」
キルアは深く頭を下げた。
公爵は黙って数秒、キルアの姿を見つめていた。
そのまなざしは、怒りでも戸惑いでもなく、どこか静かな“理解”の色を帯びていた。
「……伯爵令息ならば、家柄としての問題は何もない。
追放されたということも、正式な記録が残っているか次第だが――たとえそうであっても、今や貴様は“帝国の英雄”だ」
公爵は椅子に腰を下ろし、肘をついた。
「なるほど、話は理解した。しかし、敵を作ってしまった者をそのまま我が家に迎えるのはリスクも大きい。
よって、私は貴様を我が国の信頼ある家――侯爵家か、皇族に近い分家に一度養子として迎えさせる」
「養子……ですか」
「そうだ。身分を“公的に”認めるためだ。これは、貴様自身を守るためでもある。
そして、その件については――兄である皇帝陛下に相談する」
「……兄、ですか?」
アリアとキルアが同時に聞き返すと、公爵は静かにうなずいた。
「そうだ。私と陛下は兄弟だ。つまり、アリアの伯父が陛下というわけだな。
国家と貴族制度に関わる話になるならば、陛下の了承が必要となる」
アリアは驚きに言葉を失っていたが、同時に父の本気を感じていた。
これはただの結婚ではない。
貴族として、家を守るため、彼女自身を守るために動いているのだ。
「……父上、ありがとうございます」
アリアは深く頭を下げた。
キルアもそれに倣い、深く礼をした。
「感謝します、閣下」
「キルア、と言ったな。……一つだけ訊いておこう」
「はい」
「――貴様は、本当にアリアを守り抜く覚悟があるのか」
キルアは、一瞬も目を逸らさず答えた。
「命に代えても。彼女を――アリアを、絶対に守ります」
その言葉に、公爵はふっと口元をゆるめた。
「ならば、あとは儀礼の問題だけだ。……期待しているぞ、未来の“娘婿”よ」
その言葉に、アリアは顔を赤らめながらも、そっとキルアの手を握った。
静かな夜の公爵邸に、確かな絆と、未来への光が芽生えはじめていた。
◆薔薇の誓いと、ふたりだけの夜
夜の帝都は、かすかに風が吹き、遠くで梟の声が響いていた。
デュフォール公爵との謁見を終えたアリアは、自室へと戻り、ドレッサーの前に座っていた。明かりを絞ったランプの灯が、静かな部屋の中を仄かに照らしている。
窓の向こうには、満月と星々。そして中庭には、赤く咲き誇る薔薇たちが、夜露を受けてしっとりと光を帯びていた。
――未来の娘婿よ。
父の言葉が、胸の奥に静かに残っている。
まだ信じられない。夢のようだった。けれど、あの人の手を強く握ったあの瞬間――これが現実だと、確かに思えた。
そのときだった。
「……入ってもいいか?」
扉の向こうから、低く落ち着いた声がした。
アリアは立ち上がり、ほんの少しだけ微笑んで言った。
「……うん、いいよ」
ゆっくりと扉が開き、キルアが静かに部屋へと入ってくる。黒の上着を脱ぎ、シャツ姿の彼は、どこか落ち着かないような仕草で部屋を見渡した。
「……なんか、緊張するな。こんな立派な部屋に入るのは、初めてで」
「ふふ……そう? 私にとっては、あなたが来てくれる方が緊張するよ」
そう言ってアリアは、そっと窓辺の椅子に腰を下ろした。
キルアも彼女の隣に座る。窓の外から、夜風がやさしくカーテンを揺らし、薔薇の香りを運んできた。
「……信じられないね。こうして、父上に認めてもらえる日が来るなんて」
「俺も、まさかあんな展開になるとは思わなかった。……でも、ちゃんと話せてよかった。お前に嘘をついたままじゃ、嫌だったから」
アリアはゆっくりと頷いた。
「ありがとう、話してくれて……。怖かったでしょ?」
「少しはな。……でも、お前がいたから、ちゃんと向き合えた」
アリアは、そっと彼の手を取る。指先に少しだけ震えがあった。
「……婚約が決まったのに、なんだかまだ、胸がいっぱいで……うまく言葉にならないの」
キルアはその手を、そっと引き寄せ、アリアの頬に添えた。
「言葉なんて、いらないよ。……感じてる。お前の気持ち、ちゃんと」
そして、唇が触れ合う。
初めは、静かな口づけだった。互いの温度を確かめるように、優しく、柔らかく。
けれど、それは次第に熱を帯び、深く――そして確かに、想いが重なる。
キルアは、アリアの背中に腕を回し、そっと抱き寄せる。その手は優しく、けれど拒むことなど許さない強さを持っていた。
「……好きだ、アリア。俺は……お前をずっと守りたい。こんな俺だけど、誰にも渡したくない」
アリアの瞳が、涙に濡れた。
「……嬉しい。私も……あなたのすべてが欲しいの。過去も、今も、これからも。……全部、受け止めさせて」
やがて二人は、ベッドの端に腰を下ろし、もう一度深く、長いキスを交わした。
ランプの灯が、揺れている。
アリアの髪がシーツに広がり、キルアの指がその流れを撫でるように辿っていく。
唇が、額に、まぶたに、頬に――そして首筋に。
アリアは静かに目を閉じ、肌に伝わる彼の温もりに身を委ねた。
「……ここにいて。今夜だけじゃなくて、ずっと……」
その願いに、キルアは何も言わずに応えた。
淡く月が差し込む部屋で、ふたりの身体と心は、ゆっくりと一つになっていった。
薔薇の香りが満ちる夜。
何度も名前を呼び合い、何度も唇を重ね、互いの奥深くにまで溶けていく。
触れるたびに、心がほどけ、過去の痛みすら優しい記憶へと変わっていくようだった。
――ああ、これが、愛する人と結ばれるということ。
やわらかく、あたたかく、そして永遠に残る夜。
月明かりの中で交わされた誓いは、言葉ではなく、確かな絆としてふたりの中に刻まれていった。
やがて、静寂の中で、キルアはアリアを抱きしめたまま囁いた。
「……どんなことがあっても、俺はお前のそばにいる。たとえ世界を敵に回しても、アリアだけは――絶対に、守る」
アリアはその胸の中で、そっと微笑んだ。
「……ありがとう。私も、あなたを守るから。だって、私は……あなたの妻になるんだから」
夜はまだ終わらない。
薔薇のように甘く、濃密で、そして誰にも触れられない――ふたりだけの特別な夜が、静かに更けていった。




