最終話 倜儻不羈
「ゾーイ!!」
「やっと部屋から出てきた!!アイリス!!」
「無事でよかったですわ……守ってくださって本当にありがとう。お礼をするのが遅くなってしまって、ごめんなさい」
「アイリスも無事でよかったよ。腰痛くない?まさか3日も篭もりっきりとは思わなかったぁ」
「そ、そ、そういうのはあの!その、ハイ……すみません」
明るい日差しの中、ゾーイとアイリスが抱き合う。固く抱きしめあった二人の脇で、アステルは穏やかな表情だ。再会を喜ぶ様子を見て、さりげなくベンチに誘導して微笑んでいる。
三人の様子を眺めていた仲間達は、そろって首を傾げた。ゾーイがアイリスを独占しているのに、アステルは穏やかなままだから。
「……なんか、アステルの奴ぁ満たされた新妻みてぇだな。ヤキモチやかねぇってのは散々アイリスに愛されたからか?」
「元帥、言葉を選んで頂けますか。大変腹立たしいです。新妻はアイリスでしょう。まぁ、いつまでその座におさまっているかは分かりませんが」
「リュイはまだ姫さんの事諦めてねぇのか?まさか、テオも、アリもか」
「「当たり前だ」」
「やれやれ、アギア……じゃなくて公国の王弟はしつこい奴らばっかりだな。
つったってよ、人魚の体液は選ばれた者以外には毒なんだろ?」
「私は一度克服しています」
「お前さんが初代聖女の血の難を逃れたとして、また乗り越えられるかわからんじゃないか。そんな危ない橋をアイリスが渡らせる訳ねぇな」
「…………チッ」
「「その通りだ」」
爽やかな風が通る城内の庭、その中にある東屋に集まった仲間たち。交わす会話内容はやや物騒ではあるものの、平和そのものだった。以前、種子を蒔いたエピフィラムは大きく背を伸ばしてもうすぐ開花しそうだ。
ゾーイの質問攻めからようやく解き放たれた王達はそそくさと自国に帰り『今後のやり取りは手紙で』と言い残して行った。
「んじゃ『お話し合い』しよっかぁ、カイ!」
「……はい」
じゃらり、と鉄の鎖が擦れ合う音がする。カイは両手を手枷に嵌められ、粗末なコットンのシャツとズボンを着て現れた。本人を連れてきた兵は気まずげな顔をしている。
「あ、ちなみにこの格好はカイが勝手にしてるだけだからね。アステルも、ワシも普通にしてればいいって言ったのにさぁ」
「まぁ……カイ、そんな趣味がおありでしたの?」
「そんなわけないでしょ!?反逆者なんだから牢屋に入れてよ!なんで普通に戦勝会に誘われるのさ!?」
「白の国の掃除をしたし、炊き出しも手伝っていただろう」
「アステル……そんな事じゃ先が思いやられるよ?王たるもの威厳をもって、」
「義父上は威厳よりも親しさがあったほうがいいと言っていた。それから、黒の国は深刻な人手不足だ。アイリスの護衛も必要なんだからカイを失うのは得策とは言えないだろ」
「…………陛下はもう放っておいて。護衛ならテオとかその辺りがいるでしょ。アステルだってそうだし」
「オレ達はこれから忙しくなるし、王弟達は故郷に帰るだろ?王様なんてやった事もないんだから、カイが教えてくれないと困る」
「……は、あ……王として立つって決めたの?」
「まぁそんなようなものだ。とりあえず座ってパンでも齧ろう。流石に三日三晩食わずのままじゃ腹が減っててな」
「え、アイリスは?」
「私は、その、アステルさまが食べさせてくださいました」
「「「「チッ」」」」
「はいはい、もういいから座って。ご飯はちゃんと食べよぉ。今日からきっちり働いてもらうんだからねぇ」
罪人然として立ち尽くすカイをよそ目に全員が草の上に敷いたシートの上に座り、めいめい食べ物を手に取った。給仕達はチラチラとカイを見ているものの、飲み物を配り、果物を分けて自分の仕事をしている。
「カイ、いらっしゃい。枷は自分で取れるでしょう?」
「へぇ、縄だけじゃなくて金属も抜けれるのか?」
「えぇ、アステルさまにもあとで覚えていただきますわ。カイの方が得意だから、先生として教えてもらういましょう」
「ん、わかった」
「…………な、なんなのさ!!!僕の罪を裁かないの?刑罰を下すべきでしょ!」
「そんな小魚の餌にもならない、下らない罪の意識など捨てなさい。早く座ってくださる?カイ」
癇癪を起こしかけたカイを一瞥もせず、アイリスが珍しく冷たい声を発した。仲間達は目を見開いて驚き、パンを齧ったまま固まっている。
彼女の横に静かに腰を下ろしたカイは、正座で座って首を垂れた。
「私は座れと言っただけで、頭を下げろと言っていませんわ」
「…………」
「自分のためにする謝罪など受け取りませんよ。私は、とても怒っています」
「はい……」
「手を出して」
「…………」
アイリスに手枷を解かれ、そのまま両手を握られたカイは顔を伏せたまま。アイリスは大きなため息をついて、カイに向かって語りかける。
「――なぜ私が怒っているか、分かってますの?」
「僕が、アイリスを裏切ったから」
「そうね、それも腹立たしいわ。何もかも二人で今までやってきたのに、なんの相談もなかったもの。挙げ句の果てにゾーイを傷つけたし、私の計画が狂いました。私が泡になってもならなくてもアステルさまとパナシア様を解放して……自由にして差し上げるはずだったのに、もう逃げ道がなくなった」
「…………」
「カイ、ありがとう」
「………………え?」
顔を上げたカイは、アイリスの涙を見てハッとする。彼女は枷で傷ついた彼の手首を撫でて、あっという間に治した。
ほのかな光は柔らかく溶けて、暖かく沁みていく。ほろほろとこぼれる雫は宝石となって彼の膝に留まった。
「『ありがとう』って言ったのよ、カイ。あなたのおかげで私は何もなくさないでいられた。私自身を犠牲にすることが愚かしいと気づけた。
幸せになりたいって、思えたの」
「アイリス……」
「あなたは私の影でしょう?もう青の国には戻してあげられない。あなたは私自身への革命を起こしてくださった恩人なのだから。アステル様と、ゾーイと、私とあなたは一緒に働くの」
「僕はアイリスを死なせたくて、欲しかっただけだ。パナシアも利用した。各地で蜂起した戦を手引きしたのは僕だった」
「そうね、そう聞いたわ」
「罪もない人を殺したし、青の国も利用した。アステルにも言ったでしょ、僕を簡単に許さないでって。アイリスにも同じことを言うよ。
一度裏切った人間は、また同じことを起こしかねない」
「そう、なら裏切る隙を与えなければいいだけのことです。許すつもりはないわ、一生。
それはカイだけじゃなく私自身に対してもよ。あなたがその道を選んだのは私のせいだもの」
重い沈黙に支配され、アイリスは涙を乱暴に拭う。彼女の手に手を重ねたアステルは優しくほおを撫でて、涙をそっとハンカチに染み込ませた。
アステルが触れた涙の結晶が黒く染まり、コロコロとカイの元へ転がってくる。
彼女はもう、二度と自分の手には入らないと突きつけられている。人魚の涙の色を変えられるのは、結びついた番いだけだから。カイは現実を受け入れるしかないのだと悟った。
「カイが影の一族になったのも、私が生まれたから。人を殺める運命を背負わせたのも私。本当に、ごめんなさい」
「――違うよアイリス、僕は自分で選んだんだ。君のそばにいることも、人を殺すことも、主を裏切る事も」
「私たちはずうっと一緒だった。だから、そう言わざるを得ない事くらいわかってる。
あなたが自分の意思で選んだと言うのなら、屍の上に私たちと一緒に立ってほしい。わがままばかりで申し訳ないけれど、カイが必要なの」
「アステルがいる。僕は必要ないよ」
「あなたの愛って、覚悟ってそんなものだったの?私を置いて一人でどこかに行くつもりなの?」
「…………っ、」
「答えて、カイ。私の番いでなければそばにいられないの?あなたはその地位がなければ私のことを嫌いになるの?」
「…………ちが、う……そんなこと、ありえない」
「カイ、私が怒っているのはあなた自身の欲望を叶える計画が杜撰だったからよ」
「どう言うこと?」
「あなたの計画通りに初代聖女様を生贄にしたままでは、泉はいつまでも保たなかった。生贄はずっと涙の結晶を捧げなければならないのに、彼女の体にはもう何も残っていなかったわ。
原初の龍を利用してパナシア様を生贄にしても、人間だから涙の結晶は産めない。血を使うなら、長くは保てなかったでしょう」
「そう、か」
「えぇ。だから今後は私の涙で保つしかない。そして、星隔帯がなくなれば本当にこの世は滅びてしまうの」
「星隔帯の外は、もしかして」
「五公国の外では、すでに文明自体が滅びている。計らずしも原初の龍のもたらした恩恵となって私たちの世界は守られたの。
たとえ初代聖女様の魂を閉じ込める目的だったとしても、維持しなくては生きていけないわ」
「…………バカ、みたいだ」
アイリスは微笑み、カイの顔を覗き込む。擦ったせいで赤くなった瞼に眉を下げたカイ。震えながら指先を彼女に差し出すと、そこに頬が添えられる。
二人が瞼を閉じて額をすり合わせると、アステルがぴくりと眉をはね上げる。だが、深いため息を落としただけで我慢すると決めたようだ。
「本当にバカみたいね。原初の龍は世界を守る目的でなくても守っていた。あなたは私を守るつもりで守れなかった。私も、アステル様を守りたかったのに見当違いをしていたわ」
「そうかな、アイリスは革命を成し遂げたよ」
「そうでもないのよ、割とシナリオ通りだったから。でも、あなたが裏切ってくれたから新しい道が開けたの。
これからもっといろんな道が開けていく。それを、見たいでしょう?私がどんなふうに生きていくのか、見届けてくれるわよね?」
「まだ苦労するつもりなの?」
「うん、新しい夢ができてしまったから仕方ないわ。最後にはあなたも自由になれるから、もう少しだけ付き合って下さい」
「…………わかった」
「おほん。そろそろいいか?カイ、あまりベタベタするな。アイリスはオレのだ」
「アステル、空気読んで」
「読んだからこそ我慢しただろ。カイは油断ならない」
「じゃあ罪人として裁きなよ」
「裁かないぞ。オレは、罪を罪として終わらせない。誰も犠牲にしない。笑顔だけでこの世界を埋めて、アイリスと二人で隠居するんだから。オレの奥さんの夢がそれだ」
「アステル様……その話は秘密にするのではなかったのですか」
「あらかじめ伝えておかなきゃみんなついてくるだろ。そんなの絶対嫌だから、最初に言ってしまえばいい」
「もおおぉ……どうしてこう、あちこち焼きもちを焼くんですか。私はきちんと自分の気持ちをお伝えしたはずです!」
「まだ足りない。今朝だって、」
「アステル様!!」
アステルはサッと立ち上がり、パンを齧りながら逃げ出した。顔を真っ赤にしたアイリスがそれを追ってかけていく。
城壁の影に二人が入ったところでアイリスが抱き寄せられて、それを目撃したカイは無表情のまま目の前にあったサンドイッチに齧り付いた。
「本当に馬鹿らしい!三日も引きこもってイチャイチャしてたくせにまだ足りないわけ!?」
「カイ、今回ばかりは同情してあげるよぉ。次こんなことしたらワシがただじゃ置かないけどねぇ」
「もうしないよ!アイリスのことはアステルがどうにかしてくれるでしょ。僕はもう知らない!!」
「ま、そう言うことだよ。あとはパナシアとの対面だけだ。しっかり二人をサポートしてやって。長生きの種族はキミだけだ、ワシは先に逝くことになるだろうからさぁ」
「……うん、わかった。ゾーイが言うならちゃんとやるよ」
「頼んだよぉ」
拳を合わせた二人に加わって、アリ、テオ、リュイも同じように拳が差し出される。その屈託のない笑顔の中に、やがてくる別れの時をカイは思った。海の中で暮らしていたら、出会えなかった仲間たちを。
奔走するアイリスに悩まされながらもカイを含めて温か見守ってくれた彼らがいたからこそ、彼もまた走り続けることができたのだ。
(みんなが死ぬまでには、この借りを返そう。裏切り者の僕に対して恨みを一切残さず、酒を酌み交わしてくれた人間たちに……そして、外の世界を教えてくれたアイリスにも、僕を許さないままでいてくれるアステルにも)
━━━━━━
「パナシア様!?」
「どうした!?パナシア!!」
パナシアが軟禁されている部屋を訪れると、ソファーに横たわった彼女は呻き声をあげる。
駆け寄った2人を制し、ゾーイが手首の脈を摂った。その瞬間に驚愕した表情を浮かべた彼は、ムクリと起き上がったパナシアに更に驚きを重ねた。
「な、なんで!?脈がないのになんで動いてるの!?」
「……えっ!?」
「脈が無いだって!?」
『アステルも触って!』と叫ばれて、彼も妹の脈を確かめた。そして、青ざめる。指の下にあるはずの命脈はなく、それでも彼女はソファーから体を起こしている。
まるでゾンビのように不自然に起き上がって瞼を開けると、その瞳の色はアステルと同じ黒紫だった。
「――すまない、今異世界より転移した命を失ったところなのだ。引き継ぎのために我が居る」
「もしかして、原初の龍ですの?」
「あぁ、そうだ。心配ないぞ、元の体の持ち主であるパナシアは程なく戻る。
それまでこの者の命の責任をとろう」
呆然としてしまったゾーイ、アステルを避けてアイリスはつかつかと近寄り、そしてパナシアの肩を掴んで叫んだ。
「ふざけないでください!!!あなたは一体、何処まで人の気持ちを弄ぶのですか!?
責任を取るのは当たり前です!!あなたがした事なのですから!!」
「……あ、アイリス?そのように怒る人なのか、其方は」
「私の名を軽々しくお呼びにならないでくださいますか。私は、あなたが一番の元凶だと知っています。原作者の方はどちらへ?」
「あぁ、お前の龍神から事情を聞いたのか?」
「質問を質問で返さないで頂けますか。失礼です」
「す、すまない」
パナシアの体が発している声は、紛れもなく原初の龍のものだ。もう、彼女は……原作者の魂は連れていかれてしまったあとなのだと知って、アイリスはガックリと膝をつく。
一言も話せないまま、彼女の気持ちの吐露を聞かぬままに別れてしまうことはアイリスにとって後悔でしかない。
アステルが体を支えてやろうとするが、それを制して彼女は叫んだ。
「あなたは初代聖女様の魂を閉じ込めたかったから星隔帯を作ったのですよね、白の国と共謀してまで。泉から取りもどしたあと、彼女自身はどうなさいましたか?あなたは私が言った通りきちんと〝ご本人とお話〟できましたか?」
「…………」
沈黙に沈むパナシアの姿をした原初の龍はチラリとアイリスと目を合わせ、すぐに逸らした。
そう、初代聖女の遺骸を捧げ、作られた星隔帯は魂を閉じ込めるものだった。今回の主犯格と言いきるのは難しいが、それを唆したのは彼なのだ。
それは原初の龍の欲望であり、渇望だった。戦で先に死んだはずの魂は初代聖女と共に天に戻る予定だった。しかし、彼女はいつまで経っても彼の元に来ず空を自由に彷徨っていた。
そのまま逃げられてしまうのではないかと考えた原初の龍は、当時の白の国を乗っ取った新しい王族に手を貸して彼女を閉じ込めた。
それでも自由を求めた初代聖女は星隔帯に何度となく挑み、魂は欠け、そのカケラが異世界へとこぼれ落ちて『代々の聖女』となった。パナシアの中に転移した聖女革命譚の原作者も、アイリスもその魂を宿していたのだ。
白の国の暴虐――代々の聖女を泉に捧げてきたのは人間の欲望だったが、それを黙認してきたのは原初の龍だった。
全ての始まりは、彼の愚かな行いからだったのだ。
「原初の龍」
「話をする前に、初代は我と同化してしまった」
「なんて事を……彼女はそれを望まれたのですか!?」
「望んだと言うよりも、本体の魂をやるから他の聖女を見逃せと。お前たちの中にある魂の欠片を取ったら、神聖力が失われるらしいから」
「それで、また彼女を犠牲にしたのですね。ご本人の意思を曲げさせてまで」
「………………すまない」
「あなたの愛は、彼女の魂を打ち砕いたのです。愛していたからと言ってその魂を縛り付けるのはいかがなのかと申し上げたはずですわ」
「うん、言ったな」
「では、何故受け入れましたか?」
「初代聖女の言うに、我の性根を叩き直すためだと。好きだからと何でもしていいと言うものではないと言われた。
我を愛していたのではなかったのだろうか、彼女は」
「ッハアアアアアアアア………………」
「すまない」
原初の龍はしょんぼりと肩を落とし、瞳に潤いが満ちる。大粒の涙が落ちる前にアイリスは彼を抱きしめた。
「ごめんなさい。あなたの孤独を思えば……生まれを思えばそう求めても仕方のない事だとわかっています。
けれど、愛しているのならばその人の意思を重んじるべきでした」
「……そうか……」
「初代聖女様のご意志は、もう消えてしまったのですか?」
「いいや、我が想えば話せる。姿も頭の中に浮かぶ。たおやかで、細やかで美しい初代は、」
「あなたは初代聖女様がどんな方だったのか、ご存知ないのですね。先ほどから見た目の事ばかりお話しされています」
「え……?い、いひゃい」
きょとんとした顔の原初の龍の頬を引っ張り、眦からこぼれる涙の煌めきを見てアイリスは眉を寄せた。
澄んだ色の涙は、彼自身の純粋さを示している。物語の始まりで言えば彼は父に恋していた初代聖女が、自分の父の元へ行くのではないかと不安だった。
愛し、愛されたのは事実だったとしてもそれを信じられるほど大人ではなかったのだ。
悠久の時を経ても、孤独なままだった彼を思うと胸が痛む。初代聖女の性格は、おそらく原作者と同じだったはずだ。それを生み出したのがパナシアの中にいたあの子なのだとすれば、自身の足で立てるような強い人として描かれたはず。
アイリスがこんなにも強い意思を抱くのだから、疑いようもないだろう。原作者自身も、映画のスクリーンの前でそう言っていた。彼女たちの共通した意思は『アイリス・セレスティアル』にも受け継がれている。
「彼女と一つになったなら、毎日毎日お話しされてください。あなたを愛していたのは確かなのですから、その不安に満ちた独占欲をぶつけてご覧になればよいのです」
「そんな事をしたら、嫌われてしまう」
「ありえませんわ」
「そんな事、わからないだろう?初代は父に恋した。その子供だった我に血肉をくれただけだ」
「時というものは、傷を癒すのです。そして、自分を本当に愛する者がそばにいてくれたならその熱に絆されて惚れる可能性もあります」
「…………」
「そこな子孫のようにか」
「そうですわ。心というものは鏡のようなもの、私たち生きとし生けるものは水でほとんどができていますから。人魚ならばなおのこと、様々なものが響きやすいのです」
「でも、逃げたではないか」
「その辺りの理由は存じません。私にはわかりかねますのでご自身でお聞きくださいまし。痴話喧嘩は犬も食わぬといいますから」
「むぅ、アイリスは意地悪なのだな」
「あなたが子供だからです。何千年もの孤独を耐え抜いたくせに、ずっとずっと……愛し合っても寂しいままだなんて彼女は報われませんわ」
アイリスの必死の訴えを眺め、アステルとゾーイは合点が行った。何千年もの間生きて龍となった彼は、純粋な子供のまま聖女を愛した。原初の龍は、その穢れのなさすぎる心を捧げた、たった一人を失いたくなかった。
唯一を信じきれず、自分の生んだ不安の中でひたすら生きたからこそ初代聖女はしばしの間距離を置いたのだろう、と。要するに癇癪を起こした子供が落ち着くまで待たなければならなかった、親のようにしたのだ。
蓋を開けてみれば恋愛事情のもつれだが、人智を超えた者たちが起こしたものだから人間もまた巻き込まれた形となる。往々にして世界をつくる神々は奔放で荒い気質を持っている。
愚かで、間違えてばかりの人間のように。だがしかし、それは人類が持つ唯一の美徳でもある。自分の生み出す愛があまりにも大きく純粋であるが故の愚行なのだから。そしてそれは、道を違えなければ美しい叙事詩となるだけだった。間違えたとしても、やり直せばよかっただけなのに……神は逆に、その思想はない。
アステルはアイリスの怒りを感じながらも、その中に愛情があるのだと思った。それこそ、子供を諭すように柔らかな声音であるが確固たる主張はきっちり伝えている。
獣が子を谷から落とすのは試練を与えるためだが、それは子が必ずそこから這い上がると信じてこそでもあるのだ。
「なぁゾーイ。アイリスはいい母になると思うんだ」
「アステルに言われるまでもなくわかってるよ。アイリスは誰とも触れ合わずに前世を生きていたのに、たくさん苦しい思いをして自分の命を磨いたんだぁ。
削り取られて研磨されて美しく輝くダイヤモンドみたいにねぇ」
「だから、神聖力が強いのかもしれないな。異世界から転生してきた聖女は前世の苦労がそのまま力になるのだろう?」
「そう。ええと……輪廻転生って言ったかな。アイリスもまた磨かれた宝石なんだよ。大切にしてよね」
「それこそ言われなくとも。……アイリスは綺麗だな、怒ってても」
ため息をついたゾーイは、アイリスを微笑みながら見つめているアステルが同じ事をしかねないんだけど。と胸の内でつぶやく。
原初の龍の血をついだ彼の気質からしてもそうならないとは言い切れない。だが、二人は同じ温度の視線をアイリスに向ける。
アイリスなら、きっと大丈夫。
こんこんと説教を続ける彼女を見つめながらそう思うのであった。
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黒の国の黒曜の庭に、朝の光が降り注ぐ。閃光は静かに新しい王と妃を照らしていた。
その、異様とも言える姿を。
二人は今日、戴冠式の日を迎えたはずだ。オブシディアンコートに馴染むような黒衣に身を包んでいる。
いや、あれは……アギアフォースの制服だったはず。確かに二人はその出身ではあるが、通常ならば威厳を示すためにそれなりの儀式服を着用するはずだ。
だが、不思議とそれは民の背筋を正す清廉さを纏っていた。
「まず、ここに集まった皆には俺の神聖力で声を届ける。何度か経験があるから黒の国の人たちは知っているだろうけど、他の国の人は知らないからびっくりせずに聞いてくれるか」
人々の間からさざめきが広がり、そしてそれはすぐにおさまる。革命聖女が手を差し伸べた先に原初の龍が姿を現し、戴冠式に参列したからだ。
前代未聞の戴冠式は国の柱を指名し、滞りなく進んでいく。
「テオーリア・ロゴス。赤の国の王弟として国の同盟を支えよ。
彼の担っていた革命聖女のナイト後任として、カイを据える」
「はっ」
「…………」
「ちょっと、テオ!みんな聞いてるんだからとりあえず『はい』って言いなよ!」
「チッ。ハイ」
「緑の国の王弟アリスト・パイロンにも同盟を支えてもらう。そして、元白の国の王弟リュイ・フィガロロスティン。お前は第一聖女のパナシアと共に各国を巡り、広く民の声を私に届けてくれ」
「かしこまりました、兄上」
「仕方ない、承ろう」
「私はアイリスを守りたいのですが」
「リュイ様、そう言うのは後ほどになさってください。女王陛下がお困りですよ?アリ殿を見習ってくださいまし」
「俺だって納得したわけじゃないぜ。今抵抗したって無駄だぜ?好きを見て掻っ攫うならここは引くべきだな」
「はーーーーーッ。かしこまりまして」
あまりにも不満げに応えるリュイがおかしかったのか、人々の間からわずかに笑いが起きた。だが、そのうちにはわずかな安堵がある。白の国がやってきたことは圧政であった。そして神聖国が斃されたことは明らかだ。
その後継は遺恨もなく、黒の国の王と妃に首を垂れていた。そして、叙任のために肩に置かれた剣を持つ妃を熱心に見つめ、妃の手をとって長い長い手の甲へのキスをしていた。
いい加減にしろ、とアステルに言われた彼はしぶしぶ立ち上がり、叙任者の列に戻る。
最後に呼ばれた黒の国の元帥はそのままの席を有し、小さな小人のような男には妃が膝をついて迎えられる。
しっかり抱き合った二人を見て、アステルも微笑んだまま彼を宰相に据えると告げた。
そして、アステルは彼自身の出生を告げる。白の国が行っていた惨劇は二度と起こらない、各国の不安は黒の国だけではなく四公国が手を取り合って今後無くしていく、と宣言した。
「――ひとつ、言っておきたいことがある。原初の龍は今後、この世界には現れることはない。元々この世界に作られた星隔帯の維持は聖女が担ってくれる。
聖女は、元々ただ一人生まれるのではなく複数人いるんだ。彼女たちがみんなのところを巡ってくれる。安心してくれ」
「アイリスも、オレも市井に降りて仕事をさせてもらう。手を取り合うのは国を担う王族だけじゃない。そして、彼女たちの話をよく聞いてくれ。
自分たちが考え、対策することの大切さを。自分の足で立ち、悩んで出した結論が未来を変えると言うことを」
「飾り立てられた王族はいらない。ここにいるみんなと同じ苦悩を共にして、誰かに頼り切る運命から解き放たれて欲しい。
これから先、オレたちはそれを示していこうと思う」
ざわめきは、やがて拍手に変わる。革命聖女は原初の龍を空に解き放ち、彼は青に溶けていく。
アイリス・セレスティアルというこの世界に革命をもたらした聖女の瞳と同じ、深い深い青へ――
民衆の喝采の中、アステルは小さく囁いた。
「なぁゾーイ、オレはちゃんとできてたか?」
「まぁまぁじゃない?インパクトだけはあったから、今後手抜きはできないけどねぇ」
「カイ、オレは王様になれると思うか?」
「さぁ?やってみないとわかんないよ。でも、僕はアイリスとアステルが作る国を見てみたい」
「元帥はどう思う?」
「えっ……俺にも聞くのかよ」
「元帥は最初から革命を唱えてただろ、誰も考えていなかった頃から。オレはまだ、あんたの方が王に向いてると思ってる」
「イヤだね、オレは体力勝負にゃ向いてるが頭を使うのは苦手なんだよ。めんどくせぇ」
一同が苦笑いになったところで、アイリスとアステルが手を取り合って肩を寄せ合う。
言葉にならない思いを抱え、集まった人々と仲間を見渡して背筋を正した。
これは、終わりではない。始まりなのだ。新しく始まった『革命譚』は、もはや聖女だけの責務ではない。民衆一人一人を立ち上がらせるために記される、とても面倒で大変な改革の始まりなのだ。
「アイリス、何年かかるかな。オレたちが隠居出来るまで」
「想像できませんわね……でも、大丈夫ですよ。私たちはどうせ長寿なのです。いつかきっと、穏やかな隠居生活は叶います」
「アイリスにも聞いていいか」
「どうぞ?」
「アイリスは死んだら、初代聖女と同じくオレから逃げるか?置いていってしまうのか」
あまりにも真剣なその視線に目を見開き、アイリスは笑う。屈託ない笑いを受けて、アステルは頬を膨らませた。
「私は最初からあなたのそう言った気質を存じ上げております。置いていくわけがありませんし、その問いかけは解釈違いですからおやめください」
「うん……そうか」
「二人で隠居しようと言ったのは私ですわ。あなたが私に言ったように、私もあなたを愛しています。 あなたが心配する必要のないほど、深く」
黒紫の瞳に、青の瞳が溶け合う。見つめあった二人は相手の瞳の中に自分を見出し、永く続く未来を思う。
そこには、きっと。
離されることのない、繋がれた手が映っていることだろう。
fin.




