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十二話

目が覚めると手のひらに柔らかな生地が触れた。


生地?この牢にそんなものあったかしらと思いながらも目を開くと、設えの良い部屋が目に入ってきた。そこで私は初めて自分が地下牢から出て、サミアさんとここに来たことを思い出した。見渡すと部屋には眩しい西陽が差し込んでいた。どうやら長い時間眠ってしまっていたようだった。


久々にぐっすり寝たことで、少し身体が軽くなったように感じた。それは頭も同じようで、眠る前よりは思考がクリアになっていた。


私のこれからの生活。改めて考えようとしたけれど、考えようとすればするほど、自分が何をしたいと思っているかが分からなくなっていった。今まではずっと命じられるままに動いていた。行動の指針は『理想的なレオノーラ殿下』であり、それに則って行動すればよかった。


でも今の私はただのメアリーだ。メアリーとして何がしたいか、しばらく考えてみたが何も浮かんでは来なかった。


しかし時間は有限である。いつまでも悩む訳にはいかないため、夕食のときに私は正直にサミアさんに相談をすることにした。


「サミアさん、お恥ずかしい話なのですが、私自分のしたいことが今のところ全く浮かばないのです。これからもしっかりと考えたいと思いますが、ギルバード様へのお返事はいつまでにすればいいのでしょうか?」


「ギルバード様よりこの宿は一週間は取ってあることは聞いております。ただ、メアリーさんのお返事の期限は聞いてません。重要なことですので、時間は気にしなくてもいいということなのだと思いますよ」


「けど、お宿のお代も安くはないでしょう。なるべくここにいる間に結論を出したいと思います」


「自分と向き合うには案外時間がかかるものなのです。あまり時間は気にせず、じっくり考えることが大切だと思いますよ。

それにやりたいことがないなら、まずはやりたくないことを取り除くのも手ですよ。そうすれば少しは選択肢も狭まるかもしれません」


「サミアさん、ありがとうございます。そうですね、色々と考えてみます」


「健全な思考には睡眠も大切ですよ。夜は切り替えてしっかり寝てくださいね」


「はい、そうするようにします」


したいこと、したくないこと。どちらにしても自分と深く向き合う必要があることは分かった。つらつらと考えてしまいそうになったが、私はサミアさんのアドバイスに従い、夜が更ける頃にはベッドに入った。


そこから数日、私は自分と向き合い続けた。ギルバード様が紹介してくださる仕事をするか、平民として働くか。どの仕事が楽しかったか、どの仕事が辛かったか。私の好きなもの、苦手なもの。心動かされるもの、気にならないこと。

色々と切り口を考えてはいたが、どれも決断に至るようなものにはならなかった。



その日も私は部屋からも出ず、結論の出ない堂々巡りのようなことをずっと考えていた。すると何日もそうしている私を見かねたサミアさんが買い物へと誘ってくれた。「環境を変えるのも一つの手ですよ。まずはお日様の光を浴びましょう」と、私を街中へ連れ出してくれた。

宿のある街は街道の要所なのか活気のある街だった。王都からも近いため、貴族が利用するような店もちらほらあった。


(あて)もなく二人で歩き、ときどきサミアさんに誘われてはお店の中を覗いたりした。そうしてしばらく歩いていると、目の前に女性ばかりが行列をなすお店が見えた。


「あら、人気のあるお店ね。何のお店かしら」


「皆さんが持っている箱にパティスリーとあるので、お菓子のお店のようですね」


「まぁ、私あのロゴ知ってるわ。あのパティスリーはここにお店があったのね。ねぇ、メアリーさん、恥ずかしながら私ここのケーキ食べてみたかったの。少し並んでみてもいいかしら」


「もちろんです」


そうして私たちは女性ばかりの華やかな列の最後に加わった。それなりに人数がいた割に行列が進むのは早く、ほどなくして私たちは店内に案内された。店に入ると甘酸っぱいいい香りが私たちを歓迎してくれた。


店内には四組ほどの女性客がおり、商品を真剣に吟味していた。そんな彼女たちの隙間から見えるショーケースを指差しながら、サミアさんは少しだけ興奮した様子でこう言った。


「あれよ、あのケーキが有名なの。メアリーさんは聞いたことあって?」


彼女の指先に誘導されるように、私は店内の一際大きなショーケースに目を向けた。するとそこには、見覚えのあるケーキが綺麗に並んで鎮座していた。



白と黄色のコントラストが美しいそのケーキは私の記憶に鮮明に残っていた。


それはあの日、アルベルト様が持ってきてくださったレモンのタルトだった。



ケーキを前に固まった私を見て、サミアさんが心配そうに声をかけてきてくれた。


「ごめんなさい、もしかしてレモンは苦手だったかしら?」


サミアさんの声で我に返った私は、慌てて彼女に返事をした。


「いえ、違うんです。むしろ逆です。レモン、好きなんです。あの、あまりにも綺麗なタルトだから見入ってしまいました。本当に美味しそうですね」


「そうなの、ならよかったわ。では2つ頂いて、宿でお茶を用意して食べましょうか」


そう言うとサミアさんは早速店員さんにオーダーをお願いしていた。そうして思わぬところで生菓子を買った私たちはそこで散策を終えることにし、そのまま宿へと帰っていった。



宿に帰ると、サミアさんが手早くお茶の準備をしてくれた。目の前に出してもらったタルトはあの日と何も変わっておらず、記憶にあるとおり黄色が色鮮やかであった。


その色を眩しく思いながら、軽やかなメレンゲとレモンのムースを口にいれた。その瞬間、柔らかな酸味と共にあの頃の記憶がぶわっと呼び起こされた。


私の些細な変化まで見てくれた優しい眼差し。すっと伸びた広い背中。横から見上げたときにちらりと見えていた耳。口角が少し上がるだけの控えめな笑い方。低く落ち着いた声。


頬に添えられた大きな手のひら。

私の本当の姿を真っ直ぐに見ていた橙の瞳。



ポツリ、とカップの中の紅茶に波紋が広がったことで、私は自分が涙を流していることに初めて気が付いた。目の前のサミアさんを慌てさせてしまっていたが、それを気にする余裕はなかった。


そうだ。自分のことをずっと考えていたけど、多分初めからそれは心の中にあったのだ。ずっと心にあったものに、私は気が付かない振りをしていただけだったんだ。



私、アルベルト様にもう一度会いたい。



気が付いてしまうとダメだった。涙が次々と出てきた。愛されたいとは思わない。彼を騙し続けた私にそんな資格はない。

けれどもう一度だけ、一目だけでもいいから会いたかった。


会いたかった。




サミアさんがあんなに楽しみにしていたケーキだったのに私は大泣きしてその場を台無しにしてしまった。しかしサミアさんは何も言わず、優しく私の背を撫でてくれていた。


何とか涙が落ち着いた頃、私は小さく息を吐いてから彼女にこう謝った。


「すみません、折角の時間だったのに私、取り乱してしまって……」


「いいのよ、悲しんでる子より大事なものなんてそうそうないの。気にしないで。ケーキはまた買えるわ。

それよりもメアリーさん、気持ちは少し落ち着いたかしら?」


「はい、ありがとうございます。もう大丈夫です」


その後サミアさんが心配をしてくれていたが、私は部屋で一人にしてもらった。この気づいた自分の気持ちを元に、これからのことを考えたかったからだ。

私はその日一日を使って、この先の自分の身の振りについて真剣に考えた。



次の日、朝食を終えて少し落ち着いた時間に私はサミアさんに声をかけた。


「私のこれからのことですが、結論が出ました。私、ギルバード様のご紹介の仕事に就きたいと思います。

私、どうしてももう一度会いたい人がいるんです。だから貴族籍は持ったまま、働きたいと思います」


はっきりとそう告げた私の顔を見ながら、サミアさんはこう返してくれた。


「メアリーさん、あなたの結論しかと承りました。ギルバード様には今日中にはこのことをお知らせします。

この先の具体的な話はギルバード様からのお返事をいただいてからになります。もうしばらくここに滞在することになるでしょう」


「分かりました。よろしくお願いします」



私の結論は単純なものだった。アルベルト様にお会いするには平民になるより貴族のままでいる方がずっとその可能性が高くなる。それだけだった。辺境伯家の嫡男である彼に、貴族というだけで会えるのかは分からない。それでも可能性の高い方に賭けたいと思った。


結論を伝えた当日の夕方遅くにギルバード様からお返事があり、彼が次に時間を取れる二日後にこの宿で詳しい話を聞くことになった。そのためその翌日は、私はこれからの身の振り方のことについてララに手紙を書いたり、サミアさんのためにもう一度ケーキを買いに行ったりした。


心を決めてから味わったあのケーキの味は、柔らかな酸味は一昨日と何も変わっていなかった。けれどもその味から揺り起こされる思い出を、今度は落ち着いて受け止めることができた。



さらにその翌日、お昼前の時間に約束通りギルバード様は私たちの泊まる宿にやってきた。宿に来たギルバード様は早速いくつか書類を机に並べながら、私の新しい名字と仕事の説明をしてくれた。


「養子入りの方はこちらで手続きを進めさせてもらう。君は後でこの書類にサインだけしてくれ。


あと仕事のことだが、ここから少し離れた街にいらっしゃるあるご夫婦が10歳の姪のためにマナーなど貴族のご令嬢としての振るまいなどを教える家庭教師を探している。君の教養があれば十分にこなせる仕事だ。

まずはご夫婦の元へ行き、そこで生活して彼らに君の教養に問題ないことを見てもらうことになっている。先方はいつでも来てくれて良いと言ってくれている。どうするかい?」


「ここで十分に休ませていただきましたので、準備が整い次第発とうと思います。何か必要なものはございますか?」


「いや、最低限の身の回りのものがあればいいと聞いている。それもこちらで手配して、既に馬車に積んでいる。君は貴族のご令嬢を名乗るには私物が少なすぎる」


「そこまでお気遣いいただきありがとうございます。では部屋の荷物をまとめたらここを出たいと思います」


「先方のお屋敷までは馬車の移動で二日はかかる。道中のことは引き続きサミアを頼ってくれ」


「私もお屋敷にお送りするまでは付いていきますからね」


「サミアさんもありがとうございます。また道中もよろしくお願いします」


こうして私は新しい仕事への第一歩を踏み出した。

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