第19話 キルア、アリアの修行を手伝う
◆そして、一か月後の誓い
翌朝、フラン湖の別邸。
朝もやが湖面を覆い、鳥たちの声が涼しい風に溶けていた。
キルアは庭先の木陰で、木剣を手に立っていた。向かいには、白い練習着に着替えたアリア。緊張した面持ちで、まっすぐに彼を見つめている。
「じゃあ、構えてみろ」
「はい……!」
ぎこちない動きながらも、アリアは剣を構えた。
リーナは庭のベンチに腰を下ろし、麦茶を片手にそれを見守っている。
――精霊の森へは、今すぐには行けない。
リーナが調べたところ、精霊に祝福を求めるには、「一定の魔力と精神の成熟」が必要とのことだった。呪いに対抗するだけの意志と、最低限の自衛力がなければ、精霊は姿すら現さないという。
「つまり、一人前にならなきゃダメってことね」とリーナは言った。
こうして、アリアの一か月の“修行期間”が始まったのだった。
◇ ◇ ◇
午前はキルアの担当だった。
剣の構え方、動き方、姿勢。最初はアリアが転んだり、足をもつれさせたりするたびに、キルアはため息をついた。
「お前、貴族の護身術くらいやってたんじゃねぇのか?」
「……お茶会の礼儀作法の方が多かったんです……」
「はぁ……やれやれ」
だが、アリアの表情に弱音はなかった。ひたむきに、何度転んでも立ち上がり、剣を振る。
(根性はあるな)
キルアの中で、少しずつ評価が変わっていった。
◇ ◇ ◇
午後はリーナの魔力訓練。
リーナはアリアの魔力量を測るため、魔力感知のクリスタルを使ってみた。
「……ふむ、潜在力はそこそこあるわね。けど、流れが悪い」
「流れ……ですか?」
「魔力は、体の中を“川”のように流れるものなの。今のあんたは、その川にゴミが詰まってる感じ。心と体を整えないと、うまく精霊と共鳴できないわよ」
リーナは、呼吸法や瞑想、基礎のエレメンタル操作を根気強く教えていった。
アリアは最初、まるで魔力がうまく動かせなかったが、一週間も経つころには、小さな風の渦を生み出せるまでになっていた。
「……できた、やった……!」
「やっとスタート地点ね」
「リーナ先生、ありがとうございます!」
リーナは照れたように咳払いした。
「べ、別に。あんたの頑張りでしょ」
◇ ◇ ◇
キルアとリーナは、日が暮れるまでアリアの訓練に付き合った。
夜には、別邸の厨房で簡単な食事をとりながら、三人で今日の反省会。
「今日は……防御姿勢がよかったな。体幹が少し安定してきた」
「ありがとうございます。明日はもっと上手にやってみせます」
「無理しないでね。精霊の森に入れるようになるまで、ちゃんと力をつけてから」
アリアはコクリとうなずいた。
「わたし、絶対に変わります。十八歳の誕生日をただ“終わり”にしないために……!」
その瞳の奥に、かつての“お飾りのお嬢様”の影はなかった。
キルアは、スープを一口すすりながら、ふと思った。
(俺と似てるかもしれない)
立場も、力も失った場所から、少しずつ“自分”を取り戻そうとする姿。
かつて谷に落ち、何もかもを奪われた自分の姿を重ねていた。
◇ ◇ ◇
一か月後。
アリアの剣筋はまだ拙いが、魔力の流れは整い、精霊の小さな共鳴反応も見られるようになった。
リーナは、森の準備を整えながら言った。
「……これなら、行けるかもしれないわね」
「本当ですか?」
「精霊があんたを試す準備は整ったって感じ。あとは、実際に足を踏み入れてみないと」
「……やっと、ここまで来たんだ」
アリアの声が震えた。
キルアは笑って言った。
「これからが本番だぞ。お嬢様」
「ふふ、じゃあ頼れる剣士さん。ちゃんと守ってくださいね」
「言われなくても」
湖面に陽光が差し込み、三人の影が伸びていた。
次なる目的地――精霊の森。
その先に待つ“祝福”と“試練”に向けて、三人は静かに旅支度を整えていった。
◆“アリア=デュフォール”として、生きる覚悟
一か月前。あのとき森で助けられていなかったら、私はまだ何も知らず、ただ死を待つだけの少女だった。
でも――今は違う。
毎朝、剣を構えることから一日が始まる。キルアさんの冷たい視線と的確な指導。それに応えようと、私は必死に食らいついた。
「体が浮いてる。重心を低く。右足、前に出すときは腰をひねれ」
「……は、はいっ!」
木剣を振るたび、手が震え、腕が重くなる。けれど、投げ出したことは一度もなかった。振り返るとキルアさんが見ている。その視線に、私は励まされていた。
午後にはリーナさんの魔力訓練。
彼女は気まぐれなようで、芯が通っている。エルフの魔女らしく、精霊や自然との関係に詳しく、魔力の「流れ」を感じることの大切さを教えてくれた。
「精霊と通じるには、心の“雑音”を消さないと。あんた、まだどこか他人の目を気にしてる」
「……えっ……」
図星だった。私は貴族として、周囲の視線を気にして育ってきた。だからこそ、リーナさんの言葉が胸に突き刺さった。
◇ ◇ ◇
修行を始めて三週目の夜。
いつものように湖を見ながら呼吸を整えていたとき、背後から誰かの気配を感じた。振り向くと、キルアさんが立っていた。
「こんな時間に外か」
「……少し、魔力の流れを整えようと。月の下なら、うまくいく気がして」
「……そうか」
彼は、黙って私の隣に腰を下ろした。
湖面に月が揺れている。静かな、優しい空気が流れていた。
ふいに、キルアさんが口を開いた。
「アリア。お前に、言っておくことがある」
「え?」
「……俺の本当の名前は、カイル・レインじゃない。キルア=レイグラントだ。王都北部のレイグラント伯爵家の長男だった」
その言葉に、私は一瞬、心臓の音が止まった気がした。
レイグラント伯爵家――貴族社会で知らぬ者などいない名家。その長男が、生きていて、目の前にいた?
「……なぜ、わたしに……」
「お前が、本気で“生きよう”としてるのが、わかったからだ。お前には、知る権利があると思った」
淡々とした声だった。けれど、その奥には、静かな覚悟がにじんでいた。
私は、息を呑んだ。
(キルアさん……あなたも、自分の運命と戦ってきたのね)
その事実が、胸の奥で静かに広がっていく。知らなければよかったなんて思わない。むしろ――嬉しかった。
「ありがとうございます。打ち明けてくださって」
そう答えながら、私は自分でも驚くほど冷静だった。ただ、心がじんわりと温かくなっていた。
◇ ◇ ◇
けれどその夜、部屋に戻ってから、私は眠れなかった。
窓の外から、ふとした物音が聞こえる。静かなささやき声。私は反射的に立ち上がり、廊下へと足を運んだ。
それは、隣の部屋――キルアさんとリーナさんの部屋からだった。
少しだけ開いていた扉。その隙間から、かすかに笑い声が聞こえた。
「……ほんと、キルアって不器用よね」
「悪かったな」
「あんたがアリアに名前教えたとき、ちょっと意外だったわよ。珍しく素直だった」
「……あいつは、変わろうとしてる。だったら俺も、少しは変わらないとな」
それを聞いたとき、胸がぎゅっと締めつけられた。
私は、静かにその場を離れた。
◇ ◇ ◇
その夜から、私は自分でもおかしなことをしていると分かっていた。
なのに、時々――キルアさんとリーナさんの部屋の前に立ってしまう。
声がするたび、足が止まる。
笑い合う声。時には、静かな吐息。たまに聞こえる、何かを確かめるような柔らかなやりとり。
それは、まるで“家族”のようだった。
私は、それを見て――すこし、羨ましく思った。
プライベートなことに、私が踏み込むべきではない。分かっている。けれど、止められなかった。
あの人のことが、知りたくて仕方なかった。
◇ ◇ ◇
そして、修行の最終日。
風の精霊と共鳴する儀式に必要な、最低限の魔力操作は、ようやく形になった。
小さな風の渦を手のひらに生み出せたとき、私は泣きそうになった。
リーナさんが小さくうなずいてくれた。
「これなら、精霊の森に入れるわよ」
「……やっと、ここまで来たんですね」
「よくやったわね。……でも、これからが本番よ?」
その言葉を聞いて、私はキルアさんを振り返った。
彼は、いつもと同じように黙って私を見つめていた。
「キルアさん……」
私は、ゆっくりと息を吸った。
「私、あなたに名前を教えてもらった夜、すごく嬉しかった。わたしにだけ、あなたの“本当”を見せてくれた気がして……それだけで、頑張れたんです」
キルアさんの目が、一瞬だけ揺れたように見えた。
そして、小さく、でも確かに笑った。
「そっか。それなら、教えた甲斐があったな」
私は、胸の奥がほんのり温かくなるのを感じながら、小さくうなずいた。
――精霊の森へ。
私の運命を変える旅が、いよいよ始まる。
その傍らに、キルアさんがいてくれるのなら――きっと私は、大丈夫。




