第17話 キルア、公爵家令嬢を助ける
◆森で出会った少女
その日は、少し湿った風が森を抜けていた。
「討伐完了っと……あとは街に戻るだけね」
リーナが肩を回しながら言う。彼女の後ろでは、風に吹かれたキルアの銀髪がさらりと揺れていた。
討伐対象は“ナイトスネーク”という中型魔獣だった。毒をもつ蛇型の生物で、森を通る交易路にたびたび出没していた。二人は手際よく始末し、報酬をもらうだけの状態だった。
「少し遠回りになるけど、川沿いの道を通って戻ろう。こっちの方が景色がいいし」
リーナがそう提案し、キルアもうなずいた。
「まあ、たまにはのんびり行くのも悪くないな」
だが、その“のんびり”は、すぐに破られることになる。
――パンッ、パンッ!
銃声のような音が、森の奥から響いた。
「今の……!」
「間違いない、人の声と戦闘音だ。こっちだ!」
キルアは瞬時に魔力を集中させ、足に風の加速をまとって駆け出した。リーナもフードをかぶり、木々の間を走る。
そして、見えた。
開けた林の中。倒れた護衛たち。その向こうで、盗賊たちが金装飾の馬車を取り囲んでいた。
「荷物を取れ! 娘は人質だ、傷はつけるなよ!」
「くっ……誰か……!」
馬車の扉の中から、震える少女の声が聞こえる。
「止まれッ!!」
キルアが木の上から姿を見せ、剣を構えた。
盗賊たちが驚いた顔で振り向く。
「なんだ、子どもか……って、なっ!?」
その瞬間、風がうねる。キルアの剣が振るわれ、ひとりの盗賊が吹き飛ばされた。
「バ、バケモンかよ……!」
「逃げろ、こいつはヤバい!」
あっという間に戦況は逆転した。リーナの魔術も炸裂し、残った盗賊たちは次々と倒されるか、命からがら逃げ出していった。
◇ ◇ ◇
「だ、大丈夫ですか?」
キルアは馬車の扉をノックした。
中から、おそるおそる顔をのぞかせたのは、赤いドレスをまとった少女だった。年はキルアたちと同じくらいだろう。柔らかな栗色の髪に、緊張した瞳――だが、品のある立ち姿だった。
「あなたが……助けてくれたの?」
「通りがかりでな。怪我は?」
「私は無事……でも、護衛の方々が……」
彼女は唇を震わせながらも、馬車の外へと出てきた。周囲に倒れている護衛たちは、幸い命に別状はなかったようだ。
「本当に、ありがとう。もし、あなたたちが来なければ……」
「礼なんていい。あんた、名前は?」
リーナが問いかけると、少女は一瞬だけためらったあと、答えた。
「……アリア。アリア=デュフォール。フラン帝国、デュフォール公爵家の娘です」
「……デュフォール公爵!?」
リーナが小さく息をのむ。
フラン帝国の五大貴族のひとつ、デュフォール家。政治・軍事ともに強い影響力を持ち、王族に次ぐ地位を誇る家だ。
「なぜ、公爵家の令嬢がこんな所に……?」
「帝都から……南の領地へ向かっていたの。療養を兼ねて……でも、途中で……」
アリアは言葉を詰まらせながらも、キルアに視線を向けた。
「あなたは……名は?」
「俺は……カイル。冒険者だよ。ここらの森で討伐の帰りだっただけだ」
キルアは本名を言わなかった。
――名門レイグラント家の長男、キルア=レイグラントが生きていると知られれば、何が起こるかわからない。
だから彼は、今も“カイル”という仮の名前で生きている。
「カイルさん……本当に、ありがとう。もしよければ、わたしの屋敷へ……」
「いや、気持ちだけもらっておくよ。護衛が目を覚ましたら、ちゃんと送り届けてくれるだろう」
アリアは、なぜか少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「……そう。じゃあ、せめて……また会える?」
キルアは少しだけ黙ってから、答えた。
「また、どこかで」
◇ ◇ ◇
帰り道、森のなかを歩きながら、リーナがぽつりと言った。
「あの娘、目が良かったわね」
「は?」
「“ただの冒険者”じゃないって、気づいてたと思う。ああいう家の子は、周囲をよく見てる」
「……そうかもな」
キルアは空を見上げた。木々の隙間から、夕焼けが差し込んでいた。
――フラン帝国の公爵家。
そこは、かつて自分も属していた“貴族の世界”と同じ空気を持っていた。
「……運命ってのは、皮肉なもんだな」
「まあ、まだ“始まり”よ。これから、もっと面倒になるかも」
「……楽しみにしておくよ」
キルアは小さく笑った。
風が吹き抜ける。その風は、知らぬ未来の匂いを運んでいた。
◆森で出会った、名も知らぬ風の人
わたしは、たぶんあのとき、ほんとうに死ぬんだと思っていた。
護衛の方々が次々と倒れ、馬車が取り囲まれたとき――わたしは、祈ることしかできなかった。
「誰か……誰か助けて……!」
けれど、その声が誰かに届くなんて、夢にも思っていなかった。
あの少年が、風のように現れるまでは。
◆ ◆ ◆
視界の隅で何かが閃いたと思った瞬間、ひとりの盗賊が吹き飛ばされていた。
空から現れた銀の髪。長身でしなやかな身体つき。黒縁の眼鏡に、深くかぶった帽子。ローブの裾が風に揺れて――まるで、どこかのおとぎ話のようだった。
「……誰?」
わたしは思わずそう呟いていた。
盗賊たちが怯えて逃げていく中、その青年は一言も叫ばず、ただ剣を振るうだけだった。静かに、正確に、まるで風の軌跡を描くように。
そして――すべてが終わったあと、馬車の扉をノックするあの仕草さえも、優しくて。
「だ、大丈夫ですか?」
その声を聞いた瞬間、なぜか心臓が跳ねた。
こんなにも冷静で、落ち着いていて、だけど温かい声。
助けられたというのに、わたしはただただ彼の目を見つめていた。
◆ ◆ ◆
名前を尋ねると、「カイル」と答えた。
嘘だ、とまでは思わなかったけど……本当の名前ではない気がした。
目の奥にある光。言葉の選び方。仕草。すべてが、“普通の冒険者”のそれとは違っていた。
それなのに、彼は名乗ろうとしなかった。何かを隠すように、遠ざけるように。
それでも……そんなところに、わたしはむしろ惹かれてしまったのかもしれない。
◆ ◆ ◆
あの人――カイルさんは、断った。
わたしの屋敷に招待したのに、護衛が目を覚ましたら送り届けてくれると言って、そのまま去っていこうとした。
「……そう。じゃあ、せめて……また会える?」
思わず、口にしていた。
会いたい――この人に、もう一度だけでも。
わたしの問いに、彼は少しだけ間を置いて、こう答えた。
「また、どこかで」
優しいけれど、遠い言葉だった。
まるで、もう会えないことが分かっているかのように。
だからこそ、心に残った。
あのとき、風が通り過ぎていった。
わたしの髪が揺れた。
その風の中に、彼の香りが残っていた気がする――冷たくて、どこか懐かしい風。
◆ ◆ ◆
「お嬢様、お加減は……?」
馬車の中で、目を覚ました護衛の人が声をかけてきた。
「ええ……大丈夫。わたしは、無事よ」
わたしは微笑んでそう答えたけれど、胸の奥が、妙に熱い。
鼓動が早くて、喉が少しだけ乾いている。
あれは、何だったのだろう――
誰かに命を救われたのは、これが初めてじゃない。だけど、こんなふうに心がざわめいたのは、はじめてだった。
あの銀色の髪と、冷静な眼差し。
「……風の剣士、なんて呼び名が似合いそう」
思わず口にして、ひとりで照れてしまった。
出会って、名前を聞いて、そして別れて――それだけなのに。
けれど、心に残っている。
はっきりと。
瞼を閉じると、彼の姿が浮かぶ。
剣を構えた姿。盗賊を圧倒する圧倒的な技。けれど、戦いのあとで見せた、静かで柔らかな微笑み。
……あれは、なんだったの?
わたし、どうしてこんなに、ドキドキしてるの?
胸がざわざわして、息を吸うと、まだ風の香りが残っているようで――
これは、何かが始まったということ?
そんなの、まるで……
「……恋、みたいじゃない」
自分でそう言って、慌てて頬を手で覆った。
あり得ない。だって、わたしは公爵家の令嬢。帝国の五大貴族の娘。相手は、素性も知れない冒険者。
なのに、名前も仮名かもしれないのに……どうして、こんなに心が惹かれるの?
バカみたい。
けれど――心が叫んでる。
「もう一度、会いたい」
もう一度、あの風に包まれたい。
それがどんなに叶いそうにない願いだとしても……わたしの中に、もう消えない灯火のように、あの人の存在が残っている。
――カイルさん。
わたしは、きっとあなたのことを、忘れられない。
どうか、どうか……またどこかで。




