第31話 アリアの揺れる想い
◆揺れる想いと月夜の相談
祝賀会が終わった夜、アリア=デュフォールは久しぶりに帝都の北端にある公爵邸へと戻ってきた。
白亜の外壁に囲まれた由緒ある屋敷。その空気には、幼い頃から馴染んだ花の香りと、規則正しく整えられた庭の静けさが満ちていた。
グリーンドラゴン討伐の偉業を成し遂げ、命の呪いからも解放された――だが、心は不思議と落ち着かない。
キルアと、想いを確かめ合ってから、まだ数日しか経っていない。だが彼の体温も、言葉も、瞳も、確かに胸に刻まれている。
それでも――本当に、あの人と結婚していいのだろうか?
その問いが、今も胸の奥を離れなかった。
屋敷の者たちは淡々と彼女を迎え入れ、客人――リーナとキルアの部屋もすぐに用意された。だがアリアには、心の整理がつかぬまま、父に呼ばれて執務室へと向かうことになる。
そこにいたのは、デュフォール公爵。彼女の父であり、フラン帝国でも名の通る老練な政治家だ。
「……戻ったか、アリア」
「はい。ご無沙汰しておりました、父上」
厳格な顔つきの彼は、アリアの成長を見つめるようにしばし黙し――やがて、机の上の一束の書類を差し出した。
「呪いの解呪と討伐の報せを受けて、名家から縁談の申し出が殺到しておる。見ての通り、山のような釣書だ」
「……」
アリアは返す言葉を失った。だが、公爵はそれを責める様子もなく、静かに続けた。
「もちろん、すべて断ることもできる。わたしは、おまえの自由を縛るつもりはない。ただ……おまえ自身の望む未来を、もう一度見つめなおしてほしいのだ」
アリアは、ほんの僅かに目を伏せた。
「……時間を、ください」
公爵は頷く。そして、その瞳には深い疲れのなかにも、わずかに安堵の色が浮かんでいた。
「おまえはもう、誰のためでもなく、自分のために生きていい。命を取り戻した今こそな」
◇ ◇ ◇
その夜、アリアは一人、バルコニーに立っていた。
白いナイトドレスに薄いケープを羽織り、月明かりに照らされながら、静かに庭を見下ろす。
結婚すれば、公爵家の跡取りとしての立場、帝国社交界での影響――それらすべてがキルアにも降りかかる。
彼はレイグラント家の長男としての名を隠し、“死んだ者”として生きているのに。自分がその重荷になるのではないか。
「……私は、何を願ってるの?」
そう呟いた瞬間、部屋の扉が軽くノックされる。
「入っても、いい?」
現れたのは、ラフなローブ姿のリーナだった。手には湯気の立つミルクをふたつ。
「……ありがとう、リーナさん」
二人はソファに腰掛け、暖かな飲み物を口にしたあと、アリアがそっと呟く。
「……私、幸せすぎて怖いんです」
「ふん。贅沢な悩みじゃないの。それ、恋ってやつだね」
「そう……かもしれません。でも……」
アリアは、膝の上でそっと手を重ねた。
「彼と結ばれれば、きっと彼の過去が暴かれる。……帝都はそう甘くない。貴族も、噂も、敵も多い。それでも……私、キルアと一緒にいたい。あの人の傍にいたいって、思ってしまうんです」
リーナは黙って聞いていた。彼女の視線は優しく、どこか姉のようでもあった。
「……アリア。あんたさ」
「はい?」
「たとえば逆だったらどうする? キルアが“迷惑がかかるから”って、あんたと距離を取ったら、どう思う?」
アリアは、一瞬目を見開いた。
「……それは……」
「ムカつくでしょ。寂しいでしょ。……でも、それが今のあんたの態度なんだよ」
リーナは、すっと背を伸ばし、真っ直ぐアリアを見つめた。
「好きってのは、守るだけじゃなくて、頼ることでもあるんだ。……キルアのそばにいたいって思うなら、その気持ちを信じてあげなよ」
「……」
「それにさ、あいつ、あんたのことになるとびっくりするくらい真面目だし。……たぶん、ずっと迷ってるよ。自分なんかでいいのかって」
アリアの胸が、きゅっと締めつけられる。
あの夜、彼の手が、自分の頬をそっと撫でたときの温もり。名前を呼ばれたときの優しい声。唇を重ねたときの――確かな想い。
「……私……」
小さく呟く。
「私、怖がってただけなんですね。自分の幸せを、信じることが」
リーナは満足そうに頷いた。
「うん。それなら――明日、ちゃんと顔見て言いな。『一緒に生きたい』って」
アリアは、ゆっくりと顔を上げた。月明かりが、彼女の横顔をやさしく照らしている。
「……ありがとう、リーナさん。私……ちゃんと向き合ってみます」
「そうそう、その顔よ。キルアも絶対、嬉しいって」
リーナは軽くウインクして立ち上がった。
「じゃ、あとは二人で決めな。――あんたたちの未来なんだから」
そして部屋を出ていく背中を、アリアは見送った。
胸の奥で、かすかに何かが弾けたような気がする。
恋し、悩み、迷い――それでも願う未来があるなら。自分の気持ちを、きっと信じていい。
アリアはそっと胸に手を当て、月を見上げた。
――明日、勇気を出してみよう。
その想いだけが、胸の奥に静かに宿っていた。




