好きな人
エノモトから休暇を与えられたその日、僕は自宅に帰り、荷物を置いて、仰向けで寝転がった。少し増えた天井のシミを数えながら、ぼーっとしていた。
休暇といっても、特にすることがない。一週間、寝続けることになるのか。僕は寝返りを打ちつつ、どうしようか悩んでいた。
もしかしたら、僕のこういう迷ってしまうところが良くないのかもしれない。
人生を歩む上で選択肢は無限に生まれ、道として目の前に現れる。どれが正解で、どれが不正解なのか、誰にも分からない。
こういう部分が良くないと感じた直後にこうやって新たに悩み始めるのが良くない。
…この一週間は答えを見つけることに使おう。一旦、外の空気でも吸いに行くか。
僕は重い体を起こし、上着を羽織って寒空の下へ身を投げ出した。
締め切られた部屋の空気と比べ、凍てつき、針のように喉に突き刺さる外の空気は少しだけ心地良い。何気なく過ごしている日常に舞い込んでくる非日常のような。あの時もこんなだったっけ。でも、今は成長してるよな。多分、少し、ちょっとくらい…
ポケットに手を突っ込み、吐く息を追いかけるように歩いていると、寂しそうに佇むベンチを見つけた。僕は寄り添うようにベンチに腰かけた。それと同時に、道路を挟んだ向かいにもベンチがあることに気づく。
今度はそのベンチから寂しさを感じると、立ち上がって向かおうとした。しかし、踏み出そうとした一歩は、元いた場所に戻され、結局、再び座らされることになった。
万物には命が宿る。僕の家系にはこの言葉が言い伝えられていた。このベンチもきっと、肌の温もりを欲していたのだろう。
姿勢を正して座り直すと、向かいにあったはずのベンチは姿を消していた。疲労のせいなのか、冬の精のせいなのか。どちらにせよ、二つのベンチへ同時に腰掛けることはできない。
「そうだ!」
白い息と共に、一人でに言葉が飛び出てきた。
僕はベンチの力ではなく、誰かに引っ張られて、再び座る羽目になった。驚きのあまり、掴まれていた手を離してからその方を見ると、なぜかそこにはアオキがいた。
「何か思いついたの?」
「あ、いや、些細なことです」
「教えてほしいなぁ」
「アオキさんはどうしてここに?」
アオキは両手を太腿に挟みながら座っている。
「ベンチが寂しそうにしてたから」
自分と同じことを考えていたことに対して、驚きと嬉しさが入り混じる。
「ユイ君は?」
「悩み事で、外の空気を吸いにここへ」
後出しで同じことを言ってしまえば、それは好みであることの証明になってしまうことを恐れた僕は、本来の目的であったものを伝えた。
「それは、言いたくないこと?」
僕は必死に言葉を探す。
「私にも言えないこと?」
「…はい。僕自身で見つけて、身につけないといけないので」
相談してしまえば、せっかくたどり着いた答えに逆行してしまうと考えた僕はアオキに打ち明けることはできなかった。
「いつか話してくれるといいな。私はいつでもユイ君のこと見てるから、ちょっとは力になれると思うよ。だから、気軽に話してほしいな」
アオキは立ち上がって、腰を伸ばし、ベンチを軽く撫でた。
「このベンチは私とユイ君が座ったベンチだし、殺人にもそれぞれ名前があるし、私やユイ君に名前がある。種類は同じだけど、名前はそれぞれにあって、同じように見えて、全く同じものはこの世のどこにもないんだよ」
アオキは僕に優しく、柔らかく微笑んだ。
「何かの役に立ててね」
アオキは僕に手を振って、両手を温めながら帰っていく。
僕は新たな自分を見つけるため、たどり着いた答えを自分のものにするため、一歩を踏み出した。
「アオキさん!」
僕はいきなり立ち上がって、吐く息で顔を白く染めながら、アオキを呼び止めた。
僕の声にアオキは手を温めながら振り向く。上目遣いで見つめてくる姿に見惚れてしまい、言おうとしていたことを忘れ、僕たちの間に冷たい空気が流れる。
「どうかした?」
何も言ってこない、立ち尽くしたままの僕に対して、アオキが声をかけた。
「週末!空いてますか!」
アオキは驚きつつも、最大限の嬉しさを抑え込むように、膨らませた頬に閉じ込めた。
「もう、埋まっちゃいそうだったんだからね」
閉じ込められていた嬉しさを放出するように、僕に返答した。
「当日、金時計の下で待ってるから」
アオキは振り返って、腕を大きく振りながら歩いていった。
僕は言い切った反動で体の力が抜けてしまい、再びベンチ腰掛けた。そんな僕をベンチは優しく受け止めてくれた。
これが変わるための第一歩。
そう、二つ目の選択肢が生まれる前に決断しよう作戦!
選択肢で迷ってしまうのであれば、択が生まれる前に決行してしまおう、というものだ。結果はどうあれ、悩んでいる時間は無駄である。時間は有限なのだから。
トロッコ問題でも同じ。選択肢を提示され、その中から選ぼうとするからいけないのだ。それに、どちらかを助け、どちらかを見殺しにしないといけない状況なのがおかしい。そんなの、轢き殺そうとしているトロッコを止めれば済む話だ。結論、この話に答えはない。提示された択で答えられないのだから。
僕の新たな一歩は順調な兆しを見せた。
乾燥した喉を、針のように突き刺すように冬の空気がいじめてきた。




