39 バレンタインデーの予兆
一月はあっという間に過ぎて、二月に入っていた。
あれから、連は希夜と付かず離れずの変わらない距離感で接している。
どちらかと言えば、希夜がよく部屋に来るのは変わらないので、いつもの生活が変わることはなかった。
物思いに更けた放課後、連は学校の図書室に寄っていた。
滅多に図書室を利用しないのだが、気になるついでに久しぶりに本と触れ合っているのだ。
捲る度に紙の擦れる音。誰も居ない図書室に響き、心地よいペースでスラスラと活字の海を泳がせてくれる。
(……こういう歴史があったんだ……)
本というのは、自分の見ている世界以上の深い海を広げ、手の届かない空のように果てしない英知が詰め込まれているのだ。
連が微笑んだ時、後ろから聞きなれた、おっとりとした声が耳を撫でた。
「本が好きなの?」
「……えっ、あっ……学校では接触を控えるつもりじゃ?」
後ろを振り向けば、よそよそしさはあるが――ショートの白髪に、前髪に付いた月の髪飾り、間違いなく希夜だ。
希夜はニコニコとした様子で距離を詰めてきた。
てっきり希夜がランニングに行っているとばかり思っていたので、連は意表を突かれた気分だ。
図書室に人が居ないからよかったが、他の生徒が居ればたちまち噂になっていただろう。
「連にぃ」
学校で聞くことがないと思っていた呼び方をしてくる希夜は、恐らく確信犯だろう。
呼び方以前に、希夜が自ら関わってくること自体想定外だが。
希夜は知った様子を見せずに、座っていた連の肩から覗き込むように、読んでいた本を見てきた。
ちゃっかりと細い手を伸ばして表紙を見ているのは、何を読んでいるのか気になったからだろう。
「……へー、連にぃ、バレンタインに興味があるやんね?」
「……バレンタインデーの歴史を読んでいただけで、縁も竹縄もあるとは思ってないよ」
実際、連の知る限りではバレンタイン自体、一つの宗教の派生みたいなものだ。
それが現代ではチョコを渡す風習となり、醜い争いが生まれる悲惨な日という事も。
ルーザーに意味はなく、勝者だけが統べる世界。
連としては、優矢のある例を見ていたのもあって、チョコはある意味凶器だと思っている。
「家では美少女が居るのに期待をしないとか、不良品やんねぇ?」
「……どういう意味で言ったの?」
「そんな連にぃだから、うちらは安心出来るんやんねぇ」
「誤魔化したね」
さりげなく希夜に誤魔化されているが、仕方ないのだろう。
希夜が口元に人差し指を当てているのもあり、小さな小悪魔は傍に居るようだ。
自由さに呆れていると「どんなチョコが好き」と聞いてくる希夜はバレンタインの話題から逃がすつもりは無いらしい。
家に帰宅した連は、夜ご飯を作る希朝のお手伝いをしていた。
今日は希朝の当番なのだが、以前一緒に作った際、たまにはお手伝いがあった方が楽という話でまとまっていたのだ。
希朝に頼まれた物をボウルで混ぜていると、希朝は手を止めてこちらを見てきていた。
「連さんは、どんな甘いものが好きですか?」
「……甘い、もの?」
連は悩むしかなかった。
首を傾げて思いつくのは、希朝の手料理くらいだろう。
連自身、そもそも好きなもの自体がないので、気にいったもので言えば希朝の手料理が当たるのだから。
甘いものが思いつかなかったのもあり、連はそっと息を吐いた。
「……希朝さんの手料理」
「私の質問が悪かったですね」
希朝は少し呆れ気味に、それでいて頬に指を当てていた。
「好きなものと嫌いなものはありますか?」
「……好きなものは、さっき言った通りかな。……嫌いな、もの……嫌いな物……者……両親……」
もの、で言うのなら両親が嫌いなのは過去からの事実だ。
連自身、両親という言葉で吐き気は少なくなったものの、今でも両親を好きになれるとは思っていない。
あの頃の連が、両親に棄てられると知っていたように。
両親と答えたのはまずかったのか、希朝は頬をぷくりと膨らませていた。
「他人の家族なのでとやかくは言いませんよ。ですが、そのご両親が居なければ、私は連さんに会えなかったので、忌み嫌うのは程々にしてくださいね。嫌いなら嫌いで構いませんので」
「……はい」
初めて、希朝にしっかりと注意をされた気がした。
普段なら両親関係を見過ごしてくれた希朝だが、好きや嫌いに対しては別物らしい。
連が反省してボウルの中身を良い感じにかき混ぜていると、希朝は思いついたようにポンと手の平で音を鳴らした。
「少し話の趣向を変えましょうか。……バレンタインデーや、七五三の時はどうでしたか?」
「えっと……希朝さんに謝っておくとね、僕はそもそも家のしつけで外出は愚か、他人との交流が狭かったんだ」
連の家の事情は本当に複雑で、一筋縄で納得できるものではないのだ。
少し顔を曇らせてしまったのもあって、連は首を横に振り、希朝をそっと見た。
「ご、ごめんね。料理をしている際に暗い話をして」
「い、いえ……私も連さんに不本意ながらも聞き出してしまって……悪い事を聞きました、ごめんなさい」
頭を下げてくる希朝に、連は気づけば手を横に振っていた。
連自身、希朝には何れ話すつもりだったのもあり、早々に時が来ただけに過ぎないのだから。
希朝が顔を上げてくれたのもあり、連はほっと息を吐いた。
その束の間、瞬きする暇を与えずに、ふわりと甘い香りが鼻を撫でる。
鍋をかけていた火が小さく弾ける音を立てていた中、連の頬には確かな温もり一つ、確かに近付いた距離があったのだ。
「……えっ、希朝、さん?」
動揺をしていても、確かに感じた頬についた柔らかな感触を忘れることはできなかった。
こちらを見てくるピンクの瞳は、光を帯びた水面のように揺らめいている。
「……これは、私も、連さんも知らない甘さですよ」
「……希朝さんも知らない、甘さ……」
頬に手を当てると、希朝は微笑んでいた。
それでもほんのり紅葉色をしている希朝の白い頬は、意識し合っている証拠だろうか。
目と目を合わせていた時、ドアの方から声にならない声が聞こえた。
「の、希朝ねぇが……れ、連にぃに……あ、あああ……」
「き、きぃちゃん!?」
「希夜ちゃん……!?」
どうやら希夜は見てしまったようで、沸騰する勢いで頬を赤くしていた。
目撃者含め、ちょっとした騒ぎが夜ご飯前のリビングを包むのだった。




