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第2話 キルア追放される

◆残された席は、もうない

 王都の西側、高台に広がるレイグラント伯爵家の屋敷。その書斎には、重苦しい空気が漂っていた。


 金で縁取られた書棚には、魔導書や法律書が整然と並び、壁には先祖の肖像画がずらりと並んでいる。代々続く名門貴族の格式と誇りが、この空間には詰め込まれていた。


 その中央、重厚な椅子に座る男がひとり。


 キルアの父、ギルベルト=レイグラント伯爵。鋭い目つきに黒い髭をたくわえた、威厳ある男だ。昔は“蒼嵐のギルベルト”と呼ばれた、風の魔術を極めた伝説の魔術師でもあった。


 彼の向かいには、優雅な身なりの婦人――キルアの母、リュシアが静かに腰を下ろしていた。淡い栗色の髪と、少し寂しげな瞳。穏やかで優しい人だった。昔は、屋敷の使用人たちから“聖女さま”と呼ばれていたほどだ。


 だが今、そのふたりの表情には、笑顔ひとつなかった。


 「……やはり、ダメだったか」


 ギルベルトの低い声が、部屋に響く。


 リュシアは、膝の上で手を組み、静かにうなずいた。


 「ええ。何度も確認しましたけれど……キルアの番号は、どこにもありませんでした」


 その言葉に、ギルベルトは目を伏せた。


 「キルア……あれほどの魔力量を持っていたのに、どうして術が一つも組めない……。幼いころは、我が家の誇りだったのに」


 かすかに苦笑を浮かべ、頭を振る。


 「いや、今さら嘆いても仕方ない。問題は、“この先”だ。キルアは落ちた。これは事実だ。そして魔術が扱えないなら、貴族としての役割は果たせない。伯爵家の長男として……これは、致命的だ」


 リュシアも、ゆっくりと目を閉じた。


 「キルアは……きっと、誰よりも努力していたわ。夜中まで魔導書を読んで、何度も失敗して、それでも……あの子なりに、がんばっていたの」


 「わかっている」


 ギルベルトは、妻の言葉をさえぎるように答えた。


 「だが、それでも結果は出なかった。レイグラントの名を継ぐ者は、力を示さねばならない。“貴族”とは、ただの家柄ではない。責任だ。領地を守り、人を導き、魔獣から民を守る“力”が必要なんだ。理想や愛情だけでは……生きていけない」


 言葉の端に、ほんのわずかだけ哀しさが滲んだ。


 「私は、父としても、伯爵としても……あの子を見限らねばならん」


 リュシアは、静かに頷いた。


 「私も……理解しています。ただ……一つだけ」


 「なんだ?」


 「できるだけ……あの子が、生きやすいようにしてあげたいの。追い出すのではなく、送り出す形に……」


 ギルベルトはしばらく黙ったあと、机の引き出しから一通の封筒を取り出した。中には、多額の金貨と、一通の身分剥奪証明書が入っている。


 「これは、帝都の西区にある屋敷の権利書だ。伯爵家の名を外し、“平民”として暮らせるよう、手配は済ませた。金は十分にある。仕事も用意してある。……あとは、本人がどう受け取るか、だ」


◇ ◇ ◇


 キルアは、廊下の陰から、そっとその話を聞いていた。


 話の中盤から、すべて、聞こえていた。


 血の気が引いていく。耳鳴りがして、膝が震える。


 ――“貴族の資格はない”


 ――“もう後継にはできない”


 ――“送り出す”


 キルアは唇を噛んだ。奥歯を食いしばって、それでも声を漏らさずにその場を立ち去った。


◇ ◇ ◇


 その夜、キルアは家族と向き合った。


 父・ギルベルト、母・リュシア、そして弟のセドリック。


 セドリックは、三つ年下ながら既に優秀な成績を修めており、魔術も自在に操っていた。最近では、次期当主候補として扱われ始めていたのだ。


 誰も、口を開かなかった。


 沈黙の時間が過ぎたのち、ギルベルトが封筒を差し出した。


 「……キルア。これは、おまえの今後の生活のためのものだ。今夜限りで、おまえはレイグラント伯爵家から籍を外す。明日、馬車を用意する。行き先は、帝都の西区。そこに、新しい住居と……平民としての人生が待っている」


 キルアは、しっかりとその言葉を受け止めた。


 リュシアは目を伏せたまま、そっと呟いた。


 「ごめんなさいね、キルア……母さん、何もできなかった」


 その声には、ほんの少し涙が混じっていた。


 セドリックは、何も言わなかった。ただ、キルアを見るその目が、全てを語っていた。


 ――残念そうに。


 ――哀れみを含んで。


 まるで、「かわいそうな兄さん」を見ているような。


 それが、一番つらかった。


◇ ◇ ◇


 夜更け、キルアは屋敷の前庭に立っていた。銀の髪を夜風が揺らす。


 屋敷の灯りはすでに落ちている。もう、誰も彼を呼ぶことはない。


 自分は、もう“レイグラント伯爵家のキルア”ではない。


 「……はは」


 笑いがこぼれた。


 誰もいない暗がりで、キルアはひとり、声を押し殺して泣いた。


 優しかった父も、母も。笑い合っていた弟も。


 今の自分を見ているその目は、まるで――“もう失敗したモノ”を見る目だった。



◆揺らぐ誓いと紫の決意

 王立魔術学院の合格者一覧が掲示されたその日。


 クラリス=エヴァンティーヌは、人混みを避けるようにして学院の正門前から離れ、ゆっくりと街へ向かって歩いていた。


 胸の奥が、ずっと重たかった。


 「……まさか、本当に落ちるなんて」


 ぽつりと呟いたその言葉には、失望と戸惑いがにじんでいた。


 ――キルア=レイグラント。自分の婚約者。名門レイグラント伯爵家の長男。誰もが将来を嘱望した“魔力の天才”。


 でも、彼は不合格だった。


 魔法が使えない、という致命的な欠陥を抱えていた。


 「努力してたのは知ってる。でも、結果がすべて……でしょ?」


 クラリスの指が、きゅっと自分のスカートの端をつかんだ。


 彼の頑張りを見てきた。いつも黙って努力して、自分には優しくて、誇らしかった。


 だけど――


 (これで、本当に終わりかもしれない)


 自分は、子爵家の娘。周囲からは「次期伯爵夫人」として期待され、政略結婚の代表のように育てられてきた。感情に任せた恋なんて許されない。将来の立場を守るための「婚約」だった。


 それでも、ほんの少しは信じていた。


 キルアなら、自分の運命を変えてくれる。魔術学院に合格して、周囲を見返してくれる。――そう信じて、好きになったはずだった。


 だけど、それが砕けた。


 あっけなく。


 「ねえ、クラリス。キルア様……やっぱり、ダメだったんだって」


 偶然すれ違った令嬢たちが、陰でこそこそと話していた。


 「信じられないよね。あれだけ魔力があるって噂されてたのに、まさか発動できないなんて」


 「次期当主失格じゃない? 婚約解消になるって話も出てるらしいわよ」


 クラリスは笑った。声に出さず、唇だけで。


 (そんなこと、言われなくても分かってる)


 その夜、エヴァンティーヌ家の晩餐の席で、父親が静かに切り出した。


 「クラリス。キルア殿の件、やはり婚約の見直しを考えるべきだ」


 「……そうですね」


 クラリスは、即答していた。


 自分でも驚くほど冷静な声だった。迷いも、怒りも、涙もなかった。


 キルアに対する感情が、完全に消えたわけではない。けれど、それ以上に現実が重たくのしかかってくる。


 (レイグラント家に見切りをつけるなら、今しかない)


 政略家として育てられた少女の本能が、そう囁いていた。


◇ ◇ ◇


 翌日。


 クラリスはある「別の選択肢」を見つけるため、馬車に乗り、郊外のレイグラント邸へと向かった。


 キルアではない。


 会う相手は、その弟――セドリック=レイグラント。十五歳。兄とは違って、穏やかな雰囲気を持ち、表情も柔らかい。だが、その裏には抜け目ない観察力と、冷静な判断力を備えていると噂されていた。


 そして何より――彼には魔術の才能があった。


 すでに宮廷魔術師からも注目されている、いわば「レイグラント家の新たな希望」だ。


 「……兄がダメなら、弟に行くしかない」


 クラリスは、呟くように言った。


 広間に通され、紅茶を飲みながら待つこと数分。セドリックが姿を現した。


 「おや、クラリス様。兄ではなく、ぼくにご用とは……少し意外ですね」


 その声は、柔らかく、それでいてどこか鋭さを感じさせる響きだった。


 クラリスはゆっくりとカップを置き、笑みを作った。


 「少し、あなたと話がしたくて」


 「兄のこと……ですよね?」


 「ええ。でも、それだけじゃないの。……あなたのことも、知っておきたいと思ったの」


 セドリックは一瞬目を細めた。


 (見抜かれてる?)


 けれど、それでも彼は笑った。


 「それは光栄です。ぼくなんて、ただの“弟”ですけどね」


 「そんなことない。……今のレイグラント家を支えるのは、あなたでしょ?」


 クラリスの言葉は、完全な“賭け”だった。


 でも、セドリックの目がほんの少し動いたのを、彼女は見逃さなかった。


 (反応した……この子、兄の座を狙ってる)


 確信した。


 「私は、このままでは終われない。誰かの失敗に巻き込まれて、自分まで沈むなんて、絶対にごめんだわ」


 それは、願望というより、誓いだった。


 セドリックが静かに口を開く。


 「兄は……魔術の才能がないわけじゃない。ただ、術式に問題があるだけです。けど、それを修正する道を選ばなかった。自分の力に、縋りつきすぎたんです」


 「……つまり、未来はないってこと?」


 「ぼくの口からは言えません。でも――」


 彼は紅茶を一口飲み、続けた。


 「クラリス様。……もしあなたが“未来”を見ているのなら、ぼくは……その期待に応える努力はします」


 それは、仮初の約束。


 けれど、クラリスの胸には、確かな灯がともった。


 (キルアじゃない。もう、夢に縋るのはやめよう)


 「ありがとう、セドリック」


 クラリスは、まっすぐ彼の目を見て、笑った。


 冷たく、計算された、貴族の令嬢の微笑だった。


◇ ◇ ◇


 帰りの馬車の中、クラリスは窓から差し込む夕日を見つめながら、静かに呟いた。


 「あたしは、あたしの人生を守る。それが“愛”じゃなくても……いいのよ」


 キルアの背中は、もう見ない。


 これからは、未来だけを見る。


 ――レイグラント家の“新たな星”とともに。


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