10-5 泡にならなかった人魚
「私がアイリスを犠牲にしようとしていた。確かに、その通りだわ」
アイリスは、巨大なスクリーンの前でアステルが泣き叫ぶ姿を見上げる。
大粒の涙をこぼし、血が滲むほど拳を握り込んで肩を震わせる姿は耐え難いものだ。
だが、パナシアがスクリーンの中に消えてしまった今、時は止まった。アイリスは延々とその哀しみのシーンを見せつけられている。
パナシアの中にいた少女は先に異世界に戻ったのだろうか。
アイリスがスクリーンに指先で触れると水のように波紋が広がる。隔たりの無くなったこの先には、おそらく異世界が繋がっているのだろう。
映画館だった場所は今、暗闇に染まってスクリーン以外は見えない。明らかに現実とかけ離れた状態になっているのだから、何が起きてもおかしくはない。
異世界に転生した2人が、なぜこの世界に戻されたのかはわからないが、パナシアの中にいた同郷の少女は〝アイリス〟に大きな衝撃を確かに残していた。
『ゆかぬのか?』
「えっ!?……ど、どなたですか?」
真横から突然声をかけられて振り向くと、そこには白い着物を着た老人が杖をついて佇んでいた。
どこか見覚えのある白髭を撫でながら、彼はアイリスを優しく見つめている。
『なんじゃ、忘れてしもうたのか?毎日神社で会っていたじゃろうに』
「あ、そう言えば……お掃除に行くたびお話ししていた方がいましたわ。私は目が見えなかったので、お姿では分かりません」
『確かに、そうじゃったな』
ふ、と微笑んだ彼はアイリスと並んで腰掛ける。慣れ親しんだ実家の神社の香りがふわりと漂い、ハッとした。
「もしや、あなたは」
『すまんのう、ワシは巫女に良かれと思って様々手を下したのじゃが』
「あなたが龍神様ですの?私、いつも神様とお話ししていたんですね……」
『あぁ、そうじゃよ。心配せんでもあの社は血族がきちんと引き継いでおる。近所の奴らが手伝い、当番で境内を清めてくれるのじゃ』
「そう言えば氏子さんがいらっしゃることを忘れていましたわ……沢山の方に助けられていたのに、私はひとりぼっちなつもりで生きていました」
『それに気づけたのなら、異世界で成長したのじゃな。あとはお前さんが幸せになってくれればいいだけじゃ。しかし今、道に迷っている』
「はい。私は自分の罪にようやく気づきました。前世でも、異世界でも勘違いばかりして勝手な振る舞いをして居たのだと」
『人とは得てしてそう言うものじゃ。げに愚かで、浅ましく、穢れを常に纏う』
「はい」
『じゃが、それゆえに稀有な愛を持つ。欲望の深きは人を想う力となり、誰かを救う。お前さんの何もかもが悪かったわけでは無い。
ワシが、何もかもを語らぬままでいたせいもあるじゃろうて』
「否定は致しませんわ。パナシア様の中にいたあの子は、色々知っていましたし」
『あれはのう、異世界を創った命よ。なんというたか……げ、げん』
「まさか、あの方は原作者様ですの!?」
『そう!それじゃ。世界を作るにはまだ若く、それでいて人生のほとんどを床の上で浪費していた物を知らぬ子じゃ。夢物語の卵を創り、それを仲間たちと孵して箱庭を作り上げてしもうた』
「もしかして、彼女はあなたと同じ神様と言うことですか?」
『否。『聖女革命譚』の世界を作り上げたのは語り部に加わった者たちじゃ。何千、何万と言う人の想いが異なる次元を創り上げた。
今の世には珍しくはない、お前さんもよう知っとるじゃろ』
「ま……まさか、異世界は人の想いが作り出しているのですか?他にもあのような世界が存在すると?」
『さて、どうじゃろうの。元々次元や世界というものは一つであると決まっておらん。全てに渡れるワシらは行き来できるが、人には無理かろう』
「本当に、異世界転生や転移が現実にあるのですか?」
『ほっほ、異なことを。現にお前さんはそうして生まれ変わったというに』
「あ……そうでした」
二人はわずかに微笑み合い、すぐに眉を下げたアイリスに老爺が手を差し伸べる。
重ねた手に伝わる暖かさや優しさは、胸の中にまで染みるようだった。
『世の理を全て知れば人には戻れぬ。あの子はもう、人ならざるものに成っている。神の担当が全てを教えてしまったのじゃよ』
「担当……ですか」
『あぁ、黒い龍がよこした小さき龍だ。人から仙になり、神になってしまった黒き龍は……愛した者の魂を追いかけた。砕かれた魂のかけらはあの世界からこちらへ渡り、複数の命に別れて焦っていたのじゃろう』
「まぁ……初代聖女さまは原初の龍から逃げていらしたのかしら?神様ってそういう感じですの?うっかりと言いますか、何と言いますか」
『長い時を経ると感覚が鈍る。心も、体も無くしたようになるんじゃよ』
「自我が薄れるのかも知れませんわね、私も100年をすごして時折そのようなことはありました。そうなりますと、作者の彼女はどうなってしまうのですか?」
「知らぬほうが良い」
「むむ……と言うか、おかしくはありませんか?作者の方が後から異世界を追いかけておりますよね?原初の龍が始めた物語は彼女が作っているのに」
『鶏が先か、卵が先かと言う話じゃ。おまえさんが元の世界に戻らぬなら、説いてやるが』
「…………」
『戻りたくはないのか?黒き龍の子孫、新しき星はお前を愛している。一言応えれば幸せな暮らしが送れるだろうに』
「わたし、私は」
『自分を責めると言うのは、この世界で言う〝悲劇のヒロイン〟とよく似ておるのう」
「悲劇の、ヒロインですか。自ら不幸のぬるま湯に浸かっている……確かにそうですわね」
「ワシは、其方に幸せになって欲しいと願ってあの世界に送った。
人生の殆どを消費させてしまった。清潔な住まいを保ち、長く仕えた巫女への罪滅ぼしとしてそうしたのじゃ』
アイリスは顔をそうっとあげて、悲しそうに微笑う老爺を見つめる。前世で誰にも見つけてもらえていなかったはずの自分にも、幸せを望んでくれる存在があったのだとはじめて知った。
もしかしたら、神社を継いでくれた親族たちもそうだったのかもしれない。……家屋の権利を求めていたのは、良心からそう言っていた可能性がないとは言い切れない。
そう思うと、ますます足がすくんでしまった。
「私こそが俄ファンでした。アステル様がパナシア様を愛し、その思いを遂げられるようにと勝手にストーリーを変えてしまった」
『うん』
『親族も、私を疎んでいるのだと勝手に決めていました。もしかしたらそうじゃなかったのかも知れない。
私を助けようとしていたのかも知れません』
『うん』
アイリスが震え、老爺は瞼を閉じる。彼女の気高い心に目が眩みそうだっだのだ。
勘違いだとしても自分一人で立ち、何も見えない世界でも正しい行いをしてきた巫女。彼女は清廉潔白で、美しい。白すぎる心は生まれ変わっても変わらないのだ、と彼は変わらぬ心を思って歯噛みする。
「私はアイリスを犠牲にしたのですね。愚かな私はいつか、アステル様を追い詰めるかも知れません。この映画みたいに」
『これは作り物じゃよ』
「でも、でも……あの人を苦しめたくありません!こんな風に悲しい思いをさせたくない!!私のせいで、あの方が……」
『――アイリス』
震える手を握った彼は瞼を閉じたまま、優しく名を呼ぶ。諭すように、宥めるように。
『現世でも、異世界でも過ぎた時は戻せぬ。今後悔していることに何の意味があろうか』
「…………」
『折々に振り返ることは肝要であろうな。しかし、過ぎた時に囚われてはならぬ。お前さんはずっと前を見て走り続けた。
じゃからその清さを保てていたよ』
「清くなどありませんわ。私は、ゾーイとお友達になれて嬉しかった。ゲームの登場人物と会えた事に喜びを感じていた、私の大好きなアステル様にお会いできて……」
『彼に想われたのは、幸せじゃったろう?』
「――はい」
『その想いを無碍にして、これから未来の幸せを諦めてどうする?それこそ星を悲しませる事になるではないか』
「でも、私なんかが、」
『星はきっと、こう言う。「オレの愛しい人を悪く言わないでくれ」とな』
「…………」
『人は穢れの中に身を置いてこそ、魂は磨かれる。間違え、苦しみ、それを乗り越える力は誰にしもある。気づかない、気づけないだけじゃ。
戦禍を生き延び、厳しい世を生きた前世は無駄ではなかったろう?』
「……は、い……」
『巫女、幸せにおなり。ワシはもう一度お前さんを送り出しに来た。遠い村からやってきたからのう、骨が折れたわい。
老いぼれの気持ちも汲んでくれぬか?小さな頃から見てきた、我が子のようなお前さんが愛おしいのじゃ。わがままを聞いてくれんか、花嫁姿が見たい』
「おじいちゃん、私は……」
『おうおう、懐かしいのう。そう呼ばれるたびに幸せじゃったよ。
現世で気付けなかったことは、異世界で取り戻せたじゃろう。ならば今度こそ、自分を幸せにしてやってほしい』
涙を拭ったしわしわの指先は、ほのかに白い光を帯びて溶けていく。目を見開いた彼女のほおをそうっと撫でた老爺は微笑み、泣き叫ぶままのアステルを指さした。
『お行き。お前の魂は星に導かれ、輝かしい未来を得るじゃろう。
ワシは、今度こそお前さんの魂をきちんと送ってやれる』
「…………は、い」
「うん、うん。いい子じゃ。いい子じゃな、――――――」
前世の名を呼び、掻き消えていった彼の残した光。それはスクリーンの中のアステルを振り向かせる。
画面の中の大きな彼はアイリスを見つけて、綺麗な涙を流した。まるで流星のように輝くそれは大地に伝い落ち、跳ねた雫が陽の光に輝く。
黒と、紫と、それの混ざった大きな瞳が彼女を映して三日月の形になる。彼の微笑みは、唯一の光を宿していた。
「アイリス、ここにいたのか」
「はい」
「帰ってきてくれ。君がいないとオレはもう生きていけない」
「っ……スーーーーーー、フーーー」
「アイリスがはじめてくれた食事は、冷たくなっていたオレの心まで温めてくれた。
アイリスが見つめていた先に全部があった。それを真っ直ぐに見続ける君がただただ眩しかった。
アイリスがくれた想いは、たくさんの愛は、オレを変えてくれた。生きたいと思ってしまった。あんなふうに愛されたら、どうにもならなかったんだ」
「…………アステルさま、」
「オレの奥さんになってくれるんだろ?誕生日もお祝いしたい、毎日君と笑い合いたい。君が思っているよりもずっと、オレは君を愛している」
「は、い……」
「アイリス」
「アステルさま」
お互いの名を呼び合った二人は額を寄せて、唇に触れる。その瞬間に世界は溶け合った。
━━━━━━
「――どうすればいいんだ?時を止めた術は、解けているのか?」
「……解けたはずだよ。白の国の王はアステルが殺したんだからさ」
「なら、アイリスはどうして目覚めない!?」
凍ったまま泉の中でゾーイを抱き、宝石を産み続けるアイリス。台座に乗った彼女はまるで、石像のように硬くなっている。その目前で泉に浸かったままアステルは叫ぶ。
黒馬に乗った一人の男は空を駆け、神聖力を驚くほど精密に操作して白の国を制し、王を斃した。城外では民衆の喝采が物語のハッピーエンドを謳っているというのに……地下の聖堂は真逆の状態だった。
カイは青の国の王に目線を送り、頷きをもらう。清らかな泉に身を沈め、アステルの横に立った。
「これは他の人に言わないでね。……アイリスの意思でこうなっている可能性が高いと思う。死に瀕した人魚は自分の魂を凍結させて身を守るから」
「じゃあ、溶かすのか?どうやって?」
「氷を溶かすのは熱でしょ」
「……火でも炊けと言うのか」
「そうじゃないよ。火よりも熱いものがここにあるでしょう」
ドン、と拳を彼の胸に叩きつけるカイ。衝撃と共に彼の気持ちを受け取ったアステルはすぐに頷き、アイリスに語りかける。
荒れた日々に冷たくなった心を温めたあの日の食事を、たくさんの人に触れながら迷いなく進む美しい姿を、彼女がくれた溺れるような多くの愛を。
……そして、引き寄せられるように彼女に口付けた。
━━━━━━
「――アイリス、おかえり」
「…………ッ!?」
「ん?目が見えないのか?どこか痛むか?」
「見えて、いますわ。痛くもありません」
腕の中でほおを赤く染め、瞬く彼女の姿を見てアステルは微笑む。すっかり傷の治ったゾーイはこっそり二人の間から抜け出し、カイに抱えられて泉を抜け出した。
「カイ、負けちゃったね?」
「最初からこうなるってわかってたよ、僕は」
「それなのに抵抗したの?」
「するさ、僕はアイリスが好きなんだから。でも、あの顔を見ていると何にも言えないよ」
「そうだねぇ、アイリスもようやく覚悟を決めたみたいだしねぇ」
「フン」
仲間たちに囲まれて、輝く泉の中で二人は抱き合っている。ようやく想いが通じた2人を祝福するかのように光が増し、もう一度重ねられた唇に周囲から舌打ちが落ちた。音数の多さに驚いたアイリスは両手で顔を覆う。
「………………うう!!」
「アイリス、どうした?」
「私、皆さんの前で……ッスーーー」
「オレは気にならない。やっと再会できたんだからもっとしたい」
「い、いけません!あの、そう言うのは後で」
「君が望むならそうしよう。でも、ここでけじめをつけたい。アイリスはオレのことを好きって事でいいんだよな?」
「散々そう言ってきたじゃありませんか!」
「あれはオレのために言っていたのじゃないし、夫婦はまだ仮のままだ。告白の答えが欲しいって言ってるんだが」
「か、かかか顔、顔が近いです!」
「これから毎日この距離なんだから慣れてくれ。アイリス、早く」
「ちょっ、ま、待ってください!!」
「許しが出るまでしないから、言ってくれ」
「…………うーうー!」
「はやく、早く許してくれアイリス。キスがしたい」
「ヒュッ……」
キスをせがむアステルの上目遣いを受けて、耳まで真っ赤になったアイリスは彼の胸元を押して瞼を強く閉じる。
だが、アステルとの身長差はそれを許してくれなかった。顎をつままれ、吐息を間近に感じて思わず目を開くとアステルはもう一度『はやく』と囁いた。
瞳には欲望がやどり、揺らめくような熱い熱を放つ炎が見える。こんな顔を見た事がないアイリスは、目を反らせなくなってしまった。
「オレの奥さんになってくれるだろ?本当の夫婦に」
「は、は、はい」
「じゃあ?」
「アステル様の事が……す、すすすすす……………………スキデス」
蚊の鳴くような声で囁かれた告白は、アステルのよく聞こえる耳にだけ届く。満面の笑みを浮かべた彼はアイリスを抱きしめて、もう一度唇を重ねた。




