第13話 キルアの初仕事
◆初仕事は、はじまりの証
朝。フランシュドの空は、澄みきった青だった。
「今日は晴れか……よし、行くか」
軽く伸びをし、窓を開けたキルアは、静かに息を吸いこんだ。新しい街、新しい名前、新しい人生。そして、今日から“冒険者”としての一歩がはじまる。
「キルアー、ごはん冷めるわよー!」
下から聞こえるリーナの声に苦笑しつつ、装備を整える。腰には練習用の細剣。右手の指には、リーナから預かった簡易結界の指輪。そして、ギルドの冒険者証を胸ポケットにしまい込んだ。
◇ ◇ ◇
「で、どんな依頼を受けるつもり?」
朝食のパンをかじりながら、リーナが尋ねてくる。
「……まずは軽めのやつ。あんまり派手に暴れたら、また目をつけられそうだし」
「正解。依頼の中には、“釣り餌”もあるからね。初心者狙いの詐欺とか、偽装依頼とか」
「……冒険者って、意外と治安悪いんだな」
「世の中はあんたの家みたいにお行儀よくできてないのよ」
リーナはくすくす笑って、紅茶をすする。
「ま、まずは“報酬は少ないけど安全”って依頼を選びなさい。どうせそのうち、否応なく危ない目にも遭うんだから」
「言い方が怖ぇよ……」
キルアは苦笑しながら、ギルドに向かった。
◇ ◇ ◇
ギルドの掲示板には、今日もずらりと依頼書が貼られていた。
・「荷馬車の護衛(短距離・初級者歓迎)」
・「薬草採取手伝い(森の北側・安全区域)」
・「迷子の子猫を探して!」
・「井戸の中から変な音がします(調査希望)」
(このあたりが、初心者向けってとこか)
その中でキルアが目を留めたのは、一番地味な依頼だった。
「薬草採取か……まぁ、無難だな」
受付で依頼書を出すと、青年職員がにこやかに対応してくれた。
「こちらの依頼ですね。場所は街の北にある“風止めの丘”です。依頼主は薬師のラウラさん。現地集合になります」
「薬師?」
「はい。ギルド公認の方です。優しいですが、ちょっと口が悪いかも」
(……リーナといい勝負か?)
なんとなく、そんな気がした。
◇ ◇ ◇
街を出て北へ進むと、やがて視界が開けた。
草原の向こうに、小高い丘が見える。風が気持ちよく吹き抜け、草の匂いが鼻をくすぐる。
「よっこいしょっと……」
岩陰にしゃがみ込んでいた女性が、草かごを肩にかけながら立ち上がった。赤いバンダナを巻いた、三十代くらいの快活そうな薬師だった。
「お、あんたが新人か? “カイル・レイン”くん?」
「はい。今日からよろしくお願いします」
「ふん、挨拶はまあ合格。さて、こっから三時間。しっかり動いてもらうから覚悟して」
「は、はい……!」
――そうして、初仕事がはじまった。
◇ ◇ ◇
風止めの丘には、薬草が数種類自生していた。
ラウラに教わりながら、キルアは「サンリーフ」「青風草」「クラーベの根」などを慎重に摘み取っていく。
「違う違う、それは“にせ青風”。よく見て、葉っぱの先が白いだろ? それ、腹壊すわよ」
「まじか……見分けづらっ……」
「だから、薬草仕事は冒険者の基本って言われんのよ。地味だけど、ここで差が出るの。戦えりゃ偉いってわけじゃないんだって、覚えときな」
(……なんか、この人もリーナと似てる)
そう思いながらも、作業は順調に進んだ。少しずつ薬草の見分けもつくようになり、風の中で汗をかくのが、意外と心地よくなっていた。
「ふぅ……こんなもんでいいか?」
「うん、十分。はじめてにしては上出来。戦闘じゃなくても“役に立ってる”って実感できたでしょ?」
「……ああ、うん。確かに」
ラウラは草かごを確認し、キルアに銀貨二枚を手渡した。
「これが今日の報酬。食いつなぐには十分ね」
「ありがとうございます」
受け取った銀貨の重みが、手の中でじんわりと広がった。
(自分で、働いて、稼いだ金……)
伯爵家の息子だったころ、金はただ与えられるものだった。今はちがう。これは、自分の“力”で得たものだ。
――それが、なによりもうれしかった。
◇ ◇ ◇
帰り道、キルアはふと立ち止まって空を見上げた。
陽は少しずつ傾き、空がオレンジ色に染まっていく。草の匂いと、風の音。心が静かに落ち着いていく。
(今日という一日が……ちゃんと“生きた”一日だった)
誰かの役に立ち、自分のために動き、報酬を得た。
小さな一歩かもしれない。でも、キルアにとっては大きな一歩だった。
◇ ◇ ◇
宿に戻ると、テーブルにはあたたかい夕食とリーナのドヤ顔が待っていた。
「どうだった? 初仕事」
「悪くなかった。地味だったけど……楽しかった」
「ふーん……じゃあ、明日も行けそう?」
「……明日も?」
「当然。あんたの修行、ここからが本番よ?」
キルアはスープを飲みながら、ちょっとだけ笑った。
「……上等だよ。俺、やってやるさ」
そうして、冒険者カイル・レイン――キルア=レイグラントの新しい日々は、本格的に始まったのだった。
◆月の杯と、ふたりの夜
夕食を終えたあと、ふたりは並んで椅子に腰掛けていた。
テーブルの上には、パンの残りと香草のスープ。それに、ギルドの職員から祝いにと渡された、甘口のワインが一本。
「はい、これ。ごほうび」
リーナが注いだ杯を、キルアは少し照れたように受け取った。
「なんか……まだ慣れないな。働いて、飯食って、こうして乾杯するの」
「いいじゃない。人間らしくて」
そう言って笑うリーナの横顔は、ほんのりと上気していた。ワインのせいか、それともキルアの言葉のせいか。
「乾杯……俺たちの、新しい人生に」
「うん、新しい一歩に」
カラン、と小さな音が鳴る。
――それだけのことなのに、不思議なくらい心が満たされていく。
しばらくの間、ふたりは窓の外を眺めていた。夜の風がカーテンを揺らし、どこかから小さく虫の音が聞こえる。
リーナは椅子から立ち上がると、ゆっくりと毛布を持ってきて、キルアの膝にそっとかけた。
「……なに?」
「なにって、冷えるでしょ。夜はまだ山風が強いのよ」
キルアは笑って、彼女の手を取った。
「……なあ、リーナ」
「ん?」
「ありがとうな。今日も、いつも」
その言葉に、リーナの頬がふわりとゆるんだ。
「そんな顔、滅多にしないのに……」
「……するだろ、たまには」
言いながら、キルアはゆっくりと立ち上がる。
リーナの髪に手を伸ばし、そっと頬へとかき寄せた。
「……今夜は、そばにいてほしい」
「……言わなくても、そうするつもりだったわよ」
ふたりの唇が重なる。静かに、深く。互いの呼吸が混ざり、心臓の鼓動さえも、重なるように響いた。
リーナの指がキルアの胸元にふれ、そっとシャツの隙間から肌に触れる。熱がそこからゆっくりと伝わっていった。
「キルア……緊張してる?」
「……少し、な」
「ふふ……可愛いわね」
リーナの唇が、耳元をなぞる。その感触に、キルアの体がびくりと震えた。
そして、ふたりは静かにベッドへと身を移した。木の床がきしむ音が、夜の静けさを際立たせる。
リーナの髪が枕に散り、月明かりが彼女の白い肌を照らしていた。淡く光るその輪郭に、キルアの喉が鳴る。
「見つめすぎ。恥ずかしいじゃない」
「……綺麗だよ」
呟いたキルアの言葉に、リーナは一瞬だけ目を見開いて――次の瞬間、そっと目を伏せた。
キルアの手が、リーナの胸元にふれる。その震えに応えるように、リーナの手がキルアの首に回された。
唇が、首筋から鎖骨へ。指先が、腰をなぞり、背を伝い、やがて――
「……キルア……」
その名を、リーナが切なげに呼ぶ。
熱が、触れ合う肌を伝い、心を満たしていく。互いを包みこみ、溶け合うように。
初めての夜ではなかった。けれど、今日は特別だった。
今日一日を、ふたりで築いたという実感があった。
誰かに与えられた肩書きでも、仕組まれた運命でもない。ふたりが選び、進んだ道の、その証が今ここにあった。
リーナの指がキルアの背中をなぞり、キルアは彼女の名前を何度も呼んだ。
囁き、触れ合い、何度も確かめる。
「……リーナ……」
「うん……いるよ、ちゃんと。ここにいるよ」
重ね合った温もりが、夜の深さとともに満ちていった。
そして――すべてが穏やかに静まったあと。
毛布の中で、リーナはキルアの胸に頬を寄せ、優しく微笑んだ。
「……こういうの、続けられるかな。普通の暮らしとか、仕事とか……あんたと一緒に」
「……続けよう。俺が、絶対に守るから」
「ふふ……言ったわね?」
リーナの指がキルアの胸をつん、とつつく。
「覚悟しときなさいよ、キルア。あたし、けっこう面倒なんだから」
「上等だよ。俺が選んだんだ、世界で一番の“面倒”をさ」
ふたりはまた笑い合い、夜の帳に包まれていった。
それは、冒険者としての第一歩の夜。
けれどそれ以上に――ひとりの男と、ひとりの女が、ともに歩きはじめた「人生」という冒険の、記念すべき夜だった。




