2-3 黒の国と白き姫
――この世界は一つの奇跡の星でできている。全ての生命はここにあり、人々は惑星の中で生きる。他の星に生命は生まれていない。
惑星は水で満たされ、宇宙からは青く、海のような色に映るが……それを知る術はこの世にはまだない。
星の中で隔離された五つの国──それが五色公国である。五つの国にはそれぞれ象徴となる色が割り当てられ、神聖な力によって世界からの侵食を防いでいた。
穢れなき地、聖なる大地に囲まれた大陸続きの国々はそれぞれが協力関係にある。時々戦争が起こるものの平和な暮らしが続く。
そんな中で、100年に一度必ず生まれる『聖女』がこのたび黒の国に生まれた。聖女は100年ごとに五つの国に順番に生まれるとされ、万物を癒し浄める役割がある。
その、聖女を守る守護隊は『フォースオブアギア』と呼ばれていた。
黒の国にも新設されたフォースオブアギアは『聖女を守る』だけではなく国の直轄軍隊となる。名誉を与えられた隊員は給金も良い。治世に乱れが生じた今試験に受かった隊員たちは、多数の応募者が居る中で難関を突破した〝エリート中のエリート〟と称されている。
そう、選ばれし者だけが聖女を守る資格を与えられるのだ。
「あら?声が小さかったでしょうか、わたくしはアイリス・セレスティアル。一緒にいるのはカイ・ヴォイシアですわ」
黒の国、堅牢な岩の外郭にある入り口の門番はポカンとしながら、「聞こえなかったのかしら?」と首を傾げる目の前の華奢な女性を見つめた。
早馬で門限ギリギリに到着した彼女はボロボロの外套を纏い、顔中埃や煤・砂をつけて微笑んでいる。
『青の国から美しい人魚が守護隊にやってくる』と聞いた野次馬が集まったが、二人を見て一様に表情は驚きのまま固まった。名誉のアギア合格者と思えぬそのみすぼらしい様相に。
カイ、と言われた青年は拗ねたような顔で黒い馬を引いて立ち尽くしている。明らかに疲労困憊といった様子だ。彼は機嫌悪そうに門番を睨み、鼻息の荒い黒馬の鼻を優しく叩いた。
この馬も大層立派だが、二人と同じく汚れている。まるで何日も荒野をかけて来たようだ。
二人と1匹の来訪者はどこからどう見ても放浪者のように見えた。
「あの、私……言葉が正しく発音できていませんでしょうか?それとも、もしや期限を過ぎておりましたか?」
「あ、あぁ。問題ない。時間ギリギリだが間に合っている。
青の国のアイリス・カイ両名で間違いないな?身分証明はあるか」
アイリスの涼やかな声にようやく正気を取り戻した門番は、黒の鎧を鳴らしながら合格者名簿を取り出す。
「身分証が必要なのですか?」
「青の国は海の中だから、陸には情報がない。人魚かどうか、見た目では判断出来ないだろう」
「まぁ、そうですわよねぇ。こうして足が生えておりますもの。困りましたわ、私……そういったものを全て置いて来てしまいましたの」
頬に手を当てて首を傾げる仕草は流麗だが、地方で育った衛士には貴族かどうかの見分けがつかない。早朝の開門とともにやって来たアギアの合格者たちは身なりも良く、しっかり教育された者ばかりだった。
すでに入国した隊員は手練であったり、服装がしっかりしていたためアギア合格者だと判断できる。
それに、陸上の国ではある程度の領地を持つ貴族は『証』である納税証明書を持っていた。身分を明らかにするものではなかったが、そんな内部書類をもてる外部の人間はいない。
神秘に包まれた青の国の人魚は、対外的に陸へ姿を現すことは滅多にない。こうして他国の守護隊に応募することももちろんないが、それは彼らが人ではなく人魚であり独特の独立国家であること。海の底に生ける人間などいないことが由来している。
要するに、青の国の文化や人魚はこの国でも全く理解されていないのだ。
アイリスとカイが荷物の中から何かないかと探り出した頃、後ろから背の高い男が姿を現した。
大男と言って差し支えない身長の彼は黒い外套のフードを外し、青の国の二人と同じ黒毛の馬から颯爽と地面に降り立つ。
旅人然とした服装であるものの、彼の顔は彫刻のような輪郭で一切の曖昧さがない。やや釣り上がった翡翠色の瞳は野生的な美を強調するようだった。
薄い唇の端を上げ、やや嘲笑を浮かべた彼はアイリスたちを横目に証を取り出した。
「アリスト・パイロンだ」
「合格者か。お前で最後だな……よろしい、中へ」
「こいつらはなんだ?」
あっけなく関門を通過した彼はアイリスを見下ろし、眉を顰めた。野次馬の町娘たちから黄色い悲鳴が上がる。
「みて!ワイルドなイケメン!」
「緑の瞳ってことは緑の国の人?」
「そうよ!髪の色は黄金砂漠、瞳は翡翠の緑って言うでしょう?背も高いし」
「素敵ねぇ……」
野次馬に流し目を送ったアリストは腕を組み、慣れた賛辞に嘲笑を浮かべた。
「青の国の合格者なんだが、納税証明書を持っていないらしい」
「青の国?人魚が陸に上がったのか」
「あぁ、彼の国の合格者はこの二人だけだ」
「二人、ねぇ?確かに足はあるが魚だ。正しくは2匹じゃないのか」
「黙って聞いてれば――用が済んだならさっさと行ってくれる?青の国の姫に対して失礼だよ。人間風情がなめた口をきくな」
「カイ!」
怒りをあらわにしたカイの肩を抱き、アイリスはアリストに頭を下げる。不遜な口をきいた大男はふ、と嗤った。
「姫君?そのナリで?」
「馬に乗って来たから汚れただけだ」
「カイ!おやめなさい。……すみません、えぇと……アリスト様」
アイリスははじめて外套のフードを外す。沈む夕日の淡いオレンジの光に染まった白い髪がさらりと揺れた。
「ご挨拶申し上げます、私はアイリス・セレスティアル。確かに青の国の末席王女です。ですが、こちらに参りましたのはアギア入隊の為。身分はお互い明かさぬままといたしましょう」
「それは、何故だ」
マントの裾を広げ、頭を下げた彼女はチラリと頭上の彼を見上げる。その目には恐れも気後れもなく、まっすぐな光が宿っていた。
彼女は声を落とし、ひそやかに続ける。
「あなたは身分を明かされたらお困りになるはずです」
「ッ!?」
「いけませんわ、そのように動揺されては。正体がバレますよ」
「…………」
腕を組んで居丈高にしていたアリストは姿勢を正し、ようやくアイリスをしっかり眺めた。
背筋の伸びた美しい姿勢、流れるように優雅な所作振る舞い。そして物おじしない視線。それはどれをとっても王族に相応しい動作だ。
そしてそれは、アリストもよく知っている。
「アイリス、と言ったな。俺の正体を知っているのか」
「さぁ、どうでしょう。見慣れた仕草が目に入っただけですわ。カイの無礼をお許しくだされば、私は貝のように口を閉ざします」
「……フン」
一礼した後、アイリスはすぐに彼に背を向けて大きな袋から様々なものを取り出している。すでに興味のなくなったものに対しては、一切の気配りがないようだ。
姫君はどうやらさっぱりした性格で、侮れない女だと判断したアリストは彼女の傍に立った。警戒心をあらわにしたカイを笑みで抑え、膝をついて恭しく手を差し伸べる。
「先に挨拶をするべきだった失礼を詫びる。俺は緑の国からやって来た。青の国の商人とは交流が最も深い国だ」
「存じております。……歯ブラシは身分証明にはなりませんわね……櫛もだめよね、ううん」
「お前……俺が挨拶しようってのに、ぞんざいな奴だな。姫君なら王家の秘宝を持ってるんじゃないのか」
「そんなものございませんわ。私は二十番目の子ですから、秘宝は長姉様がお持ちです」
「普通、世継ぎには一人一人作るんじゃないのか」
「作りませんね。ウチは歴史があるとはいえ、細々と暮らす海底の国ですし、王家の財政は絞った方が民に潤いを齎すのです」
「夜逃げでもして来たのか?古い生活用具ばかり持って」
「よ、夜逃げではございませんわよ!古いのは致し方ございません。青の国ではこれが最新なのです」
「…………」
腕を組んで呆れるように笑ったアリストは応える気のない彼女の手を掴み、立ち上がる。彼の腰あたりに顔があるアイリスは不快感に顔を歪めた。
ハンサムで名高い彼にとってはそれが新鮮な反応であり、袋の奥底に見えた最新の暗器たちを目撃した後では……さぞ、アイリスが面白い女に思えた事だろう。
ある者から見れば支配されて当然の、彼の鋭い視線を受け止めた彼女は顎をあげて『ふんっ』と鼻息を吐く。
「ご挨拶が必要でしたら、早く済ませていただけますか」
「あぁ、そうしよう」
アイリスの手の甲に唇を近づけ、正式な礼が取られる。貴族ならではの挨拶で、唇は触れないがこれで男が女性に対して敬意を表したことになる。
礼を受け慣れていたアイリスはそれが終わると再び袋の中身を探り、悩ましげに唸り出した。アリストを全く意に解さずに。
一層愉快になった彼は微笑みながら話しかける。
「アリって呼んでくれて構わない」
「はぁ、そうですが」
「俺たち名前が似てないか?」
「発音が似ているだけです。私は『花』、あなたは『最も高貴で勇敢な道標』でしょう。野の草と国の導き手では月とスッポン、天と地の差がございますの」
「国外で古代言語を正しく理解してる奴は、初めて見た」
「王族ならば当たり前でしょう。特にあなたのお国では重用されていらっしゃいます」
「…………本当によく知っている」
アリストの長いふしくれだった指が彼女の髪を一房すくい、視線が注がれる。
緑の国では古代文字をたしかに重用していた。
だがしかし、それはその国に多数存在する遺跡のせいであり他の国では興味すら持たれない事実だ。そのため、彼は身分を偽る改名はしなかった。
――どこまでこの女は、真実を知っているのだろう?
純粋な興味が湧いた彼は柔らかな髪を弄び、その手を払ったのはカイだった。派手に肌の打ち合う音が響き、アイリスは溜め息を落とす。
「アリスト様、流石に失礼ですわ。淑女の髪に触れるなんて。
カイ、本当におやめなさい。あなたのナイフではこの方とやりあって、無傷とはいきません」
「……アイリスの髪に触れるなんて」
「落ち着きなさい。腰に二挺、腿に四挺、ブーツの中にも仕込まれているし、手首のアクセサリーには毒針があります。ピアス、ネックレスも暗器ですわ」
「っ、はは!本当にお前さん何者だ?」
完全に破顔したアリは心底愉快だと言うふうに笑い、カイに庇われたアイリスを見つめる。ただの王女ではない上に、暗器をよく知っている。アギアに合格するのも当然だ。
カイ自身も身のこなしは素早いが、動こうとした瞬間――彼女に爪先で足を押さえられている。相当な手練れに違いない。
「面白い奴だな、覚えたぜ。そこで助言が一つあるんだが」
「まだ何か?私が従者を抑えられるのはここまででしてよ」
「そりゃ怖いな、悪かった。お前たちを害する気はない。身分証明書の件で提案がある」
すっくと立ち上がった彼女は目を輝かせてアリに振り向いた。頬が紅潮してふっくらした唇の端が上がる。それを見た彼は、胸が跳ねて思わず目を逸らした。
アイリスのこの洗練された容姿が、汚れているだけで見抜けないとは。黒の国の門番も大したことがないようだ、とひとりごちる。
「人魚の王族は瞳が濡れると深海の光を宿す。一時的にその色に髪が染まるとも聞いた。聖なる青と呼ばれるサファイアのような瞳を持つんだろ、真珠姫は」
「あら……そう言えばそんな特徴がありましたわね、人魚の生態を忘れてましたわ!」
「それから、泣けばそいつの心理的な状況に応じて涙から宝石が生まれるとか。それで証明できるんじゃないか」
「そうでしたわ、それも忘れてました」
「お前さんは、おっちょこちょいなのか」
「真珠の二つ名はご存知でも、私の性格まではご存知ありませんね?ふふ」
アイリスは頷き、衛士に向かっていく。迷いのない足取りで野次馬の垣根。割り、解かれた彼女の髪がふわりと広がる。白髪が一瞬、深海の青に染まり……すぐに元の白へと戻った。
「カイ、お前気をつけた方がいいぞ。アイツは危険の種だ」
「馴れ馴れしく話しかけないでくれるかな、緑の国の王子様」
「やはり、知ってるんだな。お互い秘密を知っているなら協力しようぜ。その方がいいだろ?俺の怖い顔は役に立つ」
アリを睨みつつ、荷物を一つ残らず拾い馬にくくりつける。そして「面倒が増えた」と小さくつぶやく。それは彼なりの了承だった。
「あんな美人が男所帯で無事でいられるか、見物だな」
「アイリスの腕なら一般人なんか寄せ付けないよ。まずは、あんたを対象に警戒しなきゃならなくなった。彼女を美人だと言う男は全員敵だ」
「それじゃここにいる奴は皆んな敵だぞ?お前も大変だな」
「…………チッ」
舌打ちしたカイは無駄に自身の魅力を振り撒き続けるアイリスを見つめ、眉間に深い深い皺を刻んだ。