2-1 真珠姫
「アイリス!アイリス・セレスティアル!!」
「おほっ!母上ガチおこですわね。三十六計逃にげるに如しかず、とんずらと参りましょう」
ぷくぷくと海中に浮かび上がる気泡、海面から差し込む柔らかい光の中で白い鱗が煌めく。
彼女は白い長髪を揺らしながら、しなやかに水を掻く。うら若き乙女らしからぬ言葉を吐いて、海中の城を抜け出した。
色とりどりのサンゴ、イソギンチャクの林を抜けて……やがて橙色の海藻森に辿り着く。
薄桃色の唇を形よく上げ、母の悋気から逃げおおせたことに微笑んだ。
いつものように自分のエクボを人差し指で突きつつ『ムフフ』と声をあげ、さらに森の奥へ。そこには秘密基地がある。
沈没船を丸ごと改装した基地は中に入れば壁を白く塗られ、お手製の絵画たちに囲まれたアトリエだ。
壁に飾られた絵達ははまるで写真のように精巧で、息づくような美麗な男性が映し出されていた。
端正で中性的・透明感のある肌感。びっしりと生え揃ったまつ毛が影を落とし目元に憂いを帯びている。
瞳の澄んだ色は光の加減で紫を帯び、感情を湛えて語っているようだ。鼻筋は真っすぐに通り、優しさを滲ませる唇は穏やかに結ばれている。
さらりとした質感の髪はアッシュブラウン寄りの黒で前髪が額に自然にかかっている。全体の印象は静かで純粋で儚い少年像と言えるだろう。
「おはようございます、アステル様。アイリス・セレスティアルがご挨拶にまいりました」
沈没船の最奥にある船倉、そこは壁面が全て彼女によって描かれた彼――『アステル』の肖像画のみで埋め尽くされている。時々気まぐれに愛らしい花藻や、綺麗な貝殻たちも隙間に掲げられていたものの……どう見てもストーカーの『推し部屋』のような狂気に満ちた様相だ。
真正面に飾られた一際大きな肖像画にぺこり、と頭を下げたアイリスは頰を朱に染めながら額縁の横に腰掛ける。
自分の真っ白な髪を指先でくるくると弄び、気味の悪い声で笑った
「デュフッ、昨日はよく眠れまして?私は眠れませんでしたわ。だって、今日はあなたの支配する聖女守護隊の合否が発表されるんですもの」
水色のビスチェに施された繊細なレースを、艶やかな指がなぞる。爪先まで美しく磨き上げられたそれは生来のくせを忠実に実行していた。
自分の下半身にある鱗を突き、いまだに慣れない尾の水掻きを広げる。
「筆記は満点をいただけると思いますが、面接は微妙ですわね。つい、出てしまうんです……前世の言葉が」
ほぅ、とため息が吐かれた動作に合わせて泡が生まれ、海底から海面へと登っていく。
彼女『アイリス・セレスティアル』は人魚姫。海底にある『青の王国』に生まれた王位継承権第20位の末席王女だ。
肌も鱗も純白で、その容姿は海の奇跡と呼ばれる珍しい色の持ち主。
人魚は愛を知ると、その涙が真珠となる。彼女の艶やかなその白さは〝愛の涙〟を象徴するとされ、〝真珠姫〟の名で呼ばれていた。
生粋の王城育ち、勉学に秀で武器の扱いについては他に追随を許さない。そんな人魚姫のアイリスは、そう――。
「チッ。こっちの世界ではネットがないのが難点よね。齢80過ぎたおばあちゃんがこんな小娘になってるなんて自分でも信じられませんもの。今時の若者の好みがわからないのは問題だわ」
そう言って、古ぼけた手鏡を握りしめすっかり変わってしまった自分の姿を眺める。
「顔が小さいわねぇ、どうしていくら食べても太らないの?エクボが可愛いわ。唇の桜色は色素が薄いから?やはりアルビノって事になるのかしら。
髪の毛はふわふわで柔らかいし、目がぱっちりしているし。どこからどう見ても美人よね」
「ツルツルのお肌だし、可愛い系にもクール系にもなれるってどんな血筋?あぁ、そうだった。青の王国を1千年に渡っておさめてきた、生粋の海神の血筋だったわ」
「それにしても可愛いわ。こんなにかわいいんだもの、モテて当然よね。でも、あなたはこの先……家族を持つことはできないの。私なんかが転生してしまったがために。本当にごめんなさい、愛らしいアイリス」
伸びやかなまろい声色は、小魚たちが聞き惚れるほどに透き通って美しい。だが、それが紡ぐ言葉たちは不穏なものばかりだ。
彼女は異世界からの転生者、そう……元々はこの世界にあるべき命ではない。
前世で寿命を全うし、瞼を閉じて開けたらそこは海の世界だった。海神と言われる海をすべる神様の末裔が支配する青の国の姫君になっていたなんて。
物語にはよくある設定で、見慣れたパターンではあるけれど。
しかし……老女の知識を持って異世界転生を成し遂げた彼女が、型枠に嵌められることはない。
『可愛いのに、なんて不憫なのかしら』と彼女はため息を落とす。代わりに鏡の中の〝アイリス〟に向かって思いつく限りの褒め言葉を伝え続けた。
「あ、やっぱりここにいた。
また自分の容姿を褒め称えてるの?ナルシス姫」
「カイ!?もう見つかってしまったのね……ナルシストではないのよ、私はアイリスを褒めているの」
怪訝な顔つきで部屋に侵入してきたのは彼女のおつきのマーマンだ。召使としてではなく、アイリスにとっては幼馴染の友人だった。
元々身分差もなく自由奔放な異世界で暮らした記憶のある彼女には、彼をかしづかせる気など毛頭ない。
カイは深い青の鱗を煌めかせながら壁にかかった数々の肖像画を睨みつけ、彼女の隣に腰掛けた。
「本当によくわからないよ、君の設定は。自分は異世界から転生してきた人間で、前世の記憶があって、ここは乙女ゲームの世界だったっけ?本の読みすぎじゃないの?」
「本当のことなのだから仕方ないわ。身の回りにお顔が綺麗な人ばっかりいるんだもの、ここが普通じゃないことくらいすぐにわかります」
「はぁ……人魚はみんな顔が綺麗でしょ。僕も含めてね」
「あなたこそナルシストではないの?まぁ、確かに綺麗なお顔をしてますけれど」
カイは彼女の言葉に微笑み、頬を僅かに赤くする。生まれてすぐにアイリスに仕え、妄想に付き合ってきた彼は実の兄妹のように彼女を大切に思い……そして、友情以上の感情を抱えていた。
人魚は青の王国に住まう唯一の種族で、海中に住んではいるものの、陸地に上がれば2本の足を自然と得ることができる。
それは不可思議な世界の設定であり、決まり事だ。一生陸地で生きるためには伴侶を得なければならないけれど。
逆に、陸地の人類は海底に潜ることはできない。そのためどこの国からも侵略を受けることなく海を支配する人魚の国は大変平和だった。
「また変な武器がお部屋に届いていたよ。こんな平和な人魚の国で一体いくつ暗器を持つつもりなの?」
「それは、これから必要になるからよ」
「まさか預言者の力でも目覚めたの?それで、この国に争いが齎されるって予言するつもり?」
「違うわ。青の国は永久に平和なままよ。あなたも、私の家族もみんなきっと天寿をまっとうできます。
外交も上手だし敵もいないでしょう?」
「外交なんて見てきたのかい?」
「いいえ、帳簿を見ればわかるわ。魚の流通なんて独占してもよさそうなのに、他者と利益を分け合っている。恨みを買わないようにして、平和構築を成している」
「……本当に、君は本当に20歳なの?古めかしい言葉を喋るし、こんなに早熟なお姫様は見たことがないんだけど」
「おほん。そ、それで、カイは何をしに来たの?私を母上の元へ連れ戻すつもり?」
カイは彼女の手を取り、その上に桜貝を置く。綺麗な貝殻を見つけては彼女にプレゼントしている彼の遠回しな告白はもう十年来続けられてきた儀式だ。
しかし、人魚の風習を真面目に学ばなかったアイリスにはこの気持ちは届かない。
カイはそれを知っていてもなお、こうして彼女に思いを伝え続けていた。
「綺麗な貝を見つけたからね。それから……」
「いつもありがとう。……それから?」
「うーん。素直に伝えようか迷うなぁ。僕は王妃さまのご機嫌をとって、姫さまの危機を防いだんだけど……ご褒美をまだもらっていないんだ」
「まぁ……それはご褒美をあげなきゃいけないわね?ふふ」
驚いたように唇を指先で抑え、アイリスは静かに微笑む。愛おしいその人の笑顔を眺めたカイは自分の胸がきゅうっと縮まる音を聞いた。
彼女は決してカイを責めたり貶めない。どんなわがままも、どんな理不尽も受け止めてくれる。まるで、母のように。
齢20を数えた彼女はまだ若い。だが、アイリスの中身はすでに『前世で80年』、『今世で20年』合計で百年生きている。それを教えられても理解できずにいたカイは、彼女を恨めしげに睨め付けた。
「さっき僕がカッコいいって言ったよね?」
「え?そうは言っていないわ、私は綺麗って……」
「カッコいいにして」
「わかりました。カイはかっこいいわ」
「どんな風に?アイリスがアイリスをいつも誉めているように、たくさんの言葉で表してくれない?それをご褒美として僕は望むよ」
「……ふむ…………」
細い顎先を摘み思案しながらカイの顔を見つめるアイリスの瞳は、海の色がそのままそこにあるようだ。
カイの鱗の色である深い青い色、それと同じ色を目に宿した彼女を見つめ返し、胸の内で激しくなる鼓動を感じた。
深海に染められた真珠姫の瞳は〝自分の色だ〟……〝運命の色を宿す二人はきっと結ばれる〟と彼は信じていた。
「あなたのお顔は……柔和と不穏が混じる美の境界線ね。輪郭すべてが滑らかで優しく暖かさが宿っている」
アイリスのとろけるような魅惑的な声が、独特な言葉でカイの容姿を紡いで形にしていく。
それは老齢の彼女ならではの語彙力。さらに終生ひとりで生きてきた彼女ならではの、羞恥を知らない加減のない言葉だ。
「あなたの瞳は光を吸い込むような深い海の色、ふとした瞬間に距離感を感じさせるような寂寥感と儚さが感じられるの。
唇は柔らかい色気が滲んでいて、喜怒哀楽に収まらないミステリアスな表情を浮かべるの。その曖昧で繊細な表情がミステリアスで幻想的、どこか切ない。優しさと虚無、微笑みと沈黙を常に湛えている」
「………………そう」
「それから、切れ長の目はとっても艶やかで流し目が特に、」
「も、もういい!十分だからやめて」
「そう?ご満足いただけたかしら?」
得意げに微笑むアイリスを見つめ、カイは彼女がわざとこんな風に言ったのだと気づく。生まれたのはカイの方が5年も早いのに、20になったばかりの彼女にはいつもしてやられていた。
「お顔が真っ赤よ、タコさんみたい」
「タコが赤くなるのは茹でた時だけだよ。……アイリス宛に封書が届いている。君が待ちかねていた通知だと思うけれど」
「えっ!?もう合格通知が来たの!?」
「合格かどうかは見てみないとわからないでしょ」
拗ねたように言うカイの態度から、それはもう『聖女守護隊合格通知』なのだと知らされた。
「私の優秀な付き人のあなたが検閲しないわけがないわ!嬉しい!!私もちゃんと見たいから、一緒に戻りましょう!」
「はぁ……わかりました。お祝い用のシャンパンを用意してあるよ」
「さすが私のカイ!ありがとう」
るんるんと鼻歌を歌いながら部屋を出た彼女を見送り、カイはドアに手をかけ、絵画の彼に今度こそはっきりと敵意を向けた。
「僕のアイリスをあなたには渡さないからね……『アステル』」
ドアが閉じ、そこに残されたのは……彼女が前世から愛していた、画面の中の彼だけだった。