1悪夢
――風がやわらかく頬を撫でる昼下がり。柔らかな木漏れ日の下、石畳の上に腰を下ろしていた美しく儚い男は……まるで風景の一部のように佇んでいた。
彼が光を受けるたび、漆黒の瞳は深い青紫に染まる。木漏れ日の明かりが溢れるたびにそれは輝き、儚げに揺れる。
整った鼻筋に影を落とす前髪は風にそよぎ、形の良い唇は引き結ばれて何も語らない。
彼の長い指が向かい合った彼女の頬に差し伸べられる。ためらいがちに動いた指は、やがて存在を確かめるように柔らかな曲線を優しく包み込み、甘い吐息がこぼれた。
「――――、」
名を呼ばれた彼女は瞬きをして、彼の言葉を待つ。包み込まれた頬は朱に染まり、彼の仕草にときめく乙女の表情を浮かばせていた。
「俺は、お前が好きだ。これから先の人生は、2人で生きていきたい」
「………………」
「返事をくれないか。……今更都合が良すぎるか?」
「……すわ」
「……ん?」
彼女の言葉を聞き取れなかった男は首を傾げ、不安そうな表情に変わる。目の前のその女性と両思いだと知っていても不安なのだ。
心から、愛してしまったから。
華奢で小さな彼女は、潤いを帯びた唇を開き、眉間に皺を寄せる。
そして勢いよく立ち上がり、叫んだ。
「――解釈違いですわッッッ!!!!!」
凛としたよく通る声が響いた直後、小気味のいい『すぱーん!!』と言う音が周囲に響き渡る。草葉の陰からその様子見守っていた騎士たちは跳ね上がり、肩を震わせた。
驚いた表情の男は小さな手形のついた自分の頬を抑え、やがて緩やかに微笑んだ――
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「っ!?はぁ、はぁ……」
畳に敷かれた薄い布団の上で目覚めた彼女は乱れた三つ編みの髪を握り、早鐘を打つ自分の胸を抑える。辺りを見渡して、自分が悪夢から目覚めたことに気づく。
目を開いても、そこには暗闇があるだけ。眠っていても起きていても視力を失った者はこの闇に見つめられ、また見つめ返すしかない。
深呼吸とともにため息をつき、布団から起き上がる。そして、枕元にある文机を手で探り当てて、スマートフォンを持ち上げた。
『すぅ、すぅ……』
「はぁ……よかった、乙女ゲームやってて。最推しの寝息最高、命が助かる」
彼女は盲た瞳を細め、満面の笑みを浮かべる。細い指先はスマートフォンに映し出された『彼』を撫でた。
画面の向こう側にしか存在しない、決して触れ合えない最愛の彼を。
「明日の大型アップデート、楽しみだけど容量足りるかしら……もうちょっと中身を整理したかったけど、流石に携帯ショップの方に恥を晒すのは避けたい」
しわがれた声がぽつりと漏れる。三つ編みにされた白髪、手のひらもシワが目立つ彼女はすでに老女と言える年齢だった。病を患い、光を失い、余生を送るばかりの日々を持て余している。
そんな中で、若かりし頃からしてきた『オタ活』だけが救いだった。
彼女が現在ハマっている乙女ゲームは、世間でも話題になっている人気作。ネットの海には膨大な情報がある。彼女は『同担拒否のガチ恋勢』故にネタバレは御法度だった。
SNS音痴で助かったとすら思える状況の中、一人きりで最期を迎えようとしている人間にとってはこれが唯一の寄る方だ。
「そろそろ夜が明けるわね。お掃除して、朝ごはん食べて、公式トゥイッターだけ見よう。ネタバレ踏みたくないし」
布団から起き上がり、何も見えないはずの彼女は迷いなく自宅を歩き回る。生活圏といえば小さな頃から住んでいた自宅と、生来の職である小さな神社の防人だけ。
友人もなく、家族もいない。もちろんその家族には夫や子供といったものも含まれる。
天涯孤独な彼女を唯一支えていたスマートフォンの中の『彼』はポケットの中で「おはよう」と囁いた。
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山の端に太陽が顔をのぞかせる早朝、青い空気に包まれた時間帯。
季節は梅雨が終わり、本格的な夏を迎えようとしていた。
風に揺れる木々の囁きに乗せてひぐらしの哀しげな鳴き声が響き、光に染まっていく世界。湿度の高い朝は気温も高く、例年よりも過ごしにくくなっている。
そんな中、頭にタオルを巻いて白髪をお団子に纏めた作務衣姿の彼女は木陰で休憩を取っていた。
防人をする小さな神社は小屋のような社、今にも朽ち果てそうな木製の鳥居だけを備えている。もちろん知名度もないため参拝者はいない。
一通り境内の掃除を終え、お手製の塩レモン水を豪快にあおり、プハーッと一息つく。そしてスマートフォンを抱え、ワクワクしながら乙女ゲームの公式snsを閲覧していた……はずだった。
指先で作務衣のはじについた紐をくりくりと丸めていた指が唐突に止まり、震え出す。
小さな耳に嵌ったイヤホンから流れるのは、sns掲示板の投稿を読み上げる音声。そして直後、理不尽にイヤホンが投げ捨てられた。
「ちぇーい!!ふざけんなし!ネタバレどころかリーク踏んだ!くっ……やめてくださいよぉ〜……ヤダヤダヤダー!!!」
頭を抱え、御神木に額をこすりつけたその人は涙を浮かべて太い幹に抱きついた。
「リークなんて誰が喜ぶの!?未公開の情報晒すな!私たちはそんなの求めてないの!!
公式様という最大手を出し抜いて情報流さないで!!」
〝リーク〟――それは、ゲーム業界だけでなくさまざまな情報世界に於いての問題だった。
公式の最新情報公開よりも先んじてネタバレを流すという極悪非道な行いをする輩は、もはや犯罪者だ。
そも企業内部にハッキングなどを仕掛けている時点で、正しく犯罪であるが。ゲームを愛するプレイヤー、正式な情報を享受する側にとっては『悪質なネタバレ』以外の何者でもない。
彼女の精神安定剤とも言える乙女ゲームのリークを踏み、本人はその苦しみに悶えていたが……そのうちに、本当に呼吸が苦しくなった。
「……アレ、やばい。何これ」
視界は歪み、天地がひっくり返ったかのような眩暈に襲われる。力なく横たわったその体は、上昇する気温に生きる力を奪われていく。
まともに開かなくなった瞼が完全に閉じ、痩せ細った顎から汗が滴り落ちる。
彼女は、本当の暗闇にその魂を沈めるしかなくなってしまった。
――死にたくない……まだ――
――だって、今度こそ……――
――最推しが死なないルートが!ようやく実装されるのに!!!!――
やがて訪れた灼熱の夏の昼、彼女は享年80歳でその命を終えた。
2025.07.05連載開始