5-2 矯正への布石
「そろそろ起きないか、アイリス」
「……?やけに良い声がしますわね……」
「お前はすぐそれを言うな、そんなにオレの声が好きか?」
時刻は早朝、あたりにはまだ陽の上らない青い空気が満ちている。鳥たちの囀りの中意識が浮上し、アイリスは瞼を上げた。
目の前には気だるげに生あくびをする男の姿がある。黒髪は柔らかく美しい顔を包み、後ろに残した長い髪が首筋に絡んでいた。
「おはよう。お前寝起きが悪いな、この前みたいに悲鳴を上げないのか?」
「ッッッきゃー!!!!!!!!」
「……あげたな」
絹を切り裂くような悲鳴をあげ、飛び上がったアイリスはベッドから転げ落ちる。お尻を打って眉を顰める彼女を見て、アステルは笑みを漏らした。
「な、なな、なっ」
「この前と全く同じ反応だぞ。研究者塔から戻った日も一緒に寝ただろ」
「なっ、な、何をおっしゃってるのですか!!あの日は『牢屋からその日のうちに出した』と言われたら困る、と仰っだからですわ!
ですから、仕方なく同じお布団で……」
「そうだ、今回も仕方ない。この部屋にはベッドが一台、長椅子もないからな。一人用の椅子じゃオレの身長はおさまらん」
「それはそうでしょうけども!身長190cm弱ございますから。
ではなくて!私を隊舎に戻せばいいじゃありませんか!」
「朝方にうるさくするのも問題だろう。兵たちは鍛錬で疲れている。
だいたい、アイリスが資料室で居眠りしたのが悪いんじゃないのか?」
「くっ!!」
「何をしても起きないものだから抱えるしかなかったし、この状況では寝入ったお前を放置するわけにもいかなかった」
顔を赤らめたアイリスはもう一度部屋を見渡し、再びハッとした。ベッドは一つしかないが、かなり大きく豪奢な天蓋まで付いている。さらにキャビネットやデスク、部屋の中にある様々なものは高級な調度品。
ここは、聖女の部屋だ。
「そうでした、昨日は……」
「ようやく思い出したか?昨日は『刺客が送り込まれる日かも知れない』とお前がぼやいていた当日だった」
「すみません、私がぼうっとしていたから運んでいただいたのですね!ありがとうございます」
「――くっ、はは!!」
豪奢なベッドの上でアステルは笑い転げ、アイリスは目を丸くしてしまった。
このところ、アステルは隊員たちが驚くほど笑顔を浮かべるようになった。
繊細なまつ毛に笑いの余波で生まれた雫を纏い、陽光の輝きの中で彼は瞬く。
「普通、そこは怒るところだ。『眠っている自分を身代わりにしようとしたのですね!』って言うんじゃないのか?」
「最初からそうすると決まっておりましたから、怒ることではありませんわ」
「まぁ、そうだな。身代わりを目指してやってきた刺客は全員捕縛済み、おかげで近衛はヘトヘトになって寝こけている。悲鳴が上がっても誰も駆けつけないくらいに」
「刺客を防げたのなら良いですが、それではお役目が全うできないでしょうに……」
「誰も来ないってのは語弊があるよ、お邪魔します」
「あら、カイ!」
ノックもなく部屋に入ってきたカイは、執事服を着ている。
淡いブルーのジャケット、アイロンがしっかりかけられた白いワイシャツとスラックス。履いているのは革靴だ。
「あなたはそのお洋服が一番似合うわ」
「どうもありがとう。そんなことより、さっさとご飯食べないと講義に遅れるよ」
「はっ!今何時ですの!?」
「ゾーイの講義まであと10分」
「きゃああぁ!もっと早く起こしてくださればいいのに!アワワワ、身支度しなければ……」
「アイリス、まずは食事を落ち着いてしたらどうだ?髪は、」
アステルがベッドサイドに置いてある櫛を手に取ろうとして、カイが一瞬早くそれを取り上げる。
苦笑いになったアステルは、ややしわが寄ったワイシャツを手で伸ばしながらベッドから起き上がった。
暖かいティーポットを持ち上げると、紅茶の良い香りが漂う。
「ああっ!アステル様!お茶は私がやりますから!」
「いいから、顔を洗って髪の毛を早くやってもらえ。ひどい寝癖だぞ」
「!!!!」
今度こそ真っ赤になったアイリスは飛び上がり、パタパタとバスルームに向かっていく。
静かにお茶を注ぎ、テーブルに食事を運んだアステルはソファーに腰掛けた。
「……カイ、そう睨むな。オレはアイリスを取ったりしない」
「別に睨んでません。本日の予定を読み上げますか」
「頼む」
長い足を組み、ソファーで紅茶を口にした彼は、今日の予定を読み上げるカイの声を聞きながら目を細めた。直ぐそばにある庭園を不思議な気持ちで眺める。
城に来て直ぐの頃、この小さな庭には何もなかった。硬くなった土を耕し、パナシアと二人で植えたハーブたちは小さな花を咲かせて風にそよいでいる。
あれは、全て元の家から持ってきた種子が芽生えたものだ。
――大切な人パナシアを、あの家にずうっと閉じ込めておきたかった。王城の迎えは、パナシアの家族とも言える近隣住民を人質に取り『城に上がらなければ殺す』と脅した。
彼は、それでも構わないと思った。大切な妹を守れるのならば、他の誰が死のうと関心がなかったのだ。
だが、妹は聖女であるという宣下を受け取り城に上がった。そこからずっと……パナシアの笑顔は何年も失われたままだった。
笑顔を取り戻せたのは、新しく副隊長になったアイリスの手柄だ。アステルが自分自身の不甲斐なさを思っていたところ、『落ち込んでいる暇があったら、聖女さまのために働いて下さいまし』と言われたのはいつだったろう。
彼女が副隊長になってからあっという間に新しい規律を作り、慣れない暮らしに塞ぎ込んでいたパナシアへ活力を与えた。
隊服を着てバスルームから戻ってきたアイリスは胸元からメモを取り出し、ぶつぶつ言いながら近づいてくる。
アステルが目を合わせるだけで顔を赤らめていた謎の異邦人は、驚くべき速さで身の回りの信頼を得て自身の地位を確定させた。
――力だけで無理矢理のし上がった自分とは大違いだな、とアステルは歪んだ笑いを口端に乗せた。
「カイ、聖女様はどうされてますの?」
「朝イチのラッパで起床して、朝の訓練を眺めて、アギアに囲まれて楽しそうにご飯を食べてたよ」
「そうですか、では私たちも早くご飯をいただきましょう!今日も忙しくなりますから」
「はいはい、そうしてください」
アイリスはアステルの向かいに座り、解き放ったままの髪が広がる。スルスルと肩を撫でた白の髪は寝癖を直そうとして水を使ったのか、濡れていた。
カイが当たり前のように彼女の髪を櫛でとかし、器用に編み始める。
耳の上から編まれた三つ編みはカチューシャのようにくるりと巻かれた。後ろの毛はそのまま遊ばせるようだ。
(あれを、パナシアがしたら可愛いだろう。)
髪の長さも背丈もほとんど同じ二人が同じ髪型で並んでいるのを思い浮かべたアステルは、柔らかく微笑んだ。
「なぁ、それはどうやって編むんだ?後で教えてくれるか」
「はぁ?」
「カイ、その反応は失礼でしょう」
「いいんだ。これはアギアに関係しない頼みだからな。……カイ、ダメか?」
「アアァァァァ……全くもう!僕は手のかかる主人を二人も抱えたく無いんですけど?」
「そんな事を言わずに教えてくれ。パナシアの髪を編む侍女はあまり変わった髪ができない。アイリスのようにしたら可愛いし、きっと喜ぶ」
「「………………」」
「なんだ?そんな顔して。変な事を言ったか?」
きょとんとした二人はやがて顔を見合わせ、微笑む。その様子は自分とパナシアを見ているようで、アステルは胸が締め付けられるように痛んだ。
もう、随分とあんなふうに屈託のない空気でいられる時間がなかったから。
「アステル隊長って、口を開けば聖女様のことばかりだね」
「そうですわね。でも、それでこそアステル様ですわ!てずから髪を編んで差し上げたいのでしょう?
私からもお願いします、カイ」
「仕方ないな。アイリスがそう言うなら」
「ありがとう。早速見せてくれ」
穏やかな朝食は終わり、アイリスの髪をモデルにしてカイが三つ編みの仕方をアステルに教える。
時々漏れ聞こえる優しい笑い声が、朝日に染まる廊下に響いていた。
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「――であるからして、神聖力は根源を『感情』……つまり人の心の動きにあるものとされる。
例えば喜怒哀楽といった単純な分類から――」
大きな黒板の前で白のチョークを握り、熱弁を振るうゾーイ。彼は身長が低いため台の上に登り、たくさんの文字を書いている。
真面目な顔を並ばせたアギア隊員達はそれぞれ眉を顰め、時には眉間を摘みながらメモを取ってその文字を紙に写した。
最前列でパナシアがメモの紙に突っ伏す勢いでペンを走らせ、ゾーイが喋るたびにうんうんと頷く。
その様子を最後尾で横並びに座った隊長と副隊長は静かに眺めていた。頬杖をつき、締まりのない表情で。
(聖女様のあの様子をご覧ください……愛らしいですわね!!)
(うん、だが髪は直した方が良かったのではないか)
(ご本人が『このままがいい』と仰ったのですよ!お兄様自ら編んでくださったから、と)
(そう、だな。だがカイのように上手くできなかった)
(大丈夫ですわ、何度も繰り返すうちに上手になれます。
いいですか、この事を口実にして毎朝お部屋に訪れて朝食をともになさってください。少しでもともにお過ごしになることがまずは第一目標です!)
(そうしよう。今朝ともに過ごしたアギアのもの達とはさらに仲を深めたようだ)
(リーチの差はまだあります。アステル様が聖女様と過ごされた日々は誰にも超えられませんから!)
(……アイリスは本当にオレの事を応援する気なのか)
アステルが伺うように上目遣いで彼女を見上げると、アイリスは目を逸らして顔を両手で覆ってしまう。
(至近距離起爆はおやめください、死んでしまいます)
(なんなんだそれは。オレの目つきで死ぬのか?)
(はい、あなた様の澄んだ瞳で……尚且つそのワンコ美貌で上目遣いをされたら、尊死待ったなしですわ)
(なんなんだそれは……)
ヒソヒソ会話する二人を見咎めたゾーイが黒板の前からチョークを弾く。アイリスの額に届く前にそれはアステルが受け止めた。
「オイ、そこの夫婦漫才いい加減にしろ!イチャイチャすんな!」
「なっ!?め、夫婦ではありません!イチャイチャもしてませんわ!」
「ハイハイ、じゃあワシが心を痛めた代償にアイリスに答えてもらおうかねぇ」
とんとん、と短い指がさし示したのは『神聖力のコントロール方法』と書かれた板書。アイリスは立ち上がり、背筋を伸ばす。
「神聖力のコントロールはイコール感情のコントロールです。喜怒哀楽はそれぞれ役割を持ち、その方の持つ特性を増幅または減少させます」
「喜怒哀楽の役割はわかるかぃ」
「ええ」
「じゃ、ここに書いて。ワシは腕が疲れたよぉ」
「あら……よろしいのかしら。では、」
アイリスが席を立ち、静かに歩んで黒板に近づく。足音を一切させないその足運びは優雅で美しく、アギアの隊員達は思わず見入ってしまう。
「――喜びと楽しみは正方向の増幅、怒哀は負方向の増幅です。
例えば好きな方がそばにいるならば、心が沸き立つでしょう?そうしますと正しい方向に力が働き、神聖力が増加いたします」
アステルは澱みなくチョークで言葉を記すアイリスを眺め、低く唸る。
ゾーイが行う講義にはアイリスが参加することは稀だ。それは、彼と同等の知識を持つ事を意味する。
黒の国でももちろんそうだが、各国でもここまで神聖力について知識のある者はいないだろう。
生まれ持った不思議な力を小さな頃から訓練して使えるのが慣習とはいえ、訓練所方法は確立されたものでは無かった。
感情のコントロールが出来たとしてもその作用まで理解し、そしてその力を振るうと言うのは誰しもができることではない。
神聖力の仕組みを知るのは彼女とゾーイだけであり、それを見出すにはゾーイを凌ぐ知識が必要だ。
アイリスの不思議な知識や見解は、アステルだけではなくアギアの誰もが驚くほど豊富で深く、彼女の年齢が二十だという事を忘れさせる。
そう、まるで――老齢の人間のような熟練した時を感じさせるのだ。
「感情のコントロールがうまくいっても、時たま溢れてしまう場合がございます。
それはうちなる神聖力の多さを示してもおりますが、発散できないと『暴走』を起こすのです」
「…………」
アイリスの視線は、パナシアと同じ並びに座ったテオーリア・ロゴスに向けられた。
(そうだな、テオは出身の赤の国で『慈悲を持つ暴走列車』と言われていた。施しを行う傍らで神聖力の暴走を起こし、誰かを傷つけた……今日のターゲットは彼か)
アイリスの視線を困惑の表情で受け止めたテオーリアは眼鏡を指先で直し、アイリスに向き直る。
アギアの一人一人の問題点を示し、そして改善していたアイリスは微笑み……そして今日のターゲットであるテオに鋭い視線を投げる。
「本日は都市水源の清めに向かう予定です。テオ、あなたに同行をお願いしますわ」
「……」
「ではそろそろ先生と交代しましょうか!ゾーイ」
「はいはいっと。んじゃ明日までに全員神聖力のコントロールについて、400字にまとめてねぇ。自分のやり方を細かく書いて……」
ゾーイの声を聞きながら、アステルは副隊長からの視線を受け取って頷く。
ゾーイとともに今までに無かったものを築き上げようとしている彼の腹心は、策謀家とは程遠い純粋な笑顔を浮かべた。




