第21話 キルア、精霊に出会う
◆精霊との邂逅
森の空気が変わった――そう感じたのは、牙獣との戦いを終えてさらに奥へ進んだ午後のことだった。
空が遠く、木々の枝は天を覆うように茂り、地面は苔に覆われている。陽の光さえも遮られたその森は、まるで時間が止まったような静けさに包まれていた。
「……ここ、明らかに今までと違うね」
リーナが立ち止まり、空気を感じ取るように目を閉じる。
「風の流れが違う。何かが……いる」
キルアも剣の柄に手をかけたまま、黙って周囲を見渡していた。
アリアは、一歩一歩、慎重に前に進む。その表情は不安そうでありながら、決意に満ちている。
――精霊のお守りは、この森のどこかにある。
いや、それ以上に、精霊そのものが。
◇ ◇ ◇
森の奥に、小さな泉があった。
その水は透き通っていて、底に沈んだ小石まで見える。周囲には青白い花が咲き乱れ、風に揺れる花びらは、まるで夜空の星のようだった。
「……この場所だけ、別世界みたい」
アリアがつぶやく。
「“風の精霊王が眠る泉”……文献に出てた場所に、似てるわ」
リーナが草をかき分けて泉へと近づいた。
「ここでなら、呼べるかもしれない」
そう言って、リーナはアリアの方へ向き直る。
「アリア、準備できてる?」
「はい……たぶん、大丈夫です」
「じゃあ、静かに目を閉じて。泉に向かって、心の中で呼びかけて。“私はここにいる”って。……それだけでいい」
アリアは静かにうなずいた。
そして、泉の前にひざまずき、両手を胸元で組むと、そっと目を閉じた。
――私は、ここにいます。
――生きたい。……誰かに、生かされるのではなく、自分の意志で。
――精霊さま、もし……あなたが本当に存在するのなら――
その瞬間だった。
泉の水面がふわりと揺れた。
風が吹いたわけでもない。だが、水面に小さな波紋が広がり、そこから――光が、ふわりと昇っていった。
「……!」
アリアが目を開ける。
水面から立ち上がる光の粒は、青と白の輝きをまとい、まるで生きているように舞いながら空中へと昇っていく。
その中央に――人のような、鳥のような、何とも形容しがたい“存在”があった。
それは、風そのもののような姿だった。
ふわり、と漂う羽のような光。長い尾を引いて、宙を漂うそれは、確かに“この世界のものではない何か”だった。
「……精霊……?」
アリアがぽつりとつぶやく。
風の精霊は、彼女に向かってゆっくりと近づいた。
「……」
言葉ではない。けれど、その気配ははっきりと伝わってくる。
――お前は、なぜここに来た?
「私は……死にたくない。けど、生きたいって思うだけじゃ、ダメなのは分かってます。だから……ちゃんと、自分の足で、ここまで来ました」
――お前に、願う資格はあるか?
「……分かりません。でも、私は……あなたの祝福が欲しい。呪われた運命から、ほんの少しでも、変わる可能性があるのなら……!」
風の精霊は、その場でふわりと舞い、アリアの周囲を旋回し始めた。
そして、彼女の胸に――静かに、降り立った。
その瞬間、青い風が舞い上がった。
アリアの髪がなびき、目が見開かれる。
「これは……」
光が彼女の胸元に集まり、小さな“羽飾り”のような形を取って結晶化した。
「……精霊のお守り……!」
リーナがつぶやく。
それは、精霊の祝福が宿った印だった。
◇ ◇ ◇
風が静まり、精霊の姿はやがて空へと消えていった。
アリアは膝をつき、肩で息をしながら、胸元に宿った羽飾りをそっと握りしめた。
「……私……祝福、されたんですね……」
「よくやった」
キルアの声は、どこか優しかった。
「ここまで来たのは、お前の力だ」
リーナもまた、そっと微笑んだ。
「運命ってのは、たぶん……変えようと思わなきゃ、絶対に変わらないものよ。あんたは、自分でその一歩を踏み出した」
アリアは静かに、涙を流した。
悔しさでも、悲しみでもなく。
心の奥底に、ずっと冷たく残っていた“諦め”が、少しだけ溶けていくような、そんな涙だった。
◇ ◇ ◇
その夜。
森を出た五人は、簡易の野営地で小さな焚き火を囲んでいた。
アリアは、羽飾りを首に下げながら、何度もその感触を確かめるように撫でていた。
「……わたし、ちゃんと生きたい。できれば、普通の女の子として」
「生きるってのは、たぶん“普通”に向かって歩くことだ」
キルアのその言葉に、アリアは小さく笑った。
「ありがとう、キルアさん。リーナさんも」
「ふん。礼を言うのはまだ早いわ。これから王都に戻って、ちゃんと診てもらわないと」
リーナはぶっきらぼうに言いながらも、どこか安心した表情をしていた。
焚き火がパチパチと音を立て、星空が静かに夜を包み込んでいく。
精霊との出会いは、確かに運命の歯車を動かした。
――だが、それはまだ“始まり”にすぎない。
キルアは夜空を見上げながら、そっとつぶやいた。
「……次は、呪いの根を断ちに行く」
◆祝福の夜と、揺れる想い
別邸に戻った5人、その後はアリアとキルアとリーナの3人で控えめながらも、小さなお祝いの宴を開いていた。ヴァンとエルナには参加を辞退されていた。
木造の天井にはランプの柔らかな灯りが揺れ、森で採れた果実と、リーナが瓶から注いだ琥珀色の酒が香り立っていた。
アリアは、胸元にかけた精霊の羽飾りを、何度も確かめるように撫でていた。まだ夢のような感覚が抜けきらないのだろう。彼女の頬はうっすらと紅潮し、目元はやや潤んでいる。
「おつかれ、アリア。……本当によくやったな」
キルアの声は、どこか柔らかく、深く響いた。
「ありがとうございます……でも、わたし、一人じゃ……」
「一人でやったんだよ。俺たちは隣にいたけど、お前が前に進んだ」
リーナがくすりと笑った。
「ま、少しは大人っぽくなったんじゃない? ちょっとだけ、ね」
三人の笑いがこぼれた。暖かい空気が部屋を包む。
やがて、グラスが進み、火照った頬を手であおいだリーナが、ぽつりと話題を投げた。
「ねえ、アリア。最近、あんた……キルアのこと、気になってるでしょ?」
アリアは思わず固まった。動かしかけた手が止まり、目を見開いたまま、リーナを見つめる。
「え、えと……な、なにを……!」
「そういうの、すぐ分かるの。あんた、最近よく目で追ってるし。ちょっとしたことにも反応してるし」
リーナはからかうように微笑んだが、その目にはどこか真剣さがあった。
「で、どうなの?」
アリアはしばらく沈黙した後、少しだけ俯きながら答えた。
「……でも、キルアさんとリーナさんって……そういう、関係なんですよね?」
「ふむ。ま、愛し合ってるのは事実よ?」
「……だったら、わたしが何かを望んだら、きっと、壊れちゃう気がして……」
アリアの声は震えていた。リーナは酒を一口飲んでから、ふっと視線を窓の外に向けた。
「……あんたは、優しい子ね。だからこそ言うけど――愛ってのは、奪い合うもんじゃないの。重なって、寄り添って、変わっていくものよ」
リーナの声は穏やかで、それでいてどこか遠くを見ているようだった。
「私が最初に好きになった人も、人間だった。とても優しくて、まっすぐな人で……一緒に笑って、泣いて……でも、彼は歳を取って、私を置いて先に逝ったわ」
「……」
「私は、きっとまた誰かを見送る。キルアも、例外じゃない。でも、あんたは――一緒に年を重ねられるでしょ? それは、私にはできないこと」
アリアは、言葉を失っていた。心の奥が、どこか温かく、そして痛む。
リーナは立ち上がり、肩をすくめた。
「ま、酔った勢いで語りすぎたわ。ちょっと外の風に当たってくる」
ぱたん、とドアが閉まる音。
部屋には、キルアとアリア、二人きりの静けさが残された。
微かな焚き火の音が、時間をゆっくりと流していく。
「……さっきの話、聞いちゃってごめんなさい」
アリアが、ぽつりと口を開いた。
「俺も……全部は知らなかった。リーナの過去のこと」
キルアの声は低く、静かだった。
「でも……俺も、お前のことを気にしてた」
アリアは、息を呑んだ。
「……でも」
「でも、今はまだ……“そういう気持ち”をどう扱えばいいのか、分からない」
アリアが、ゆっくりとキルアを見る。彼の瞳もまた、彼女をまっすぐ見つめていた。
「お前が嫌じゃなければ、ゆっくりでいい。……少しずつ、お互いのことを知っていけたら、それでいい」
その言葉に、アリアは小さくうなずいた。
「……はい。わたしも、今すぐにじゃなくて……ちゃんと考えてみたいです」
沈黙があった。でも、それは決して重苦しいものではなかった。
焚き火の音と、外から聞こえる風の音が、優しくその空間を満たしていた。
「……ねえ、キルアさん。わたし、今日初めて“祝福された”って、ちゃんと思えたんです」
「……そうか」
「だけど、それだけじゃまだ足りない。“誰かに愛される”ってことも、これからのわたしには、たぶん必要なんです」
「……」
「だから、いつか――ちゃんと、好きって言えたとき、そのときは、ちゃんと答えてくれますか?」
キルアは、笑った。
「そのときは、ちゃんと向き合う。だから今は……」
「今は、ありがとうだけで、いいですか?」
「ああ。ありがとう、アリア」
二人は、言葉の代わりに、そっと視線を交わし合った。
心が重なりそうで、まだ少しだけ遠い。
だけど、それでもいいと思えた。
扉の外から、リーナの気配が戻ってくる。
ふっと、気が緩んだようにアリアが笑った。
そしてキルアも、それに続いて、柔らかく微笑んだ。
その夜は、まだ静かに、更けていく。




