番外編:1(一日前の夜に)
明日10月2日の書籍発売を記念して番外編を更新します。3話目です。
木でできた簡素なベッドの固さがダイレクトに伝わるような薄い布団にくるまりながら、カビの匂いが微かにする地下牢で私、メアリーは夢を見ていた。そのときはレオノーラ殿下の策略にはまり、アルベルト様との不貞を疑われ、いつ地下牢を出られるかすらも分かっていなかった。それなのに、こんなときになんて自分は浅ましいのだろうと己のことながら呆れたので、その夢のことはよく覚えていた。
それは私がレオノーラ殿下の姿ではなく、メアリーとしての姿のままでアルベルト様と美しいバラ園で手と手を取り合う夢だった。
「メアリー、眠れないのかい?」
不意にかけられた声に驚き振り向くと、そこにはアルベルト様がいた。夜もすっかり更けていることもあり、彼もゆったりとした寝間着姿だった。
「はい、目が変に冴えてしまって。明日は結婚式なので、早く寝なければならないのは分かっているのですが」
結婚式を翌日に控え、明日からは正式な夫婦としてアルベルト様と隣の寝室で夜を共にすることになる。そのことは分かっているが、まだくつろいだ寝間着姿で彼の前にいるのが少し気恥しく感じていると、彼が肩にそっとストールを掛けてくれた。
「春とは言え、まだ夜は少し冷えるからね」
「ありがとうございます」
彼の気遣いを嬉しく思いながら、ストールを胸の前でかき合わせた。そのときにストールをぎゅっと握りしめてしまっていたからか、心に浮かんでいたことが表情に出てしまっていたからか、アルベルト様が私の顔を覗き込みながらこう聞いてきた。
「何か不安でもあるのかい?」
不安。今の気持ちをそう呼んでいいかが分からず、返答に少し詰まってしまった。そんな私の反応を見て、アルベルト様がさらに表情を曇らせたため、私は慌ててこう弁解した。
「不安、ではないと思うのですが、少し思い出してしまったことがありまして」
「それは、あまりいい思い出ではないのかな?」
心配そうな表情を変えないままそう問われたので、私は首を横に振った。あの夢のことは決して悪い記憶ではなかった。
「いえ、違います。どちらかといえばいい思い出だからこそなのです」
「いい思い出だからこそ?」
気恥ずかしさからできればアルベルト様には夢のことは黙っておきたかったが、ここまで話してしまったからには全てを話すしかないだろう。私は小さく息を吸い込んでから、彼にあの日見た夢の話をした。
そこは、まるで王城のバラ園のような美しい場所であった。
夢らしく季節の統一感なく咲き誇るバラたちの間を、私とアルベルト様は歩いていた。私は、ギフトによって変化した美しいレオノーラ殿下の姿ではなく、平凡な私自身の姿だった。あの頃、自分の姿では着たこともないような美しいドレスを身にまとい、アルベルト様の横に私は立っていた。
あの時点ではそんなことありえないのに、夢の中の私はそんなことはこれっぽっちも気にせず、自然にアルベルト様との会話を楽しんでいた。起きた時点では、会話の詳細まではもう覚えていなかった。しかし、ただ穏やかで、時折笑いがこぼれるような温かな会話が交わされていたことだけは何となく心に残っていた。
再会の日のように抱きしめられた訳でもない。ただ彼の横に笑って立っていただけだった。それでもあの頃の自分にとっては、十分自分に都合のいい夢だった。それこそ、夢でしかあり得ないような光景だった。
「だからでしょうか。そんな訳ないって分かっているんですけど、今も、この毎日も夢の続きじゃないのかって、夜になるとふと思うときがあるんです。私はただの王城で働く侍女で、眠ると今の幸せな夢から覚めてしまいそうな気がするんです。おかしいですよね?」
少し苦笑いしながらそう言ったのに、アルベルト様は私の手を取って、真剣な顔でこう言った。
「手を取れば君の手の小ささも、温かさも感じる。君も俺の手の温かさを感じるだろう?大丈夫、これは正真正銘の現実だよ、メアリー」
自分でも荒唐無稽な話だと思うのに、アルベルト様は茶化すことなく取り合ってくれた。向けられる真剣な視線からも彼の優しさを感じて、手を彼の両手で温めるように握られていたのもあったが、私は自分の頬が熱を帯びるのを感じた。
それまでは夢のことを不安に思っていたはずなのに、そうして落ち着かなくなるとアルベルト様が呼気がかかりそうなほどすぐ目の前にいることが気になり、再び寝間着という格好で彼の側にいることが気恥ずかしくなってきた。そのことでさらに頬が赤くなった私のおでこに、彼は軽いキスを一つ落としてこう言った。
「明日からは俺が抱きしめて眠るから、夜にそんな不安な思いはさせないよ」
目の前で囁かれた言葉の意味を理解した途端、自分の顔全体がぼっと赤くなったことを自覚した。アルベルト様はそんな私を満足げに見つめた後、こう言った。
「けれど、残念ながら今晩はそういう訳にはいかないからな。そうだ、今晩は体が温まるようなお茶を侍女に用意させよう。少し待っておいで」
侍女を呼ぶために部屋を出るアルベルト様の背を見送りながら、私は自分の心臓がバクバクと鳴っているのを感じていた。
もう少しすれば、いつもの侍女が温かなカモミールティーでも持ってきてくれるだろう。彼女のお茶には何度かお世話になったので、その安眠効果は疑っていない。通常であれば、穏やかな眠りが私にもたらされただろう。
しかし、今の私は心臓の鼓動がうるさいままであった。こんなドキドキした状態でうまく眠れるだろうかと、私はアルベルト様が来る前とは別の理由で今晩の寝つきを不安に思った。




