9-1 運命の絆
「そう。じゃあ、人魚の生態についてはほとんどアイリスに教わったの?」
「あぁ、恐らくは。できれば他にも何かあるなら知っておきたい」
「それで僕に聞いてきたんだ?すっかり旦那さん気分だねぇ」
「……そうなりたいと思っている」
頬をほんのりと朱に染めたアステルを見て、カイは忌々しさに舌打ちしそうになる。わずかに動いた顔の筋肉を元に戻し、柔和な空気を保った。
「隊長はパナシア様を見限ったの?」
「いや、そうではない。パナシアとアイリスは別の部屋を俺の中に持ってるんだって気づいた」
「別の部屋……」
「あぁ。愛情というものは形のないものだ、自分で認識するまでに時間がかかる。だが、形ではなくそもそも作りが違うんだ」
「へぇ、じゃあ妹への愛とアイリスへの愛は別だって自覚したんだ?」
「そうだな。しかし……先行きは困難を極めている。アイリスはオレのことが好きだが、神のような扱いだ。オレはただの人なのにな」
「そうだね、そうあってほしいと思ってるよ。教えてあげられる範囲だとしても、僕がアイリスが伝えた情報以上のものを伝えたら良くない気がするなぁ」
「そうか……」
「うん、うちのお姫様ははちゃんと色々考えていると思うよ。だから伝えないこともある……『隊長が生き残ったら、最期まで見届けたい』って小さな頃からずっと言っていたから、期待していいんじゃない?」
「今後も縁が切れるようなことはない、ということで合ってるか?」
「アイリスの望みなんて、彼女を知っている誰もがわかってる。隊長もそうでしょう?僕も敵に塩を送るほど親切じゃないんだけど。
……まぁ、誕生日に関してはありがとうって言っておくよ。個人的なお祝いは彼女にとって初めてのことだから」
「わかった。すまない、無神経で」
「いいよ、必死になってる隊長を見ていると気分がいいからね」
「やれやれ、いい性格だな」
「お褒めの言葉ありがとう」
破顔したアステルは「また相談させてくれ」と言って部屋を出ていく。暫くして、カイは机の上にあるものを全て落とした。落下で派手な音を立てるものは置いていない。カーペットに着地した分厚い本や紙切れ達は、室内の埃を舞い散らせて日の光を拡散させた。
(アイリスが隊長に話したのは、本当に人魚の秘密漏洩を許せるギリギリのラインだ。でも、どうしてそれを教えたの?
まさか、アステルと本当に夫婦になるつもり?)
胸の鼓動が速くなり、手に汗が滲む。彼は今まで幾度となく繰り返した通り、雫で自分の焦りを握りつぶして机に叩きつける。
(大丈夫、アイリスは結婚なんかしない。じゃなきゃ……最大の秘密を真っ先に教えたはず。大丈夫、まだ、大丈夫だ)
自分にそう言い聞かせ、彼は床に落ちた本を拾い上げた。昨晩から何度も書き直した紙は……アイリスに関する報告書だ。つらつらと長く連ねた言葉たちには、なんの意味もないごまかしだけが浮かんでいる。
これも、いつまで続けられるかはわからない。
「〝Happily ever after〟にはできないんだよ、隊長。僕の呪われた責務がそうさせてはくれないんだ」
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「人魚の生態……こんな本があるの?」
「王国の生と死を担う我々影の者にしか伝えられない伝書だ。新しい仲間が現れた時に書かれて、そして消される」
「いちいち書いてるの?こんなにたくさんの文字を」
「そうだよ、新しい影。君はアイリス・セレスティアルの生死を担う。
……ぜったい漏らしてはいけない秘密を知った者、漏らした者はお前が消すんだ」
カイは自分の小さな手のひらを握り、そして開く。その白い肌はすでに血塗られている。
仕事の全てを教え込んだ長は少しだけ悲しげな顔して、部屋を出ていった。
カイが手にしたばかりの分厚い冊子は、安い紙が使われている。海中の中で暮らす人魚の世界では、防水加工の紙が使われる。それを施していないということは長年保存する必要がないという事だ。
天涯孤独な生まれで影の一族に迎えられた人魚『カイ』は明日会うはずの主君である『アイリス』の名を口にして眉を顰める。
海神の直系子孫である王族の末端、20番目の王女。それはきっと自分が経験してきたような凄惨など知らぬまま、愛されて育ったのだろう。
穏やかな治世を敷く王族は、家族仲も良好のはずだ。だが、こうして一人一人の血族に対して《保険》を用意されている。
王族といえど一歩間違えば殺されるのだ。その秘密を守る一族『影の者』は王族の世話役として仕え、生死を握らされる。
影の一族に選ばれるのは、特殊な神聖力を持つものばかり。血の繋がりはなく、家族もいない人魚ばかりで絆を持たない。
何も持たない人魚が主君の『暗殺者』としてそばに置かれる……こんな異常なしきたりは、1000年以上続く歴史の中で確かに受け継がれていた。
「こんな役割が欲しかったわけじゃない。僕はどうしていつもツイてないの?生まれてからずっと死が傍にあったのに、見たこともないお姫様を殺すかもしれない仕事なんて……面倒臭いよ」
彼は独りごちて、本のページを開く。長から与えられた時間は明朝まで。それまでに本の内容を全て暗記し、自分の生殺与奪を与える王族の元へ行かなければならない。
それでも、彼は好奇心が抑えられなかった。愛されて育った姫君は、一体どんな人魚なのだろうか、と。
「はじめまして!カイ!私を殺すのは苦労するわよ!」
「…………」
「どうしたの?ぼーっとして」
「…………」
目の前で輝かしい笑顔をうかべた姫君は、手を差し伸べている。いくら〝側付き〟と紹介されたからって、こんな風に影の者に接する王族はいない。
長は王から姿を見せるなと言われているし、他の一族もみな倦厭されているのは確かだった。一族の名の通り王族の影となり、それを見張る役割を持つ仲間たちは全員姿をくらますのがうまかった。
「随分能天気だね?僕は君の命を奪うかもしれないんだよ」
「そんなの、ちゃんと分かってるわ。私が王族の秘密を漏らしたらカイが粛清?するんでしょう?」
「それなら僕と握手する必要は無いでしょ」
「どうして?これからずっと一緒にいるのなら、仲良くなる必要があると思うの」
「…………」
カイの手を強引に握り『よろしくね』と満面の笑みをうかべたアイリスは、そのまま広場の端へ泳ぐ。
発達した筋肉は子供と思わせないほど鍛えられている。抵抗しても無駄だと知った彼は大人しく従った。
神の血筋である王族は生まれてからすぐに智慧を得る。小さな姿だからといって侮れないとは知っていたが、握った手のひらからは硬いマメの感触が伝わっていた。
確かに、殺すのは苦労しそうだ。
「私ね、秘密基地を持ってるのよ!そのうちに連れて行ってあげる」
「へぇ、別荘でもあるの?確かに王族には与えられる、って聞いたことあるけど」
「違うわ!私だけが知っている、私だけの秘密の場所よ。カイには教えてあげるね!」
「……うん」
「今日は渡魚が沢山見えるの。知ってる?」
「あぁ、潮の流れが変わる日だからね。月の満ち欠けに由来しているんだ」
「そうなの!さすがね……カイは色んなことを知ってるんでしょう?」
「うん、多分」
「暗殺についてもエキスパートなのよね?」
「…………」
物騒なことを口にした姫は、真剣な眼差しで彼を見つめた。どうしてそんな目で自分を見るのかは分からない。カイは、煌めく回遊魚を背負ったアイリスの深い青に囚われる。
「私には夢がある。20番目に生まれたのはとっても幸せだわ。だって、その夢を叶えるための自由があるんだもの」
「20番目に生まれた君が、家族から放置されてるのはここに来て知ったよ。幸運だなんて本気で思っているの?」
アイリスに面会する前に王城の中を一通りしらべ、得た情報には彼女が言う『幸運』など存在しなかった。家族があまりにも多い王は20番目の王女に対して執着はなく、姉妹同士で仲が良いとはいえ、お互いが顔を合わせて食事をとることも無い。
果たしてこれが家族と言えるのだろうか、とカイは王族のあり方について疑問を持つほどだった。本物の家族を知らない彼にでさえそう思わせる王宮は、血族の住まうあたたかな場所には思えなかった。
――彼女に自由があるとすれば、それは期待されていないからだ。
「私は後継にならなくていいのよ?居なくなっても誰も困らないでしょう。とっても自由だと思うわ、一番目のお姉様は大変そうだけど」
「……そうだね」
「でも、自由だから夢を叶えられる。これが幸運じゃなくてなんだと思う?
それから、生殺与奪を生業としているあなたがそばに居てくれる。その技術を、私に教えて欲しいの」
「なにそれ……暗殺でもしたいの?」
「えぇ、正しく言えば守りたい人がいるのよ」
「……誰?」
アイリスは真剣な表情のままカイの両手を握り、瞼を閉じる。頬と耳を赤く染め、小さなため息を落とした少女は驚く程大人の顔をしていた。
「私の、大切な大切な人。全部をすくい上げて、生かしてくださった方よ。
私の命は、あの方のために捧げたい」
「何、それ……どうしてそんなこと言うの?アイリスは長生きするつもりは無いってこと?」
「いいえ、出来れば長生きしたいわ。でも、私の一生はその人のためにある。
他の誰にもそれは覆せないの」
「…………だから、それって誰なの?僕のアイリスにそんなふうに思わせたのは」
自分の口からまろびでた言葉にカイは驚く。
彼はアイリスがどんなに寂しい王女なのか、必要とされない子なのかを知ってしまった。
冷遇されていないとはいえ……いないかのように扱われている姫君に対して、妙な親近感が湧いていたのは事実だった。しかし、こんな風に思っていた自覚はなかった。
白い髪を潮流にたなびかせ、彼女は瞬く。海底に届く柔らかい陽の光は彼女の白い全身を輝かせ、カイは小さなその姿がまるで女神のようだと思った。
一目惚れといえば簡単だったが、彼自身はそれを認めたくなかった。彼女が道を間違えた時、その命を奪う運命である自分が――そんな気持ちを抱くのはとても危険なことだったから。
「そうね、この国を出るまではカイのアイリスでいてあげる。だからあなたは私のカイでいてね。
あなたの運命はあなたのもので、私のものではないけれど。……ちょっと、寂しかったの」
「そう。それで?さっきの話をはぐらかす気なの?」
「うふふ、そのうちわかるわ。秘密基地に行ったら教えてあげる。だから、あの……仲良くしてくれるでしょう?私たちは、これからずっと一緒なんだもの」
「本当に僕と仲良くしたいの?他の王族みたいに隠したいと思わないの?」
「思わない。私、カイが来るのをずっと待ってたの。これからは一人でご飯を食べなくて済むし、怖いお話を見たあとにおトイレに行けなくなることもないし、寂しくて泣きながら起きることもないんだもの」
「まさか、僕と一緒に寝るつもり?」
「うん。怖い夢を見たら、手を握って欲しいって言ったら……いや?」
「いやじゃ、ないけど」
初めて会った瞬間からこんな風に人懐こいなんて、信じられない。側仕えの女官や給仕たちにもここまで親しげにしていなかったのに。
カイは戸惑いながらも、彼女から目が反らせない。暖かな意思で、こんなふうに柔らかい眼差しを貰ったのは初めてのことだった。
「寂しくなったら抱きしめあって、泣きたくなったら肩を貸して、喧嘩をしてもちゃんと仲直りして、家族みたいにしたいわ」
「アイリスは、そうしてくれるの?」
「もちろんよ!カイが悲しい時は一緒に泣いて、楽しい時は一緒に笑って、美味しいものは取り合いしましょう!」
「食いしん坊なんだね、君は」
「えへへ、実はそう。ご飯も足りないから狩りにも行くわ。
一人で食べるからあんまり食べた気もしないし、美味しいけど……いつも足りないの」
見目麗しく、真珠姫として民衆に愛される幼き姫はその名に反してお転婆のようだ。そして、この年で叶えたい夢に向かって真っ直ぐに進もうとしている。
大人びているかと思いきや、人の温もりに飢えて甘えてくる。純真で愛くるしい彼女に惹かれない理由がない。
アイリスは今、カイだけに心を開いていると言うことに胸がときめくのを抑えられなかった。今まで欲しいとさえ思わなかった、どんなものかさえ知らなかった人の温もり。
それを与えられるのだと知って、拒否できるほど彼もまた、大人ではなかったから。
毎日を共にすごし、お互いだけの存在が確かなものとして積み重ねられていく。寂しかった二人はようやく得た温もりを分け合う存在になれても、唯一になり得ないのだと気づく。
命をかけて誰かを守りたいと願い続ける真珠姫は、温かさをくれる一方でカイに餓えと渇きをもたらした。
それでも、彼は彼女の手を離せない。
あたたかな布にくるまれたある日の晩に、アイリスは夢現で囁く。
「カイ、あったかいね」
「うん」
「あなたが一緒だと寝るのが怖くない。寂しい気持ちがどこかに行って、幸せな気持ちになるわ」
「うん……」
「私たちが出逢うのが運命だったら素敵ね。ずっとずっと、こんな風に誰かと一緒に眠って見たいって思ってたから」
「…………うん」
「カイに会えて本当に嬉しい。生まれてきてくれてありがとう……」
「……っ、」
小さく柔らかい手のひらが自分の頬を撫で、掠れた笑い声を上げる。
カイは胸の内を震わせながら、柔らかくて小さく暖かい主を抱きしめる。そして、自分の魂を完全に捉えた彼女を朝が来るまで見つめ続けた。




