10-6 決意
柔らかなコットンのシーツがからみ、アイリスは身体を伸ばす。筋肉は思うように動かず、思わず顔を顰めた。
瞼を上げると室内は暗い。外から鳥の囀りが聞こえているが、まだ夢の中にいるかのようにふわふわと現実感がなかった。
背中側が暖かく、柔らかいベッドが体に馴染まない。違和感はあるものの、疲労感が眠気を誘った。
再び落ちてくる瞼に抵抗せずにいると、背後からがっしりとした腕が彼女を抱え込んだ。
「アイリス、起きたのか?」
「!?…………え????え???」
「まだ、もう少しくっついててくれ」
「アステル様、の声??」
「そうだよ、君だけのアステルだ。昨日みたいに呼び捨てにしてくれないのか?可愛い声だったな……ずっと聞いていたかった」
「!?!?!」
「なんで離れようとするんだ?ダメだ、もう二度と離さない」
「……ヒェッ」
低く柔らかな声は寝起きの掠れを妖艶に纏い、耳をくすぐる。吐息と共に紡がれる甘い言葉にアイリスは混乱し、彼の腕から逃れようともがく。だが、力強く抱きしめられて彼女の腕は虚しく宙を掻いた。
「無茶したんだからじっとしててくれ。……アイリスの尾鰭を初めて見た。こんなに美しいなんて知らなかったな」
「い、い、いけません!人魚の鱗を褒めると言うのは」
「プロポーズなんだろ?オレは君の番なんだから構わない」
「つっ!番いというのはですね!」
「ふふ……それも聞いた。人魚の〝番い〟と言う言葉がどれだけ重い物なのか。『人間の夫婦は離婚できるけど、人魚は番いと別れたら死んでしまう』って。オレにとっては都合がいい決まりだな」
「何をおっしゃるんですか!私が、勝手にそう決めてしまったといいますか、決まってしまったといいますか」
「とても嬉しいよ。オレを番いだと認めてくれたから、君の涙は宝石になった。お守りはオレを守ってくれた。……幸せすぎて、それこそ死んでしまいそうだ」
もがくのを辞めたアイリスは、ふと自分の一糸まとわぬ姿なのを見て驚愕する。しかも、人魚の姿のままで彼に抱きしめられているという異常事態だ。
ぺちぺちと抗議するように鰭で彼の足を叩くと、「くすぐったい」とくすくす笑われて思わず両手で顔を隠した。
いると言うことは、番の儀式を済ませたということだ。現実をまざまざと見せつけられて、声も出なくなってしまった。
「水の中ではもっと綺麗に見えるんだろ?鱗が真珠のようで、とても優しい光が生まれる。
肌も白いし、触るたびにそれが桃色に染まるから……もっと手加減するつもりだったのに夢中になってしまった。アイリスは本当に綺麗だよ」
「うぅ、うう!!待ってください、受け止めきれません!」
「待たないぞ。なぁ、オレにも君と同じ血が流れているなら、青の国に行けば人魚になれるのだろうか。二人で海を泳いでみたい。鰭の生やし方を義父上に聞いてみようか」
「はっ……??私の父にお会いになったのですか!?」
「うん」
思わず背後に振り向くと、優しい笑みをたたえたアステルが腰に手を回し、彼女を引き寄せた。全身が密着して、アイリスは尾びれの先から鱗が逆立ち、しゃらしゃらと音を立てる。
戸惑いながらもそうっと彼の胸に手を置くと、自分よりも速度の早い脈を感じた。
「ドキドキ、してますわ」
「うん」
「どうしてですの?」
「アイリスと同じ理由だ」
「…………ソ、ソウデスカ」
「ふふふ……すごく不思議なんだ。好きな人と想い合えた途端に、前より綺麗に見える。アイリスは最初から可愛かったのに」
「くっ、お顔を見ながら言われると破壊力が凄いッ!こんな、こんなの耐えられな……んむっ!?」
唐突に唇が触れあって、いたずらっ子のようにアステルが笑う。つられたようにアイリスも笑い出してしまい、見つめ合う瞳には様々な感情が浮かんでは消えていく。
朝の陽の光も届かぬ室内は二人の吐息だけになり、やがて同じ想いが浮かぶ。もう一度重ね合わされた唇には――色んなことを聞きたかったのに――何もかもを忘れさせる感情が生まれて、二人はまぶたを閉じた。
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「それで!あの!そろそろ放してください!」
「いやだ。人間の足になったんならもう一回したい」
「ッッッッハレンチですわ!!もうお昼をすぎたのではありませんか?」
「愛し合うのは破廉恥じゃないだろ。誰かが朝食が置いていってから、だいぶ経っているはずだな。気を利かせてくれたんだろう」
「うっ………………。アステルさま、私は父上のお話と、白の国との戦の件で聞きたいことが沢山あります。パナシア様やカイ、私自身のお話もしなければなりません」
「このままでも話せるだろ?腹が減ったか?」
「いえ、空腹は感じませんが」
「オレもだ。アイリスとこうしていると、何もかもが満たされて他に何もいらなくなる」
「くっ……カオガイイ!!あの、ゾーイは?傷は治っていましたか?」
「あぁ、綺麗さっぱり治っていたよ。今日一日休めと言ってくれたのは彼だ。アイリスは、何ともないのか?肩に傷が残ってしまったな……」
彼の唇が肩先に触れて、その熱さにアイリスはたじろぐ。目を泳がせた妻を見た夫は、含み笑いを漏らした。
「くっくっ、アイリスはいつになったらこういう事に慣れるんだろうな」
「慣れる日が来るのかどうか、怪しいです……」
「それでもいいけど、オレはもう手加減できないぞ」
「ちょ、あの!!流石にもう無理ですわ!」
「じゃあ、大切な奥様の言うことを聞こう。後でご褒美があるならだけど」
上目遣いのアステルに見つめられ、言葉を失ったアイリスは耳まで赤く染めながら仕方なく頷く。アステルの「さて、何から話す?」という微笑みに誘われて迷いながら今までの話を紐解き始めた。
「白の国はどうなったのですか?黒の国の王が作った虚像の木偶が居たはずです。人と同じように動いて、鎧を纏い剣を佩いた者たちが」
「人と同じ、というのは確かに正しいな。虚像であるが故に作りは人と同じだった。オレは青の国の王の神聖力で空を飛んで、切り込みをやった」
「父の神聖力は多数に対して使えませんわ。まさか、一人で!?」
「あぁ。声で鼓膜を破り、痛みで蠢く奴らを切っただけだから怪我はしていない。そのまま玉座で呆けている白の国の王を殺した。同盟軍が追いつく頃には全て終わらせたよ」
「呆けていたと言うのは?泉の復活……私とゾーイの時を止めた代償で、ですの?」
「うん、そうだ。初代聖女の時をとめた男もまた同じ状態だったそうだ。それを知っていてパナシアは白の国を動かした、乗っ取るつもりだったらしい」
――戦の火蓋を切ったアステルは黒馬で天を駆け、単騎で白の国の城内へ。矢が射掛けられても人魚のお守りのお陰で一矢も当たらず虚像達を殲滅。白の国の王を殺したあと無傷のまま城門を開き、苦い顔をした同盟軍を招き入れた。
その後、軍隊は持ち寄った救援物資を民衆に分けて炊き出しをしている。飢えた人たちに食べ物が与えられたと聞いてアイリスは胸をなでおろした。
「同盟軍に、父が参加したのですか?」
「あぁ。人魚の秘密が暴かれた、と言う理由で白の国を滅ぼしに来たらしい。最初からオレを訪ねていらしたよ」
「あの、私の事はなんと?」
「〝婿殿〟と呼んで親しくしていただいてる。人の足は痛くて叶わないと言って帰りたがっていたが、ゾーイに質問攻めされていてまだ黒の国にとどまっている」
「少しだけ父には付き合っていただきましょう。私が槍を向けられた時にゾーイが代わりになってくれたのです。アステル様が受けていた光の槍は、あの時私に向けられていました」
「…………痛かったか?」
「それはそうですが、安心もしました。あなたに刃が向けられることは、もうないのだと確信できましたから」
「その傷が残ってしまったのは心苦しい。ゾーイの腹にも同じものがあったが、彼自身は『革命の聖女を守った名誉の負傷だ』と喜んでいた」
「……革命の、」
「あぁ、そうだよ。アイリスの生贄事件は五公国をひとつにまとめるきっかけになった。白の国はなくなり、全ての国はアギアになった王弟たちが繋いで同盟を結んでいる。その全てを担った人として名前がつけられた」
「青の国も……同盟に参加したのですか?戦だけでなく?」
「オレたちが夫婦になるなら構わないと父君は言っていたな」
「そうですか。では、取り纏め役が必要ですわ。どなたを同盟の旗印になさるのでしょうか」
「オレは計らずしも自分の神聖力の恐ろしさを各国に見せつけてしまった。生まれのせいもあり、元々保有していた力が多かったんだ。
他の公国の王達も滞在しているが……玉座を勧めてられている」
顰め面になったアステルの頬をなぞり、アイリスは真剣な眼差しになる。彼女の勁い色にまたたき、それでも双眸をそらさない彼は柔らかい表情のままだ。
だが、黒紫の目の中には躊躇いが見える。
突然生まれを知らされて、白の国の王を斃したと言うことは……王権の復権を行ったと同じこと。簒奪された初代聖女の王家は権利を取り戻してしまったのだから、王として立たない訳には行かない。
けれど、アステルは権力を望んでいない。たった一人の妹を守るために軍内部で座を得たが、そうしたかったわけではない。彼の気質をよく知っているアイリスは胸の中がチクリと痛むのを感じた。
「私の責任ですわ、そのような形にしてしまったのは。ですが、私が王にはなれません。元々革命の聖女などと言われるような人ではありませんから」
「人魚だからな」
「アステル様……そうではなく、私は様々な勘違いをしていました。思えば最初から四公国の王弟達は私を見ていたように思います。パナシア様にも、私にも『主人公補正』があったのだと推測しました」
アイリスは生贄になっていた期間に見た『聖女革命譚』の結末を話す。そして、パナシアの中にいる人こそがこの物語を創ったと言うこと、自分もまたそのシナリオに沿って動いていたようなものだった事。
伝えるうちにアイリスは思った。原作とは違うものの、最終的な末路は少し似ている……と。
映画では全ての国が亡び、全ての人が死に、最後にパナシアとアステルしか残らなかった。
現実――アイリスたちが生きる今は、国々が結託している。事態の終結に向けて動いた同盟軍が解体されたあとも仲良しこよしと行くかどうかは、今後の舵取り次第なのだ。
二つの世界は滅びと再生という別々の結末ながら、どちらも0からのスタートだった。アイリスがもがいた行動も、無駄ではなかったのかもしれないと感じつつ、各国の不安定さは改善を必要としていることに変わりはない。
――ならば、これは始まりなのだと思い至る。自分が始めた物語は、自分で結しなければならない。
「私は自分を、アイリスを犠牲にしてアステル様をお助けする事だけを考えていたのです。ですから痛い目を見たのでしょう。主人公補正と言うものを得て、汚いやり方だったかと思います」
「ふむ……?」
「今後はこのような事をしないと誓います。私はあなたと言う人を得た今、泡にはなりたくありません」
「うん」
「玉座をあたためる必要はありませんが、先導者は必要となりますわ。聖女の力も同じです。白の国は各国が手を差し伸べれば良いですが、黒の国自体の問題は山積みですもの」
「……そうだな」
「元老院のおじいちゃまたちがいらっしゃいます。テオ、リュイ、アリ、そして私もそれぞれの国の代表として繋ぎ役をなせますわ。私は王弟ではありませんが……それに、政治についてはゾーイが役に立ってくださるでしょう」
「アイリスも、オレに王になれって言うのか?」
ふるふる、と首を振ったアイリス。その目には柔らかな青が浮かび、アステルの瞳を惹きつける。彼女は自分の幸せを掴むために自分を選んだ、それは彼にとっても幸せにほかならない。
彼女の瞳の中に新たな希望の火が灯り、輝きをましていく。その瞬間を間近で目にしたアステルは体の奥底から『彼女と共に生きたい』と思った。
「国が立ち行くまでは『偽王』として立てば良いのです。国の中枢を立ち上げ、同盟国との繋ぎを太くして、街の隅々まで見て回りましょう」
「なるほど、城から出て市井に降りるんだな?」
「えぇ、聖堂を介して民衆の声を聞き土を耕して種を蒔くのです。
そして、それがいつしか実りを得たならば……私達は必要ありませんわ。〝王や聖女など居なくとも国は立ち行くのだ〟と証明すればいいと思いませんか?」
「それで……その後は?」
「駆け落ちしましょう。私はあなたと二人で生きていきたい。私は二度と自分を犠牲にしません。欲望のままに幸せになりたいのです」
「アイリスの欲望って、なんだ?」
「私はあなたを誰かに消費されるのは我慢なりません。私だけのアステル様でいらして欲しい。私も、あなただけのアイリスになりたいのです」
「うん」
「ここから先は、ずっと一緒です。道を間違えても仲間達が支えてくださる。私は旦那さまと生きてゆくのですから、世の憂いを抱えたままではスッキリしませんの」
「何も心配することなく、世の中が平和になれば他の誰とも顔を合わせず、二人だけで居られるのか?」
「はい。あなたはそう言う癖をお持ちですもの。秘密の花園に私を閉じ込めたいのでしょう?誰にも見せず、会わせず、あなただけを見つめるアイリスが欲しいはずです」
「うん」
「私もそうです、だからあなたが好きなんですよ。独占欲は誰よりも強いのですわ。……自分でも驚いています」
「オレもびっくりしてるよ。ゲームの中でオレのことを知り尽くしても好きなら、似たもの同士だったのか」
「ええ、そうみたいです。アステルさま、私達の未来のために立ち上がりましょう。疲れたら時々逃げ出して、二人で過ごしたりして。
……子供も、育ち切っているなら置いていけますわね?」
「わかった、そうしよう。仕方ないな」
「はい、仕方ありませんね」
静かな部屋の中に、二人の笑みが落ちる。アステルの笑みは段々と深くなり、そして一粒の涙がこぼれる。
それは、自分の手に多くの人の命が責務として一時的にでも降りかかる事実への畏怖。
そして、遠い未来を思い描くアイリスへの想い、この先も当たり前のように彼女と共にいられるのだと言う安心感。
何も恐れることはない、と自分に言い聞かせた彼の声にならない決意は、アイリスが受け止めた。
二人が過ごした夜の跡として部屋中に埋め尽くされた涙の結晶。その中にそれが落ちて、やがてそれは黒い色に変わった。
ブラックダイヤモンドの宝石言葉は
――成功、不屈、革新。
二人の決意はきっと、明るい未来になるだろう、とこの宝石が示しているようだった。




