十話
思考に霞がかかったかのような、ぼんやりとした状態で私は目覚めた。
目覚めてしばらくは、自分が今まで寝てしまっていたことすら把握できなかったほど、何故か考えがふわふわとまとまらなかった。薄く目を開くとソファと自分の足が見えた。どうやら一人掛のソファで居眠りをしてしまったようで、首に少し痛みを感じた。
目覚めてからもほぼ閉じていた重い目蓋を押し上げ、ぼんやりと目の前を見ていたとき、目の前にさらりと美しいプラチナブロンドが落ちてくるのが見えた。それはもはや見慣れたものであった。
プラチナの髪……。
レオノーラ殿下の髪……!!
それを認識した瞬間、バチンとスイッチが入ったかのように一気にここに来るまでのことを思い出した。そうだ、私は普段は使われない離宮でアルベルト様にお会いして、出されたお茶を飲んだのだった。それからの記憶は少し曖昧だが、恐らくだが私は意識を失った。あんなに急に意識をなくすなんて、強い眠り薬か何かが紅茶に入れられていたのだろう。
なぜ城内の者がレオノーラ殿下に薬を盛ったのか。その理由は私には皆目見当がつかなかった。けれど、目さえ覚めてしまえば特に体に異変は感じられなかったため、命を狙うような毒ではなかったようだ。
現状を確かめるため自分の体を確認すると、ここに来たときに身に着けていた物とは違う、殿下のものではない質素なドレスを私は身に着けていた。そしてきちんと結い上げていたはずの髪も、髪飾りはなくなり、乱雑に崩れていた。
そこまで確かめてから、私は改めて室内を見渡した。お茶がセットされていたテーブルはきれいに片付けられていた。そして隣にあった三人掛の大きなソファにはシャツ姿のアルベルト様が寝かされていた。
同じポットから注がれたお茶を飲んだのだから、恐らく彼も眠らされてしまったのだろう。彼を起こすためその肩に手を掛けようとしたときに、私は重大なことを思い出した。
「……どれだけ寝てしまっていたか時間を確かめなきゃ」
ここに来る時点でもギフトが切れるまでのリミットは迫っていた。もし4時間近く眠ってしまっていたら、ギフトはもうほとんど持たないはずだった。
焦りながら時計を探すと、壁に掛けられていた時計は13時45分を指していた。長く眠っていたようで、ギフトはあと15分ほどしか持たなかった。焦りながらも私は、何としてでもギフトが切れる前にレオノーラ殿下の元か、それが無理ならせめて人のいないところまで移動しなければならないと考えていた。
私がレオノーラ殿下の身代わりとなれることは誰にも知られてはならないことだ。現状については分からないことだらけではあったが、優先すべきは私が影武者であることを隠すことだった。そのため、私はまずはこの部屋から出ることとした。
ちらりとアルベルト様の状態を確認すると、いつもの厳しい表情に見せている釣り目が閉じられ、彼は普段よりやや幼く見える顔を見せていた。顔色は悪くなく、胸は穏やかに上下していて、体調に問題はなさそうに見えた。
これなら彼をこの部屋に置いたままにしても大丈夫だろうと思った私は、静かにドアまで移動し、ドアノブに手を掛けた。
ガキリ。
しかし何かがつっかえているような金属音がしただけで、ドアノブは回ることはなかった。慌てて鍵を確認したが、こちらもピクリとも動かなかった。
他にこの部屋から出られる場所がないか探すため振り返り部屋を見渡すと、大きな窓はあったが一枚の大きなガラスが使われており、鍵はなく開けられるものではなさそうだった。入り口以外にドアは見当たらなかった。
閉じ込められた。故意か事故かは分からないけれど、この部屋から出ることはできなさそうだった。どうしようかと焦る間にも、時間は刻々と過ぎていった。
気づけばギフトが切れるまでの時間はあと10分もなくなっていた。起きてすぐは気にならなかった時計の秒針が時間を刻む音が、妙に大きく聞こえてきた。落ち着かなければと思うほど、開かないドアノブを掴む手に力がこもり、思考が焦りでまとまらなくなった。
自分を落ち着かせるためにも一度深呼吸をして、こうなったらせめてギフトが解ける瞬間だけは見られないようにしないとと思考を切り替えることにした。アルベルト様は今は寝ていらっしゃるが、念のために身を隠す場所を探そうと動き出したそのときだった。
「……ここは?私は眠ってしまったのか?」
声に思わず振り返ると、身を起こしてはいるが未だぼんやりとしているアルベルト様と目があってしまった。
絶望的な状況に心の中で悲鳴をあげた。どうしよう。せめて彼が寝ていてくれたらその間に身を隠せたのに。どうしたら、どうすれば、懸命に考えようとしたが、頭には何も浮かんでこなかった。泣きそうな気持ちで立っていると、アルベルト様がソファを降り、私の近くまでやってきた。
「体に異変はありませんか?痛みや痺れはありませんか?詳細は分かりませんが、どうやら私たちは何者かに一服盛られてしまったようです」
心配そうにアルベルト様が私を見つめていた。いつもならその瞳に見つめられると心がざわりと浮き立った。けれど今だけは、その目をふさいでしまいたかった。
このままではバレてしまう。私がレオノーラ殿下の影武者であることももちろん知られてはいけない。けれど、けれどもそれ以上にアルベルト様を騙し続けていたことを知られるのが怖かった。
優しく微笑みかけてくれたのに、どんな小さなことも覚えてくれていたのに、色んなことを話し合ってくれたのに。
私がそれらを踏みにじっていたことが彼に知られてしまう。
気がつけば涙が一筋、瞳から流れ落ちていた。怖い。貴方に事実を知られたくない。彼をずっと欺いていたのは自分のくせに、そんなことばかりが頭の中を占めていた。
何も言わず涙を流す私をアルベルト様が見つめていた。どれぐらい見つめあっていたかは分からない。けれども私の瞳から新たな涙がこぼれ落ちたとき、体の中である感覚がじわりと広がっていった。
それはギフトが切れる感覚だった。
悪あがきのように顔を伏せると、髪が毛先からじわじわと本来の色に戻っていくのが見えた。ララのギフトも同時に切れるので、顔もきっと元に戻っているはずだった。
目の前のアルベルト様は私の明らかな変化が見えているはずなのに、何もおっしゃらなかった。決定的な瞬間をアルベルト様に見られ、もうどうしようもないくせに、恐くて彼の顔を見ることができなかった。
お互いに黙ったまま、私とアルベルト様はしばらく向き合った。彼の視線が私に注がれていることを感じていたが、私は顔を上げることができずにいた。
重い沈黙を破ったのはアルベルト様だった。彼は私の頬に沿うように手をかけ、そっと私の顔を上げさせた。先ほどまで見つめあっていた彼の橙色のまっすぐな瞳が、本当の私を見つめていた。レオノーラ殿下という美しい装飾を失った、ただの娘である私を。
「それが貴女の……」
アルベルト様がそこまでおっしゃった瞬間、ドアの向こうからざわざわと人の声らしきものが聞こえてきた。ガタンと、大きな物音も聞こえてきた。アルベルト様は私の腕を取り、ドアから私の体を離した。私を庇うように立ってくれたアルベルト様の背中を驚きながら見つめていると、さっきまではびくりともしなかったドアが静かに開いた。
ドアの前に立っていたのはレオノーラ殿下とセドリック皇子だった。なぜ殿下がここに、と驚いていると、殿下は私たちに向かってこう言ってきた。
「アルベルト様、信じていたのに……。やはり私の侍女とそういう密接な仲になられていたのですね!」
初めは言われた意味が分からなかった。私はただレオノーラ殿下の命令にそってアルベルト様とお会いしていたのだ。それなのに、密接な仲とは殿下が何をおっしゃりたいのか分からなかった。
「レオノーラ殿下!?これは一体どういうことでしょうか?」
状況が把握できないのはアルベルト様も同じのようで、彼はレオノーラ殿下にそう尋ねた。すると、殿下から返ってきたのは驚くような返答だった。
「こんな状況でまだしらを切るつもりなのですか?私は前々から噂で聞いていたのです。アルベルト様には密接な仲の女性がいること、彼女と隠れるようにして逢瀬を重ねていることを。
私は噂より婚約者候補である貴方を信じようとしていたのに……ああ、酷いわ」
涙を流しながらそうおっしゃる殿下の言葉を聞いて、私はやっと今の状況を理解した。
レオノーラ殿下はセドリック皇子との結婚を望んでいたが、明らかな瑕疵がなければアルベルト様を婚約者候補から外すことができなかった。しかしアルベルト様にはそのような欠点は見当たらなかった。だから、殿下はアルベルト様の瑕疵を私を使って作ることにしたのだ。
私を殿下としてアルベルト様の元に行かせ、ギフトが解けるまで彼の側にいさせた。そしてその後にこうして私たちがいるところを押さえ、彼に不貞という冤罪を被せようとしたのだ。
そう考えると、この人気のない離宮に私たちが別々の理由で呼び出されたことも、眠り薬を盛られたことも、先ほどまでドアが開かなかったことも全て理解ができた。
これはレオノーラ殿下の周到な罠だったのだ。
何か反論をしないとと思ったが、私が殿下の影武者であることは誓約上言うことはできない。そうなると私がここにアルベルト様と二人でいた理由を説明することができなかった。
アルベルト様も難しい顔をされていたけれど、この状況を説明できないためかレオノーラ殿下に言われるがままであった。
結局私たちはその後、それぞれ身柄を拘束されることとなった。
私が連れていかれたのは暗い地下牢であった。ここまで私を連れてきた衛兵はお前の処遇が決まるまで大人しくしておくようにとだけ告げ、去っていってしまった。尋問も何もなかった。どうやら侍女にすぎない私の声など、彼らは聞くつもりがないようであった。
暗く静かな牢の中で、考えるのはアルベルト様のことばかりであった。私がレオノーラ殿下のお考えに気づけなかったばかりに、彼にとんでもない冤罪がかけられてしまった。王族であるレオノーラ殿下を裏切る不貞、それはこの縁談を整えた陛下の意思にも背くことだ。彼の家は国防の要職ではあるが、何かしらの処分は避けられないだろう。
私のせいで、私のせいで。今さら後悔しても何にもならないのは分かっていたが、次々と流れてくる涙を止めることはできなかった。
暗い牢の中に私のすすり泣く声だけが静かに響いていた。




