トロッコ問題
「ユイ、書類の整理終わったら、さっき見せたところの巡回よろしく」
上司のヒビノに言われた。僕は元気の良い返事で返した。新人だから。新人はフレッシュさを出さないといけないらしい。求められているかららしいが、よくわかっていない。
今年の春から、警視庁刑事部第五課に配属されることになった。それから半年が経過し、ようやく外に出られるよう仕事を頼まれた。
今までは、座学や事務仕事、上司の手伝いが主な仕事だったが、これからは巡回が根幹になるらしい。
気持ちは高鳴るが、不安も少なからず抱きながら、残りの書類をまとめていた。
第五課は数年前に組織された、殺人を取り締まるための部署だ。殺人とは、人を殺すことに快楽を覚える人種のことである。それだけなら、新たに課を組織する必要はないのだが、殺人にはとある特徴が発見された。殺人はそうなったきっかけを特殊能力として会得するらしい。火災が絡めば炎を、刺殺なら刃物を、恋愛が関われば愛を、人を殺すのに使うのだ。
殺人になったきっかけがあるということは、言い換えれば、元は僕らと同じ一般の人間だったということだ。密かに研究されているらしいが、新人の僕には深くまで知る由もない。座学でも、殺人に関しては世間一般的な知識しか教えられなかった。
書類をまとめ終わり、指定の場所に提出してから、巡回の準備を始めた。ジャケットを羽織り、諸々必要なものを身につける。
「そこらは安全な方だし、住民ももう半分くらい引っ越してるから、大丈夫だと思うけど。何かあったらすぐ連絡するように」
僕は部署中に響き渡るくらい大きな声で返事をした。
ヒビノに言われた通り、ユイの巡回地区であるミントン地区はかなり安全な場所であった。殺人は人間がいなければ、出現することはないからだ。ミントン地区に残っているのは、身寄りのない高齢者か、貧困の家庭のみである。
初めての巡回である上に、警察になった動機からも、高揚感に加えて僕の闘志は燃えていた。
本当にようやくだ。ようやく、目的のために一歩を踏み出せる。
と、意気込んだはいいものの、あまりの安全さに集中力を欠いていた。30分歩いても、すれ違ったのはたったの三人。どれも高齢の女性。会釈して、その場を後にしたものの、ここまで平和すぎると、入っていたはずの気合いも逃げていってしまう。
車通りも少ないし、引っ越してそのままの家屋ばかりだし。見慣れない街でも、見慣れた街とそう風景は変わらない。
僕は耐えきれず、大きな欠伸をすると、背後に人の気配を感じた。すぐに振り返ろうとするも、頭を掴まれ、首を回せなくさせられた。
「そのまま聞いてくレ。君に問題の答えを聞きたイ」
返事を待たずして、そいつは喋り出す。
「君の大切な人一人ト、赤の他人千人を異なるレーンに貼り付ケ、トロッコを発進させル。君の前にはレバーがあル。どちらを助けるカ。という問題に答えがあるかどうかを問ウ」
この問題は聞いたことがあった。トロッコ問題というやつだ。しかし、答えなんて人それぞれだろう。これという答えはないだろう。
そう頭でわかっていても、この恐怖に包まれた状況で、うまく言葉が出ない。答えがあるかどうかを問われているため、答えはノーだ。
「答えはノーであるカ。そうか、君はそちら側の人種であるカ。君とはまた会えるような気がすル。その時までに答えが変わらないことを願ウ」
言い切ると同時に、恐怖が消え、頭が軽くなった。固まった首を上下左右に振っていると、足元に細長いものが飛んできた。
最初に頭に浮かんできたものを、脳は信じようとはしなかった。だが、徐々にそれがそれであると認識し始めると、額から汗が噴き出てきていた。
人間の腕だった。
まだ動いている。ということは、切られたばかりの腕だということだ。
日常に非日常が転がり込んでくると、人間は信じられないため、パニックにすら陥らない。僕は平然と腕を見つめた。
段々と血の匂いが鼻腔をくすぐり始めると、脳は目の前の光景が現実であると判別する。
全身を冷や汗が襲い、呼吸もうまくできなくなる。
そうだ。報告しなきゃ。
なんとか、この不可思議な現状を報告しなくては、という考えに至った。しかし、震える手で取り出した携帯電話は手から離れ、宙を舞い、地面に落ちた。急いでしゃがみ込み、拾おうとしたのだが…
「助けテ」
その時、声が聞こえてきた。その方を見ると、殺人が殺人を襲っていた。僕にとって、その光景は強烈だった。自分が何をすべきか考えることすらできなかった。
ただ、見ているだけしかできない僕の携帯電話が着信音を鳴らす。その音が聞こえたのか、一方的に切り裂いていた殺人がこちらを見てきた。
必死に音を止めようとするも、震えた手ではできなかった。こちらに向かって、ゆっくりと殺人が向かってくる。
やばい、どうしよう、逃げなきゃ、でも、間に合うか、いや、まずは立たないと。
足に全く力が入らず、何度も足を滑らせた。あたふたしていると、すぐ近くまで来ていた殺人が飛びかかってきた。
ごめんよ、ハジメ。約束は守れなさそうだ。ハジメが殺人に殺されて十年。復讐ってわけじゃないけど、大切な弟を失って黙っているわけにはいかない。それに、ムニも守らなきゃいけない。僕はやっと警察になれたのに。殺人と相見えられる第五課に配属されたのに。何もできないまま終わってしまうんだ。
ハジメ、ムニ、ごめ…。
もう、だめかと思い、目を瞑って覚悟した。したのだが、襲われない。ゆっくりと目を開けると、こちらに向かってきた殺人を八つ裂きにする殺人がいた。
八つ裂きにした殺人は、腕を失った殺人を見て悲しんでいるようだった。僕にはそう伝わった。
「大丈夫か!ユイ!」
上司のエノモト、ヒビノ、アオキが駆けつけてきた。
「は、は、あ、あれ」
ユイは路地裏を指差した。
「殺人が現れるなんてな」
「この一年で大分増えてますよね」
「ったく、科捜研の奴らはちゃんと調べられてんのか?情報が全くないままこの調子だと、殺人で溢れかえるぞ」
僕が指差した先には、一体の殺人の死体のみだった。もう一体の殺人の死体と、八つ裂きにした殺人はどこかへ消えてしまっていた。
「ユイ君、大丈夫?」
第五課唯一の女性であるアオキが優しい声とともに手を差し出してきた。
「ありがとうございます」
冷え切った僕の手がアオキの手により温もりと落ち着きを取り戻した。




