友人と話をする
「ちょおっ――」
その腕を慌てて押さえ、レナルドが手袋を投げつけようとするのを、寸前で止める。
手袋を相手に投げつけるというのは、決闘の申し込みを意味する。名誉の問題になるし、勝っても負けても相打ちでも、大変好ましくない。
「ちょっと、何するつもり!」
声を低くしてたしなめると、レナルドからは、声量を控えながらもかなり怒気を含んだ返事があった。
「アリーヌの評判が台無しになるところだったんだぞ」
「いまさら、どうでもいいわよ。もう、行きましょう」
「そんなわけにいくか」
「レナルド!」
わたしが重ねると、少し冷静になったのか、レナルドが渋々うなずいた。
「……ああ、わかった」
何があったか詳細は不明ながらも、何かがあったと興奮している子爵夫人に挨拶をして、さっさと帰路につく。
馬車の中で、ああなった経緯をレナルドに尋問されるようにして話した。
「……そんなことが……」
「顔が怖いわよ、レナルド」
「ぼくがそばを離れなければよかった」
「化粧室まで来られないでしょ」
そう言うと、レナルドがわたしの両手を包むように握りこんだ。
「震えてる」
「あら、そう?」
自覚はなかったんだけど、さすがに、少し怖かったかしらね。
身長はさほど変わらなかったものの、体重はだいぶ違ったでしょうし、力は全然違ったもの。
たまたま運よく逃げられたから、よかったけど。
わたしがそんなふうに考えていると、レナルドが俯いた。
「ごめん」
「あなたのせいじゃないでしょ」
「ぼくのせいだよ。ぼくが、恋人のふりなんか頼んだからだ。今晩で終わりにしよう。今後については、明日、話し合おう」
「わかったわ」
「……アリーヌ、眠れそうかい?」
「え? ええ、もちろん、どうして?」
レナルドの質問の意図がわからず、わたしは首を傾げる。
「本当は、眠るまでそばにいたいくらいなんだよ」
「急にどうしちゃったの?」
さっきから、何を言っているのかわからない。
「……もし眠れないようなら、ホットミルクを飲むといい」
レナルドはそれだけ言って黙り込んでしまった。
「レナルド、あのね」
「ごめん、アリーヌ」
謝って欲しいわけじゃないんだけど、会話になりそうにないと諦めた。
「おやすみ。ホットミルクを飲むんだよ」
「もう。あなたは乳母なの?」
玄関まで送ってくれたあと、レナルドはわたしの額にそっとキスをした。
初めてされたような気がするけど、友人のキスに違いないわ。
お父様とお母様は、ふたりの共通の友人の晩餐会に出席していて、まだ帰っていない。
今日、同じ会場にいなくてよかったと、心の底から思う。
メイドに手伝ってもらって着替えをしているうちに、自分の手が冷たく震えていることに気づいた。
「お嬢様? お寒いのですか?」
「いえ、大丈夫よ」
レナルドの大きな手に包まれたことを思い出すと、震えはすうっと止まった。
それから、メイドに、ホットミルクを頼む。
少しだけ砂糖が入っているそれは、ほっとする味で、温まった体でベッドにもぐりこむ。
添い寝なんかされたら、まったく眠れなくなっただろう。
レナルドは責任を感じすぎているのかもしれない。明日、少し元気づけよう。彼はブルーベリーが好きだから、ブルーベリーパイを料理人に作ってもらうことにしよう。
そんなことを思いながら、わたしはたちまち眠りに落ちた。
来ると思っていたのに、翌日には薔薇の花だけが届き、数日待って欲しいというカードがついていた。
それならと思って、ベアトリスを訪ねる。
話がしたかったのと、どんなふうに噂になっているのか知りたかったからだ。
しかし、特に話題にもなっていないようだった。
お茶を飲みながら話を聞いたところ、ベアトリスの耳には、スメ男爵が客室で転んで擦り傷を負ったというふうに届いていた。
「ふうん。子爵夫人がそうまとめてくれたのかしら」
「スメ男爵は、わたしもよくは知らないけれど。ミュゼット嬢がデビューしてからずっと求婚していると聞いたことがあるわ」
ベアトリスの情報に、わたしは眉根を寄せる。
「そうなの? それなら、麗しの女神って、ミュゼット嬢のことなのね? じゃあ、何。わたしと結婚して、ミュゼット嬢の愛を得るってこと? どういう意味?」
「さあ?」
ふたりで首をひねるしかない。
「でも、無事でよかったわ。レナルド様の言うように、あなたの評判が台無しになるところだったのよ。どういうつもりだったにしても、スメ男爵は、なにがしかの罰を受けるべきだわ」
珍しく憤然とした様子を見せるベアトリスを、わたしはなだめる。
「もういいわ。それに評判なんてもう」
「わかっているわよね? 本当に、危険なところだったのよ」
「ご、ごめんなさい」
ベアトリスが泣きそうになっているので、申し訳なくなってしまった。
確かに、よく考えなくとも、貞操の危機ではあったのだ。
「でも、ほら、わたし、無事だったもの」
元気さを主張すると、ベアトリスは頬に手を当て苦笑する。
「前向きなのはいいけれど。ああ、もう。レナルド様が来てくれて、本当によかったわ」
「あ、えっと。――あなたには、やっぱり先に言っておくわね。わたしたちは恋人のふりをしていたのよ」
少し早いけど、ベアトリスにはすべて話した。
ふりはもう終わりだとレナルドも言っていたし、構わないだろう。
「本当の恋人同士に見えたわ」
「それなら、わたしたちの演技力もなかなかね」
「あのね、アリーヌ。わたしはあなたの親友で、なおかつ、わたしの目は節穴ではないのよ?」
ベアトリスの言葉に、がちゃんと、あるまじき音を立てて、わたしはカップを置いた。
「な、なんの話?」
「あなた、まだレナルド様を好いているでしょう?」
だって幼馴染だもの――と言うつもりだったのに。
「彼は、お淑やかな女性が好きなのよ。いまさら、わたしには無理だし、わたしは自分を変える気がないんだもの。仕方がないわ」
「アリーヌ」
「大丈夫! 平気よ!」
笑ってみせるわたしに、ベアトリスは真面目な表情を崩さない。
「わたしは、好きなひとと一緒になれて幸せよ。アリーヌ。あなたにもそうあって欲しいと願っているの」
「気持ちはうれしいし、そうであれば幸せでしょうけど」
「レナルド様は、ずっとあなたを見ているわ。気づいていなかったでしょう?」
「恋人のふりを、していたから」
ベアトリスは首を横に振った。
「その前から、ずっとよ。いつも目で追っているの。あなたはあえてレナルド様を見ないようにすることがあったから、わからなかったかもしれないけど」
「やめて、ベアトリス」
夢を見てしまう。希望を抱いてしまう。
「この恋はもう七年も前に終わったの。おばあさんになって、笑い話にするのよ。そのとき、一緒に笑って欲しいわ」
ベアトリスがそれ以上何か言い出す前に、わたしは口早に続けた。
「ウェディングドレスのデザインはもう決まったの? ブーケの花は?」
「――だいたいはね。でも、決めなくてはならないことが多くて、目がまわりそうなの」
ベアトリスは、わたしに合わせて、話を変えてくれた。
わたしは、マティアス様のことでベアトリスの背中を押したけれど、あのときのベアトリスもこんな気持ちだったのだろうか。
応援しようとしてくれているのはうれしい。でも、放っておいて欲しいとも思う。
自分勝手なことだと内心で苦笑した。
レナルドはそれからさらに四日後にやってきた。
今日はまた一段と隙のない装いで、このあとどこかへ行くのかもしれない。
惚れた欲目があるのはわかっているけど、本当に見栄えのいい紳士である。
中身も理想的に好ましいけど、友人だ。
来訪を告げられて一階の応接室へ向かったわたしは、階段をのぼってくるレナルドに問いかけた。
「レナルド? どうしたの、どこに行く気?」
「少し、待ってて。子爵と話をしてくるから」
「お父様と? 何? わたしも行きましょうか?」
お父様の書斎は三階にある。
わたしが向きを変えかけると、レナルドが軽く首を振った。
「ううん。あとで話すから。アリーヌは下で待ってて」
なんとなく表情が強張っていたみたいだけど、大丈夫かしら。
お父様になんの話――このあいだの夜会の告げ口?
いやいや。それは、ないわよ、ね?
あれ、世間では迂闊と言われる行動だったかもしれないけど、わたしは悪くないわよ、ね?
もんもんとして待っていると、応接室からも見える庭の一角にお茶の支度が整えられていく。
「え? 何、庭でお茶?」
我が家のタウンハウスは借り物ではなく、代々受け継がれてきたものだ。そして、小さいながらも庭がある。東屋を置けるほどではないので、必要に応じてテーブル等は準備する。
お天気もいいし、素敵だとは思うけど、誰の指示? お母様?
そう怪訝に思っていると、お母様が弾んだ足取り階段を降りてきて、顔を出した。
「アリーヌ! わたくしはお父様とお話があるから、あなた、レナルドとよくお話をしなさいね!」
お母様はそう言って、お父様の書斎を目指しているのか、降りてきたばかりの階段を上に向かっていく。
降りてくるレナルドとすれ違い様、ぽんぽん――というより、ばしばしとレナルドの腕を叩いていった。
何が起こっているの。
待って、本当に、レナルドがおかしな告げ口でもしたの?
外出禁止にでもなったらいやだわ、さすがに。
シュザンヌおば様のお見舞いはもちろん、アルバンへのお土産もまだ用意していないし、ベアトリスへの贈り物も探したい。そもそも、ずっと邸の中にいるなんて耐えられない。
恐ろしい想像をしながら、レナルドのエスコートで、用意された席に座る。
メイドたちも少し距離を置き、わたしとレナルドだけの空間が仕上がっていた。