第20話 キルア、精霊の森へ行く
◆精霊の森へ――そして、牙の咆哮
朝の湖畔はひんやりと澄んでいた。
小鳥のさえずり、木々を揺らす風の音。その穏やかな空気のなか、フラン湖の別邸から、五人の影が馬車をあとに森の奥へと足を踏み入れようとしていた。
「……いよいよね」
リーナが腰の杖を軽く叩きながらつぶやく。
「準備はいいか?」とキルアがアリアを見ると、彼女は少しだけ緊張した顔で、けれど真っすぐにうなずいた。
「はい。わたし、自分で決めましたから。行きます」
その横に立つのは、黒い戦装束に身を包んだ青年――執事のヴァン。そして、赤毛の髪を結った凛々しい女性、戦闘メイドのエルナ。どちらも公爵家直属の護衛であり、剣術と魔法の腕は確かだ。
「姫様の護衛は、このヴァンにお任せを」
「精霊信仰には詳しくありませんが、森の戦いなら心得ています」
エルナの静かな声が頼もしかった。
こうして――五人の精霊の森への探索が始まった。
◇ ◇ ◇
森の入口は、一見してどこにでもあるような緑深い山道だった。
しかし、一歩踏み入れた瞬間に感じる空気の重さ、湿った風のなかに混じる不思議な気配。キルアは、肌の奥がチリチリするような緊張を感じた。
「……これが、精霊の棲む森か」
「木が生きてるみたいだね」とアリアがぽつりとつぶやいた。
たしかに、どの木も太く、枝が空に手を伸ばすように広がっている。苔むした根元に、精霊文字のような模様が浮かび上がって見える気もした。
「この森には、古くから“風の精霊王”が眠ってるって言われてるわ。……ま、伝説の域だけどね」とリーナ。
「だとしても、普通の魔物がうろついてる場所じゃなさそうだな」
キルアは視線を巡らせながら、森の中を進んだ。
エルナとヴァンは、アリアを中心に警戒の輪を組むように動き、リーナが先頭、キルアは後衛を務める形で進行していった。
◇ ◇ ◇
午後に差し掛かる頃だった。
「……止まって」
リーナの声がぴたりと響く。
全員が即座に停止する。
「いる。こっちに向かってきてる。しかも三体……大型」
「来たか」
キルアが剣を抜いた。
リーナが魔力を練り、ヴァンとエルナがアリアの前へと素早く出る。
ガサ……ガサッ。
葉のざわめきと共に現れたのは、毛並みが黒く濡れたように艶やかな、四足の獣だった。だが――その姿は異様だった。
「……牙獣か。しかも“魔喰い種”だ」
リーナが顔をしかめる。
「魔喰い種……?」
「魔力を餌にしてる魔獣。こいつら、精霊の加護を嫌うどころか、襲いかかってくるわよ」
牙獣は唸り声をあげた。口元には鋭い牙、背中にはトゲのような硬質の突起がいくつも浮き上がっていた。
次の瞬間、先頭の一体が猛スピードで突っ込んできた!
「来る!」
ヴァンが前に出て、鋼の短剣でその牙を受け止めた。
「……ッ、速い……!」
衝撃で足元がめり込む。だが、すぐにエルナが後方から魔法陣を放った。
「《アイス・スパイク》!」
氷の棘が牙獣の横腹に突き刺さり、うなり声をあげて転倒する。
「よしっ、一体目――」
「まだよっ!」
リーナが杖を突き出し、風の魔法を詠唱した。
「《ウィンド・ブレイク》!」
残りの二体のうち一体が、横からの突風に吹き飛ばされ、木の幹に激突した。
だが――最後の一体が、アリアの方向へ跳躍した!
「アリア、伏せろっ!」
キルアが風を切って走る。
ガンッ――!
剣が牙獣の牙と激突する。
だが、その力に押され、キルアは地面を滑った。
(まずい、体重が違いすぎる……!)
その時――。
「《スピア・ウィンド》!」
リーナの魔法が横から牙獣を貫いた。
キルアは反動で立て直し、一気に斬り上げる。
「はぁっ――!」
金属を切るような音とともに、牙獣が倒れた。
森が、静寂を取り戻す。
「……終わった、か」
キルアは息を吐いた。
◇ ◇ ◇
「大丈夫!? 怪我はない?」
アリアが駆け寄ってきた。
キルアは膝に手をついて、呼吸を整えながら笑う。
「無傷……ってわけにはいかねぇが、動ける」
「さすがですな」とヴァン。
「魔喰いの牙獣を一日目で三体も倒すなんて……とんでもない森だね」
リーナが額の汗を拭った。
アリアは、じっと倒れた牙獣を見つめていた。
「……こんな魔獣が出るなら、精霊の加護って……やっぱり、ただの迷信じゃないんですね」
「精霊のいる場所ほど、魔物も引き寄せられる。祝福と呪いは、紙一重ってことさ」
キルアは剣を収めた。
「これから先、もっと強いのが出てもおかしくない。覚悟はいいか?」
「はい。わたし……絶対に、最後まで行きます」
その瞳は、確かに強くなっていた。
五人は再び歩き出す。
精霊の眠る森の奥へ――命と運命をかけた旅は、まだ始まったばかりだった。
◆選ばれし者の道――結界の森へ
牙獣との死闘を終えた五人は、一度小さな丘に腰を下ろし、木陰で水を飲んでいた。
空はすでに西に傾きはじめ、木々の影が長く伸びていた。
「はぁ……やっと静かになったわね」
リーナが額の汗をぬぐいながら、杖を地面に立てかけた。
「さっきの三体、完全に連携取ってたな。魔獣ってより、狩りをしてる獣って感じだった」
キルアが剣を点検しながらつぶやいた。
アリアはまだ心臓の鼓動が落ち着かないようで、胸に手を当てながら深呼吸している。
そのとき――森の奥から、風が変わった。
「……感じる?」
リーナが目を細める。
「これは……魔力じゃない。もっと……澄んでる」
キルアとアリアも、すぐに異変に気づいた。
森の空気が明らかに変わっている。
「行こう。……あの奥が、精霊の領域だ」
再び歩き出した五人だったが、やがて森の一角に、目には見えない“壁”のようなものが立ち塞がる。
「ここから先は……」
リーナが結界を調べる。
杖の先で軽く触れると、空気が震え、淡い光が波紋のように広がった。
「……やっぱり。選ばれた者しか通れない結界よ」
キルアが眉をひそめる。
「魔術的な仕掛けか?」
「いいえ、これはもっと古い。精霊信仰の、根本みたいなものよ。信仰心というより、“覚悟”を試してるんだと思う」
エルナが一歩前に出た。
「私が先に入って確かめましょう」
だが、その足が境界に触れた瞬間――まるで風に押し戻されるように、彼女の体がふわりと浮かび、地面に弾かれた。
「っ……無理のようですね」
「ヴァンもダメ。これは、アリア・キルア・私の三人しか通れない結界よ」
リーナがはっきりと言い切った。
「……お二人は、ここで待っていてください。結界が消えるまでは、こちらから戻ることもできませんが……」
エルナは静かにうなずいた。
「姫様のこと、よろしくお願いします」
ヴァンも背筋を伸ばし、敬礼のような動作を見せた。
「どうか、ご無事で」
キルア、アリア、リーナの三人は頷き合い、結界の内側へと一歩踏み出した。
瞬間、風が彼らを包み込み、何かがすっと抜け落ちるような感覚が体を駆け抜ける。
気づけば、空気がまったく違っていた。
「……空が、遠くなった」
アリアがぽつりとつぶやいた。
木々はさらに高く、枝葉は厚く重なり、空は緑の天井に覆われている。
苔が絨毯のように敷き詰められ、どこかの神殿にでも迷い込んだかのような、静けさと荘厳さが漂っていた。
「ここが……精霊の領域」
リーナの声が低く響く。
キルアは無言のまま、剣の柄に手を添え、警戒を解かずに辺りを見回す。
「アリア、大丈夫か?」
「……はい。でも、なんだか……体が軽いです」
「風が、優しいの」
リーナが空を見上げる。
「きっと、この先に……本当に“いる”わよ」
三人は、深い森の奥へと足を踏み入れた。
その先にある、祝福の邂逅を信じて――。




