第3話 キルア、弟セドリックに命を狙われる
◆笑顔の裏側
伯爵家の馬車が、静かに門を出ていった。
早朝の空はまだ薄暗く、霧が敷地の庭に漂っている。キルアを乗せた馬車は、まっすぐ帝都西区に向かって走っていく。車輪の音が石畳を叩き、やがてその音も徐々に遠ざかっていった。
それを、セドリック=レイグラントは、屋敷のバルコニーからじっと見下ろしていた。
銀の髪を持つ兄が乗る馬車の背を、彼は微動だにせず見送る。
やがて、それが完全に見えなくなると――彼は、ふっと笑った。
「ようやく……消えたか」
誰にも聞かれぬよう、囁くように言ったその声には、かつて兄に向けていた尊敬も、憧れもなかった。ただ冷たい喜びと、安堵の感情があった。
◇ ◇ ◇
かつてのセドリックは、兄キルアを尊敬していた。
いや、少なくともそう見せていた。
あの銀髪の兄は、魔力量でも容姿でも家の者から一目置かれ、次期当主として当然とされていた。弟である自分はいつもその背中を追う立場だった。
だが――キルアには魔法が使えなかった。
いくら魔力を持っていても、術が組めないのなら意味はない。セドリックはその事実を、ずっと前から知っていた。
それでも父や母は兄を信じ、希望を託し続けた。セドリックにはその日々が、苦痛でしかなかった。
「……あんな欠陥品に、ずっと道を譲ってきたなんて、バカらしいよ」
セドリックは、バルコニーの手すりに手を置いたまま、ポツリと呟いた。
「兄さんは……この家には必要ない。むしろ、邪魔だった。心の底から、やっといなくなってくれて嬉しいよ」
その時、後ろから足音が近づいてきた。
「セドリック様、呼ばれましたか」
現れたのは、老齢の男。白い髪に鋭い目つきをした、黒衣の執事――セバスチャン。
彼はレイグラント家に仕えて三十年。かつてギルベルト伯にも忠誠を誓い、今では若きセドリックの教育係兼、側近となっていた。
セドリックはその顔を振り返り、やや芝居がかった仕草で微笑んだ。
「セバスチャン。ひとつ……頼みたいことがあるんだ」
「はっ。何なりと」
セドリックの目は細まり、笑顔のまま声を潜めた。
「兄さんが……戻ってこられると、困るんだよね。家の名を捨てて、帝都でひっそり生きてくれるならまだしも……何かの間違いで、また魔術学院に受かったり、家の名にすがって戻って来たりしたら――と、思うと」
「……なるほど」
「だから……途中で、馬車が“事故に遭った”ってことにできないかな」
沈黙。
セバスチャンの表情は変わらない。ただ、わずかに顎を引いて答えた。
「帝都への道中、ミリア渓谷のあたりがよろしいかと。朝霧も深く、地元の盗賊がよく出没すると評判です。報告さえ正しくすれば、だれも疑いはしないでしょう」
「うん。頼んだよ、セバスチャン。できるだけ……苦しまずに、ね」
「承知しました」
そう言って、セバスチャンは静かに頭を下げた。
◇ ◇ ◇
それから十数分後。
セバスチャンは厩舎にて、数人の傭兵に指示を出していた。黒い装束、無言で従う男たち。その瞳には一片の情もなかった。
「標的は、銀髪の少年。名はキルア。無駄に血を流すな。死体は谷底に落とせ。馬車もろとも消える形で構わん」
「了解」
傭兵のひとりが小さくうなずいた。
全ては整った。
あとは、命令通りに“事故”が起きればいい。
◇ ◇ ◇
一方そのころ――
キルアは、馬車の窓から遠ざかる屋敷の影を見ていた。
あの家には、もう戻ることはない。
父の冷たいまなざし、母の伏し目がちの姿、そして――
弟の、あの“優しい”笑顔。
……何かが、引っかかっていた。
「……まさかね」
そう自分に言い聞かせる。
弟は、あんな子じゃない。少なくとも、昔のセドリックは――
だけど、キルアの胸には、なぜか不吉な冷たさが残っていた。
それが何を意味するのか、彼はまだ知る由もなかった。
◆影から見守る者――「お坊ちゃまは、まだ十八歳なのに」
あの日の午後のことは、今でも胸の奥に、重く残っています。
王都の西、高台に建つレイグラント伯爵家の屋敷。その古い石造りの回廊の片隅で、わたくし――エマ=クラインは、いつものように掃除をしておりました。
もう三十年以上、レイグラント家に仕えております。旦那様の少年時代から知っておりますし、奥様がこの家に嫁いできた日も、そして坊ちゃまたちが生まれた日も、よく覚えております。
――そう、キルア様が生まれた日も。
蒼い目で、まるで空のように透き通った瞳の赤子で、奥様が涙を浮かべながら「この子は、きっと人々を救う子になりますわ」とおっしゃっていたのが、つい昨日のことのようです。
それなのに――
あの書斎の前を通りかかった時、つい、足が止まってしまったのです。
中から、旦那様と奥様のお声が聞こえました。
「……キルアは落ちた。これは事実だ。そして魔術が扱えないなら、貴族としての役割は果たせない」
「送り出す形に……」
わたくしの手に持ったモップが、床に落ちました。
信じられなかったのです。
確かに、貴族というのは魔力を誇りとし、その力を持って民を導くものだというのは知っております。代々この国では、魔術の才能がそのまま貴族の価値を決めるようなものですから。
ですが……それでも――
キルア様は、努力なさっていた。わたくし、知っております。
夜中まで書斎の明かりを灯して、魔導書を読んでいらした。指先に火傷を負っても、風の精霊に呼びかける練習をやめなかった。周りの子供たちが遊びまわっている時間にも、一人で裏庭の石畳の上に立って、何時間も魔力の制御に挑戦していたのです。
……それを、わたしたちは、見てきたはずなのに。
◇ ◇ ◇
その夜、家族での会談の場にも、わたくしは陰から立ち会っておりました。配膳を終えて退くように言われたのに、どうしても足が動かなかったのです。
封筒が差し出され、旦那様が「平民として生きていけ」とおっしゃった瞬間――
キルア様は、何も言わずにそれを受け取られました。
奥様は、涙を隠すように目を伏せていらして。
セドリック様は……あの年頃の子にしては大人びて、冷静でしたけれど。どこか遠ざけるような視線で兄を見ておられたのが、つらかったです。
――坊ちゃまは、まだ十八歳なのです。
十八歳の子供に「貴族ではない」「ここにはもう居場所がない」と突きつけて、それで終わりだなんて。そんなの、あまりにも――あまりにもひどい。
◇ ◇ ◇
深夜、わたくしは寝室に戻れず、裏庭のほうへ出ていきました。
すると、前庭の方に、ひとり佇む銀色の髪が見えました。
キルア様――
ああ、どうか、呼び止めてさしあげればよかった。名前を呼んで、駆け寄って、抱きしめて差し上げればよかった。
でも、できなかったのです。
坊ちゃまの肩が、小刻みに震えていて。
顔を上げるたびに、頬を伝うものが夜の月に反射していて。
その姿が、あまりにも……あまりにも儚くて、美しくて、悲しくて――声をかけることができなかった。
わたくしはただ、その場に膝をついて、手を合わせるように祈ることしかできませんでした。
――お願いです、神様。どうかあの子に、新しい道をください。
レイグラント伯爵家ではなくても。貴族でなくても。魔術師でなくても。
あの子が、あの子らしく生きられる場所を――
◇ ◇ ◇
その後、キルア様は馬車で帝都の北へ向かわれました。
屋敷を出るとき、わたくしはそっと荷物に、あの子が幼いころ描いた家族の絵を忍ばせました。
誰も気づいていないかもしれませんが、あの絵にはちゃんと、みんなが笑っているんです。
旦那様も、奥様も、セドリック様も。もちろんキルア様も。
いつかまた、あの絵のように――もう一度、笑いあえる日が来ることを信じて。
わたくしは今日も、この屋敷の掃除をしております。
けれど――心は、あの銀髪の坊ちゃまに、ずっと寄り添っているのです。