第15話 キルア、風の剣士と呼ばれる
◆“風の剣士”と呼ばれた日
冒険者ギルドの朝は、いつもにぎやかだ。
「依頼票、貼り替えるよー! 昨日の分は右の壁に移動ー!」
受付嬢の声に冒険者たちがざわつき、情報板の前に人だかりができる。
そのなかで、ひときわ目を引いたのは、やや離れた場所で黙って掲示板を見上げる少年だった。
銀髪に黒縁眼鏡。つば広の帽子を深くかぶり、茶色のローブをまとっている。
彼の名は――キルア=レイグラント。だが今は“カイル・レイン”という名で、身を隠しながら生きている。
「お、いたいた」
声をかけてきたのは、前回のスナッチウルフ討伐でパートナーを組んだ冒険者、リオだった。
「また依頼探しか?」
「ああ。そろそろ、もう少し上の依頼もいける気がしてな」
「ふーん……じゃあ、コレとかどうだ?」
リオが手にしたのは、赤い印のついた依頼票だった。
>【Bランク相当】「トゲリザード」討伐依頼
>場所:南西の岩場地帯・フレイ断崖付近
>報酬:銀貨30枚/討伐完了後即支給
>※2人以上のパーティ限定
「Bランク相当……けっこう本格的だな」
「まあ、怪我人も出てる。突進力と再生力が厄介で、半端な奴じゃやられるって噂さ」
キルアは数秒だけ黙ったあと、うなずいた。
「行こう。俺たちなら、やれる」
◇ ◇ ◇
フレイ断崖――そこは岩場と草地が入り混じった、人の気配が少ない地帯だった。
風は強く、空気も乾いていて、視界が開けている。キルアは剣を下げ、リオは槍を背に構えていた。
「このあたりの岩陰に潜んでるって情報だ。姿を見せたら、一気にたたむぞ」
「了解。風を読む。気配を見逃すな」
キルアは目を細めて、風の流れに集中する。風の魔術は“空気の揺れ”を感じ取ることで、相手の動きを察知できる。
――そのときだった。
ゴゴッ……!
岩陰から巨大な影が飛び出す。トゲの生えたトカゲのような魔獣――トゲリザードだ。
全長は軽く二メートルを超え、背中の棘は金属のように硬く輝いていた。
「突っ込んでくるぞ! 避けろ!」
リオが叫んだと同時に、キルアは地を滑るように横へ飛んだ。
ズガァン!!
突進の衝撃で岩が砕ける。
(速い……! けど、パターンは単純だ)
キルアは魔力を指先に集めた。
「《風刃・三連》!」
三本の斬撃が空を切り裂き、トゲリザードの横腹に命中する――が、弾かれた。
「硬いっ……!」
「背中のトゲは刃を跳ね返すって話だったな! 側面からでも通らないか!」
リオが電撃を帯びた槍で突く。トゲリザードが痺れて動きを鈍らせた。
「今だ、カイル!」
「――風脚・加速!」
風を脚にまとい、キルアは一気に跳び上がる。そして、トゲのない頭部めがけて、渾身の一撃を振り下ろした。
ザシュッ!!
トゲリザードの頭が裂け、巨体が地面に崩れ落ちた。
◇ ◇ ◇
その日の午後、ギルドの中は静かなざわめきに包まれていた。
「え、あの依頼、成功したのか?」
「Bランク級って、普通はもう少し上の連中がやるやつだろ?」
「新顔の……あの銀髪のヤツがやったって? 名前なんだっけ、カイル?」
「いや、“風の剣士”って呼ばれてるらしいぜ」
当の本人であるキルアは、静かに依頼報告を終え、受付嬢から報酬を受け取っていた。
「本当にやっちゃうなんて……驚きました。これで評価ポイントがぐっと上がりますね!」
受付嬢がにっこり笑う。
「……あまり目立ちたくはないんだけどな」
「でも実力がある人は、嫌でも目立ちますよ? 気をつけてくださいね、“風の剣士”さん♪」
キルアは苦笑しながらローブの裾を直した。
◇ ◇ ◇
その夜、宿の部屋に戻ると、窓の外から小さな影がすっと入り込んできた。
「……やっぱり聞いたわよ。ギルドで“風の剣士”って呼ばれてるってね」
フードをかぶった少女――リーナだった。エルフのはぐれ魔女。キルアの師匠だ。
「なに、見張ってたのか?」
「当然でしょ。あんた、妙に目立つから。まあ……悪くないわね、活躍っぷりは」
そう言ってリーナは、キルアの前に座ると、少し真剣な声で言った。
「でも気をつけなさい。噂は噂を呼ぶ。正体を探る奴が、いつか現れるわよ」
「……それでも、進むしかない」
キルアの声には迷いがなかった。
「俺はもう、誰かに守られて生きる立場じゃない。自分の剣で、自分の道を切り開く。リーナ、お前が言っただろ。“あんたは無力じゃない”って」
リーナは少しだけ微笑み、立ち上がる。
「なら、あとは――“どこまで行けるか”って話ね」
「見てろよ。俺は、“ただの冒険者”で終わる気はないからな」
銀髪の少年は、静かに窓の外を見つめた。
風が吹く。遠く、夜の街の灯りがまたたいていた。
そしてその灯りの向こうに、まだ知らぬ運命と戦いが、確かに待っている気がした。
◆風が語る、ふたりの夜
夜の空気は、昼間の喧騒を忘れたかのように、しんと静まり返っていた。
宿の小さな窓からは、満ちかけた月がのぞいている。灯火の明かりがゆらめき、木の壁にふたりの影を落としていた。
「――聞いたわよ。“風の剣士”って、呼ばれ始めたんだってね」
そう言ったのはリーナだった。白い寝間着の上から軽くローブを羽織り、髪をひとつに束ねたまま、キルアの横に腰かけていた。
「……ああ。なんか、ギルドの連中が勝手に」
キルアは照れくさそうに言って、湯気の立つマグを両手で包み込んだ。中にはリーナがいれてくれたハーブティー。ミントとレモンバームの香りが鼻をくすぐる。
「嫌だった?」
「……ちょっとな。でも、悪くはない」
「ふふ。そうでしょうね。風と剣。今のあんたにぴったりの呼び名だわ」
リーナの視線は、キルアの指に添えられた小さな切り傷を捉えていた。
「怪我、大丈夫?」
「ああ。軽いもんだ。リオが盾になってくれたし、俺も、ちゃんとやれた」
「うん、見てたもの。あんた、本当に――強くなった」
リーナは、そっとキルアの手をとった。指先を優しく包み込むように撫でる。
「いつの間にか、“守ってあげたい”じゃなくて……“頼りたくなる”ような顔になってきたわね」
「……そんなこと、ない」
「あるのよ。……あたし、今夜は少し、お祝いがしたいの」
「お祝い……?」
リーナは立ち上がると、そっと灯りを落とした。部屋が少しだけ暗くなり、月明かりが、キルアの髪を銀色に染めた。
「こういうのは、騒がしい場所でじゃなくて……ふたりきりで、静かに祝うものよ」
リーナがそっと、キルアの頬に手を伸ばす。ふたりの距離は、自然と近づいていった。
唇と唇が、ふれた。
やわらかく、確かめるように。けれど次第に、ふたりの呼吸は重なっていき、触れあう手のひらが熱を帯びる。
「……キルア」
「リーナ……ありがとう。ずっと、そばにいてくれて」
「言ったでしょ。あたしは、あんたが“どこまで行けるか”を見届けるって。だから……今夜は、ただの師匠じゃなくて……あんたの、女として隣にいたいの」
その言葉は、キルアの胸の奥に深くしみこんだ。
彼はそっと立ち上がり、リーナを抱きしめた。小柄な身体は思っていたよりも柔らかく、温かかった。
ベッドに移り、毛布の下でふたりは向かい合った。
キルアの指が、リーナの髪をすくう。耳元に触れたとたん、リーナは小さく息をのんだ。
「……まだ、少し緊張してる?」
「……してるに決まってるでしょ。こういうのは、慣れたくないのよ」
「……同じだ。俺も、毎回……初めてみたいな気持ちになる」
月明かりの中、キルアはリーナの肩にそっと口づける。鎖骨、胸元、そしてその奥へ――
ふたりの体がゆっくりと重なり、やがて熱と熱が交わっていった。
ささやくような声。ふと漏れる吐息。絡めた指と指、頬を寄せ合うたびに深まる絆。
風が、そっと窓辺を通り過ぎていく。
外の世界がどうあれ、この小さな部屋だけは、時間が止まったかのようだった。
「……キルア」
「ん……?」
「これからも……こうして、あんたの帰る場所でいさせて」
「……俺も、ずっとお前の隣にいたい」
リーナは少し泣きそうな顔で笑い、そしてもう一度、彼の首に腕をまわした。
夜が深くなる。
何度も、想いを交わし合いながら、ふたりはただ静かに、愛の余韻に身を委ねていった。
やがて、落ち着いた呼吸が、毛布の下から静かに流れてくる。
外では風が木々を揺らし、月は高く登っていた。
“風の剣士”として歩み始めたキルア。
その傍には、いつだって彼を見つめ、支えるリーナがいる。
ふたりの旅は、まだはじまったばかり。
だけど今夜だけは、世界の喧騒を忘れて――
ただ、互いを感じることだけに身をゆだねていた。




