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閑話2 レイグラント伯爵家にキルアの英雄談が伝わる

◆呪われた決意


 それは、突然だった。


 西の空に現れたグリーンドラゴン――帝国を震撼させた空の災厄を、たった一人の青年が討ち倒した。


 その名は、キルア=レイグラント。


 セドリック=レイグラントがその名を耳にしたのは、レイグラント伯爵邸の応接間。父ギルベルトの口からだった。


 「……やはり、キルアは只者ではなかったか。帝国の騎士団も驚いていたそうだ。“風の剣聖”とまで呼ばれているらしい」


 鋭い眼光と黒髭が印象的なギルベルト伯爵。かつて“蒼嵐のギルベルト”と呼ばれた伝説の魔術師は、書簡を読み上げながら、どこか嬉しそうな顔をしていた。


 その隣では、優雅な婦人がそっと微笑んでいた。キルアとセドリックの母、リュシアだ。淡い栗色の髪に、どこか寂しげな瞳。昔は“聖女さま”と呼ばれた、気品と優しさを併せ持つ女性だった。


 「本当に……生きていたのね、あの子」


 リュシアは、手にしたティーカップを胸元に抱きながら、ぽつりとつぶやいた。


 「しかも英雄だなんて……ふふ、信じられないわ。あの子が、帝国で、そんなにも……」


 その場の空気は、あたたかな安堵と感動に包まれていた。だが。


 (……は?)


 セドリックだけは、別だった。


 「……兄さんが、グリーンドラゴンを……?」


 無意識に口元がひきつる。


 信じられなかった。いや、信じたくなかった。


 (あの時、確かに……あの馬車は谷に落ちたはずだ)


 全部、自分が仕組んだことだった。兄をこの家から追い出し、二度と戻れないようにした。あれで終わったはずだった。


 それなのに。


 兄は生きていた。それどころか、“風の剣聖”だの“帝国の英雄”だのと……。


 「……すごいな、兄さん」


 なんとか取り繕うようにそう言ったが、喉の奥が焼けつくようだった。


 (何がすごい……ふざけるなよ)


 あれほど劣っていたくせに。魔法も使えず、術式も組めなかったくせに。


 (どうして、お前ばかりが……)


 兄が消えたあの日から、セドリックは努力してきた。三歳下という立場ながら、成績は常に優秀で、魔術の腕も大人顔負けだった。


 ついに父も、自分を次期当主として見始めてくれていた。


 (やっと、俺の時代が来ると思ったのに……)


 兄がいなければ、自分は誰にも劣らない。ずっとそう思っていた。


 だからこそ――


 「……リュシア。私は、考えている」


 父ギルベルトの低く落ち着いた声が、空気を変えた。


 「レイグラントの名を継ぐ者は、やはりキルアに任せるべきではないかと。あの子が戻ってきてくれるならば――」


 「ええ、私もそう思います。きっと、キルアなら……」


 ――その言葉に、セドリックの心は完全に凍りついた。


 (は? 待て……今、なんて言った?)


 次期当主の座を、兄に戻す?


 ふざけるな。今さら何を。自分がどれだけ努力してきたと思ってるんだ。


 「……父上、母上。兄さんが生きていたことは、喜ばしいことです」


 セドリックは笑顔を作りながら、静かに口を開いた。


 「ですが、兄さんはすでに家を離れました。家名を捨て、帝国へと渡った人間です。今さら戻ってきて、当主の座を……というのは、少し、筋が違うのではないでしょうか?」


 ギルベルトは目を細めたが、すぐに顔を戻した。


 「確かに、その通りだな。だが……もし本人が望むのなら、再びレイグラントの名を背負わせてもよいと、私は考えている」


 「兄が……戻ってくる?」


 セドリックの手の中で、ティーカップが小さく震えた。


 (そんなの、絶対に……)


 心の奥から、黒い感情がこみあげてくる。嫉妬、憎しみ、焦り――すべてが喉元まで迫ってくる。


 (兄さんは……この家にはもう必要ない)


 キルアが戻ってくれば、すべてが壊される。


 自分の努力も、評価も、未来も。すべて、また兄の“影”に飲み込まれる。


 (なら――)


 兄を、本当に消さなければならない。


 (今度こそ、確実に)


 だが、前回のように、ただの暴力や事故では足りない。キルアは生き延び、英雄にまでなった。


 ならば、今度は――確実に、目に見えぬ方法で。


 この国でも禁じられた“呪い”。


 かつて読んだ本に記されていた、相手の魂に直接干渉する暗黒の術式。術を発動するには、対象が長く愛用していた持ち物を“媒介”として使う必要がある。


 (兄さんの部屋に……まだ、何か残っているはずだ)


 その時、セドリックの中で、ひとつの計画が静かに芽を出した。


 それは、毒にも似た甘い誘惑。


 禁じられた道を進めば、もう後戻りはできない。


 でも――


 (もう、俺にはその道しか残されてないんだ)


 セドリックの瞳に、迷いはなかった。


 静かに立ち上がると、彼は誰にも見つからぬよう、屋敷の東棟――かつて兄が使っていた部屋へと足を向けた。



◆揺れる薔薇と紅茶の香り


 晴れた午後のことだった。


 レイグラント伯爵家の庭園で開かれた、貴族令嬢たちの小さなお茶会。陽光を浴びて咲き誇るバラと、テーブルの上に並べられた繊細な茶器。上品な笑い声が、そよ風に乗って広がっていく。


 クラリス=エヴァンティーヌは、完璧な笑みを浮かべながら、紅茶のカップを傾けていた。紫の髪を優雅に揺らし、品よく微笑むその姿は、誰が見ても“未来の伯爵夫人”にふさわしいものだった。


 ――その時だった。


 「ねえ、聞いた? 隣国で“グリーンドラゴン”が出たらしいのよ」


 「ええ。でも、倒されたって聞いたわ。しかも、倒したのは……なんと、元レイグラント家の長男、キルア様だって!」


 その瞬間、クラリスの手がぴたりと止まった。


 ……カップの中の紅茶が、わずかに揺れる。


 「キルア……様?」


 微笑みを崩さぬまま、彼女はゆっくりと問い返す。


 「そんなはず……彼は、数か月前に亡くなったはずでしょう?」


 「でもね、目撃情報もあるの。銀髪に蒼い瞳、白い肌……まさにキルア様そっくりの青年が、グリーンドラゴンを一刀で切り伏せたって。しかも、その後ギルドから“英雄認定”されたって噂よ」


 「きっと生きてたのね……運命って、すごいわ」


 「それだけじゃないの。最近、レイグラント家の執事が“正式な跡継ぎについては、まだ決定していない”って発言したって話も……。まさか、当主に復帰なんてこと、あるのかしらね?」


 クラリスの頭の中が、ざわりと揺れた。


 (……まさか)


 再び当主に?


 キルアが、死んだと思っていたあのキルアが?


 そして今、英雄として戻ってくる……?


 (やめてよ……! わたし、もうあなたを捨てたのよ!)


 それなのに――また、すべてをひっくり返すつもり?


 焦りと苛立ちが胸をざわめかせる。


 でも――


 (……待って)


 クラリスはカップを口元に運びながら、ふと気づいた。


 (これって、むしろ……好都合なのでは?)


 キルアが再び当主になる可能性があるなら――わたしの婚約も、もとに戻せばいいだけ。


 そうよ。わたしが婚約したのは“セドリック”ではなく、“レイグラント家の次期当主”。それがセドリックだと思っていただけのこと。


 「ふふっ……」


 思わず笑い声が漏れた。


 「クラリス様? どうかなさって?」


 「いいえ。少し面白い話を思いついただけ」


 (セドリックとの婚約は、いつでも解消できる。正式な婚姻前なのだもの)


 そして何より――あのキルアは、もう“落ちこぼれ”ではない。


 グリーンドラゴンを倒した英雄。未来ある実力者。周囲もきっと、彼の復帰を歓迎するはず。


 (あれほど素晴らしい功績……あのキルアが、わたしの婚約者として戻るなんて)


 素晴らしい――そう、素晴らしいじゃない。


 「私を先に捨てたのは、彼。そして、その責任は彼にある。試験に落ちて、追放され、婚約破棄に至ったのは“彼の失敗”のせい」


 (なら、再び婚約を戻すのも“彼の責任”として当然のことよね?)


 貴族社会では“結果”こそがすべて。


 落ちこぼれの婚約者の過失で、泣きながら別れた令嬢、わたしクラリス。そんな悲劇の二人を元婚約者を取り戻すために強くなって英雄となった彼キルア、わたしは彼を迎え入れる。――なんと美しい話。


 (キルア、あなたはわたしの人生から消えたと思っていた。でも、また使えるなら……使わせてもらうわ)


 クラリスの目が細く笑った。


 その視線の奥にあったのは、“愛”ではなかった。


 “計算”と“未来”――それだけ。


 (さあ、どうなるのかしら? キルアが英雄として再び戻ってくるのなら、セドリックから乗り換えるのもあり)


 お茶会の終わり、クラリスは立ち上がりながら、心の中でそっと囁いた。


 「英雄様、早く戻ってきてね。あなたの“未来の伯爵夫人”が、待っているわ――」


 紅茶の香りが、ほのかに残るバラの庭に、少女の笑みが静かに広がっていった。

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