第1話 落ちこぼれと呼ばれた日
◆落ちこぼれと呼ばれた日
空は青く澄み渡り、春の風が王都の通りを吹き抜けていった。
王立魔術学院の入学試験当日。試験会場には、各地から集まった貴族や富豪の子弟たちが勢ぞろいしていた。彼らの顔には、自信と誇りが浮かんでいる。中には、これが人生の第一歩だと緊張で顔を強張らせている者もいた。
その中に、ひときわ目を引く少年がいた。
銀色の髪に、蒼い瞳。透き通るような白い肌に、どこか冷たい雰囲気をまとった彼の名は――キルア=レイグラント。王都北部に領地を持つ、名門レイグラント伯爵家の長男だった。
「……いよいよか」
試験会場の門の前で、キルアは静かに息をついた。
――魔力量、規格外。幼少期からその体に宿る莫大な魔力は、多くの魔術師に「天才」の称号を与えられるに十分だった。
けれど、キルアには決定的な欠陥があった。
魔法が、発動しない。
魔力を感じ、練ることはできる。属性も光と風の二重属性で、適性にも恵まれていた。だが、いざ術式を組もうとすると、まるで手の中から砂がこぼれ落ちていくように、魔力が拡散してしまうのだ。
「きっと、本番ではうまくいくさ。きっと……」
自分に言い聞かせながら、キルアは門をくぐった。
◇ ◇ ◇
試験は実技重視。筆記のあとに、最も重要とされる「魔力制御」と「基本魔術」の実技が行われる。
「受験番号二八六番、キルア=レイグラント」
試験官に呼ばれ、キルアは壇上に上がった。注目が集まる。名門伯爵家の嫡男、しかも銀髪の美貌というだけで目立つのに、“規格外の魔力量を持つ少年”という噂も受験者の間で広まっていたからだ。
試験官が一歩近づき、口を開く。
「基本魔術を行使せよ。制御重視。規模や威力は加点対象ではない」
小さくうなずき、キルアは手を掲げた。風の精霊に呼びかけ、魔力を練る。光の粒子が集まり、空気が震える。
だが、その瞬間――
「……っ!」
魔力が、暴走した。
術式が崩れ、暴れだした魔力がキルアの手の中で爆ぜる。風圧が教室を揺らし、試験官がすぐに防御障壁を展開したため大事には至らなかったが――
「失敗ですね。次の方」
その言葉が、キルアの胸に深く突き刺さった。
◇ ◇ ◇
その日の午後。
受験者が集められ、合格者の番号が発表された。
一人、また一人と歓声を上げる中。キルアの目は、無言で掲示を見つめていた。
何度見ても、彼の番号はどこにもなかった。
落ちた。
“魔術学院に落ちた”
信じられなかった。いや、信じたくなかった。自分の才能を信じていたわけじゃない。でも、努力してきた。兄弟の誰よりも早く起きて訓練場に立ち、魔導書をすり切れるまで読み、必死に練習した。
……それでも、だめだった。
その夜。
キルアは、屋敷の自室で窓辺に腰掛けていた。誰もいない暗い部屋。風がカーテンを揺らしている。遠くで時計の針がコツコツと音を立てていた。
「なんで……だよ……」
絞り出すように、呟く。
期待されていた。家族、使用人、領地の人々、すべてが自分に夢を託してくれていた。
「伯爵家の長男が、魔術も使えないなんて……笑えるよな……」
涙が頬を伝った。
悔しさでもない。怒りでもない。心の奥にぽっかりと穴が空いたような、そんな冷たい絶望が、胸の中に広がっていく。
“キルア様は将来、王国一の魔術師になりますよ!”
かつて言われた言葉が、まるで悪意のように頭の中で響いていた。
自分は、魔術師になれない。
自分は、ただの……落ちこぼれだ。
◇ ◇ ◇
その日は、父親からの叱責もなければ、母親からの慰めもなかった。次期当主として育てられてきたキルアの落第は、家の恥として扱われ、誰もそのことに触れようとしなかった。
だからこそ、余計に胸が痛んだ。
存在を否定されるよりも、無視されることの方が、ずっと苦しかった。
「……もう、終わったんだ」
呟いたその言葉だけが、部屋の静寂の中に残った。
◆見届けた者の視点――「魔力だけの天才」
春の風が吹き抜ける中、王立魔術学院の入学試験会場は、若き才能たちの熱気で満ちていた。空は澄みわたり、まるで未来を祝福するような快晴――そんな日だった。
試験官の一人である私は、広い試験場の中央に立ち、次々と実技に挑む受験者たちを見守っていた。魔力制御の試験。基本魔術を行使し、その緻密さと安定性を評価するものだ。
毎年、数百人の若者がこの門をくぐる。優秀な者、凡庸な者、時には“奇跡の子”と呼ばれるような逸材まで――
そして、その“逸材”がやってきたのは、昼前のことだった。
「受験番号二八六番、キルア=レイグラント」
その名を読み上げた瞬間、空気が少しざわついた。周囲の受験者たちが小声で噂し合い、視線が壇上に集まっていく。
彼が歩み出たとき、私は思わず息を飲んだ。
銀色の髪、氷のように透き通った蒼い瞳。名門レイグラント伯爵家の長男にして、王都でも指折りの魔力量を持つと噂される少年。背筋はまっすぐで、瞳には迷いがなかった。まだ十五にもならぬ年齢で、ここまでの威厳を持っている者はそういない。
「準備は?」
私が問いかけると、彼はわずかに頷いた。その目は、恐れもなく、ただ真っ直ぐに前を見ていた。
――基本魔術、制御重視。威力は評価に関係しない。
合図とともに、キルアは静かに右手を掲げた。練り上げられる魔力の密度に、私は一瞬、目を疑った。
(……なんという魔力量だ)
その場の空気が変わった。まるで空間そのものが、彼の力に呼応して震えているかのようだった。周囲の試験官たちも顔を見合わせる。
――間違いない。彼は、魔力だけならば、この場で最も優れている。
だが、その瞬間だった。
「……っ!」
空気が歪んだ。魔力の流れが暴れ出す。術式がまとまらず、光の粒が暴走を始めた。
慌てて私は防御障壁を張った。爆ぜるように広がった風圧が教室内を駆け抜け、紙やローブが舞い上がる。目を細めながら、私はキルアの顔を見た。
彼の瞳には、驚きと……そして、恐れが浮かんでいた。
「失敗ですね。次の方」
そう告げるのは、残酷な仕事だ。けれど、そうするしかない。公平を保つために。
そのときの彼の表情――私は、きっと一生忘れない。
まるで、世界が音を立てて崩れていくのを見ているような……そんな顔だった。
◇ ◇ ◇
午後、合格者の番号が掲示された。
私は遠くから、そっとその様子を眺めていた。人波の中、銀髪の少年が一人、じっと掲示を見つめていた。
声も、表情もなかった。ただ、静かに、何度も、目を走らせている。
――そこに、自分の番号がないことを、確かめるために。
その背中が、あまりにも静かで、あまりにも悲しかった。
彼は確かに、“魔力量だけ”ならば、歴代受験者の中でもずば抜けていた。だが、魔術師として大切なのは、力を「使える」こと。魔力量だけで成り立つ世界ではない。むしろ、制御こそが肝なのだ。
(だが、それでも……)
私は考えていた。彼のような存在を、簡単に見捨てていいのか――と。
何か、もっと違う指導の仕方があれば。別の鍛え方があれば。あるいは、もっと早くにその欠点を補う機会があれば――。
けれど、ここは王立学院。即戦力と素質を求める場であり、未完成な者を育てる場ではない。
それが、制度の限界だった。
◇ ◇ ◇
その夜、私は報告書を書きながら、ペンを止めた。
キルア=レイグラント。魔力量、特級。制御困難。術式安定せず。再受験可の評価ではあったが、通過には至らず――
その欄を埋めたあと、私はそっと、余白に一言を書き加えた。
『――才能を否定するには惜しい存在。願わくば、彼の道がここで閉ざされぬことを。』
彼の目には、まだ諦めきれない火が宿っていた。
もし、あの火が消えずにいるのなら――
いつかきっと、魔術の世界に風穴を開ける存在になるだろう。
私は、そう信じている。