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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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死後の抽選会        :約4500文字 :じんわり

 ――ここは……どこ?


 青年はぼんやりとそう思った。取り乱さなかったのは、夢から覚めたばかりのように頭がぼーっとしていたのもあるが、周りに人がいることと、今、彼がいる場所のことが理由だろう。もっとも、そこがどこかなのかはわからない。

 見渡す限り、真っ白な空間。そこに長い行列がいくつもできており、彼もまた気づかぬうちにその一つに並んでいた。

 彼はゆっくりと周囲を見回した。列は後ろのほうがずっと長そうだ。背伸びしてみても、最後尾は見えなかった。だから、一度抜けてみる気にはなれなかった。

 だが、情報は欲しい。周りの人に話しかけてみようか。いや、どうせ自分と同じ状況だろう。


「広い場所広い場所広い場所おぉ……広い場所がいいぃ……もう、もう公衆トイレは嫌だあ、嫌だ嫌だ嫌だ……」


 背後から不気味な声が聞こえてきた。青年が振り向くと、痩せ細った男が手を合わせ、ひたすら念仏のように唱え続けていた。

 今気づいただけで、もしかするとずっとそうしていたのかもしれない。


「あんた、死にたて?」


 今度は前に並ぶ中年の男が話しかけてきた。彼は質問の意図が分からず、声も出せず、ただ首を傾げた。


「いやあ、なんかキョロキョロしてたからさ。初めてなんじゃないかと思ってね。ま、よろしく」


「え、は、はい……あの、死にたてって……?」


「ん? そのまんまの意味よ。死んだの、おれら。列に並んでるやつら、みーんなそう」


 男は両手を広げて、ニカッと笑った。


「あっ」


 その瞬間、記憶が甦った。次いで吐き気が込み上げてきた。だが、それは錯覚だった。体調などもう悪くなりようがない。自分は死んだのだ。間違いなく。


「おーい。もしもーし、大丈夫?」


「あ、はい……」


 目の前で男がニヤニヤしながらひらひらと手を振っている。彼は少し苛立ちを覚えた。また、死後でもそんな感情は抱くのだなと、少し意外に思った。

 徐々に、頭がはっきりしてきたようだ。もしかしたら、列に大人しく並ばせるために麻酔のような処置をされていたのかもしれない。

 誰に? 神? 天使? わからない。だが、今気になるのは、それよりも……。


「あの、この列なんのために並んでるんですか?」


 男は大きく伸びをしながら、あくび混じりに答えた。


「ん、派遣先決め」


「派遣先……?」


「そ。幽霊になって一年間そこにいるの」


「え、何のために?」


「んー、知らないよ、そんなこたあ。必要なことなんじゃないの?」


 死んですぐに天国や地獄へ行くわけではないのか。しかし、後ろの男が先ほどから呟いている『公衆便所は嫌だ』というのはまさか……。


「自分の持ち場からは離れちゃ」


「ダメー。というか、離れられないのよ。どういうわけかね。ちなみに、おれは前回ネットカフェだったから、だいぶよかったねー。客が見ている映画や漫画を後ろから覗いたり、ドリンクバーのコーラを勝手に出したりね。まあ、それはたまにというか、稀に調子のいいときにしかできないけど」


「それは――」


「ほんと、それは当たりですよ……。私なんて、もう二回連続公衆トイレで……」


 彼は他にも質問したいことがあったが、後ろの男が泣きそうな顔で話に割り込んできたためその機会を逃した。


「ぶはっ! それはあんた、ついてないね! 生きてる間に、よっぽど悪いことしてたんじゃないの?」


「な、し、失礼な! あ、あなたこそ良い人間には見えませんがね!」


 中年の男はゲラゲラ笑った。青年は二人のやり取りを聞き流しながら、自分ならどこがいいか考えてみた。

 話を聞いた感じだと、動きのある場所がよさそうだ。映画館……水族館……動物園……。


 ――行きたい場所なんてない。どうせ何もできやしないんだ。


 彼は誰にも聞こえないよう、小さく呟き、顔を上げた。空はなく、明るいが太陽もなかった。ただただ白く、圧迫感さえあった。


「どうぞ」


 やがて彼の番がきた。目の前にあるのは、商店街の福引で見るようなガラガラの抽選機。

 こんなもので決めるのかと思ったが、文句は言わなかった。他の抽選方法を思いつかなかったし、考える気もない。

 青年は柄を握り、回した。ガラガラと軽い音が響く。出てきたのは、ガラス玉のような透明な球体。係員らしき男がそれをつまみ上げ、まじまじと覗き込む。どうやら、そこに派遣先が書かれているらしい。


「……はい、あなたは電気屋ですね。鍵をどうぞ」


「おーおー! いいじゃない! テレビ見放題じゃん!」


 中年の男がずいと近づいてきた。聞けば、競馬場を引いたらしい。上機嫌で自分の運の良さを語り始めた。


「また公衆トイレええええええぇぇぇぇぇ! それもやっぱり男子いぃぃぃぃぃぃ……あああぁ……!」


 喉を締め上げられた鳥のような声が響き渡った。振り向くと、そこにいたのは言うまでもなく、あの痩せた男だった。泣き崩れ、「なぜだ、なぜ!」と嗚咽を漏らしている。


「はっ、不運だねえ、あいつ……さて、そろそろ行かないと怒られちまう、ん? おいおい」


 彼は泣き崩れる男に近づき、そっと手に持っていた鍵を渡した。

 男はピタッと声を止め、目を見開いて鍵に飛びついた。


「鍵……鍵! いっ、いいんですかあ……?」


「はい」


「聖人だ! 天使だ! あなたこそが神だ! いや、それは言い過ぎだ! とにかくありがとう! ありがとうありがとう!」


 何度も熱がこもった礼を言われた。だが、彼の心は妙に冷めていた。


 ――別にどうでもいい。どこだろうと、死んでいるんだから。


「へっ、もったいねー。ま、もう会わんと思うけど達者でな」


 中年の男はそう言うと、鍵を突き出し、空中に挿して回すような動作をした。すると、そこにドアが現れた。男はドアを開け、その中へ消えていった。

 彼も真似をし、ドアを出す。ドアノブに手をかけ、回す。

 開かれたドアの向こうへ足を踏み入れた。


 便器の前に出た。

 ここが持ち場らしい。イメージ通り、ごく普通の公衆トイレ、その個室だった。臭いはないが容易に想像でき、思わず顔をしかめた。

 持ち場はこの個室だけなのか、それとも公衆トイレ全体なのか。そう思った彼は振り返り、個室のドアを手で押そうとした。

 だが、すり抜けた。


 ――ああ、本当に死んだんだな。


 彼は小さく笑った。誰にも聞こえていない。トイレ内に人はいなかったが、いても同じことだろう。

 個室が二つ。小便器は四つ。掃除用具入れが一つある。

 そして、なにより汚く、古い。

 ここはどうやら公園の公衆トイレらしい。外から「ばいばーい!」「じゃね!」と、網のような四角い曇りガラスの窓が震えそうなほど、子供たちの大きな声が聞こえた。

 その窓から差し込むオレンジ色の光が、彼の心に妙な寂しさをもたらした。


 ――ここで一年か……。


 彼は一人でぼやいた。声に出したか、出さなかったか。自分でもわからない。どうでもいいことだ。

 そう、どうでもいい。場所がどこだろうと、同じだ。

 思い出すだけでも苦痛を伴う、生き地獄の毎日。生きている間に自由なんてなかった。心が安らぐ瞬間もない。絶望の果てに自ら命を絶ったというのに、死んでからも自由がないと今知った彼には、何もかもがどうでもよかった。

 おそらく自分は、いや自分たちは消耗品。擦り切れるまで、こうやってただこの場に存在し続けるのだろう。


 あれから何か月か経った。

 彼はトイレのカビの成長を、盆栽を愛でるように眺めている。

 時折、人が訪れる。だが、みなすぐに出て行ってしまう。当然だ。ここに長居しようなんて考える者などいない。

 最初のうちは彼も、自分の存在をアピールしてみたが、今は目も向けない。

 誰も気づかない。やはり、それも当然だ。生きているうちに、幽霊なんて一度も見たことがないのだから。

 驚かそうと全力で叫んだこともあった。だが、電灯が少しチラついただけ。偶然かもわからない。無意味だった。

 深夜になり、羽虫が群がるその明かりも、今消えた。

 ただただ真っ暗だった。こうなると、より時間が長く感じる。眠れない。ゆえに、ただ無心でいる。感情を鈍く。

 もしかしたら、こうすることで消えてなくなるのかもしれない。それを『成仏』と呼ぶのだろうか。それが狙いなのか。誰の? 神? 天使? どうでもいい。

 天国も地獄もなく、これが終わりなのだとしても、もうどうでもよかった。


 彼は、蓋の開いた便器を見下ろしていた。

 無価値だ。ここに垂れ流されるものと同じ。あるいは、それ以下か。何も影響を与えないのだから。人に。この世界に。ならばいっそ、その張り付いたトイレットペーパーの切れ端と一緒に、誰か自分を流してくれないか。粉微塵にしてくれ。

 誰か、誰か……。

 そう考えていた、そのときだった。


 ――影響。

 ――いたずら。

 ――気のせい程度の……。


 彼は嘆きの果てに、ある仮説にたどり着いた。消えかけていた感情が再び昂り、彼は便器の中に足を踏み入れた。

 レバーを睨みつけ、念じる。


 ――動け……動け……。


 できるはずだ。そうだろう? ドリンクバーを勝手に操作した? そうだ、少しのものなら動かせるはずだ。

 できる……できる! 信じろ……。

 根拠はなかった。水回りに霊が出る。水と霊の関係性について朧気に浮かんでいる程度。ただ今、実際に霊となった彼には、どこか直感めいたものがあった。

 それを信じたかった。


 ――ゴオオオォォォ


 次の瞬間、豪快な音が響き渡った。すべての不浄を洗い流す音が。そして、彼の体は回転しながら水とともに――。



 ――ここは……。


 そこがどこかはすぐにわかった。

 ぼんやりと揺れる光。舞う汚泥。目の前を、大きな鯉らしき魚が通り過ぎる。

 気づけば、彼は川の中にいた。

 三途の川ではなさそうだ。無数の細かなゴミが漂い、渦を巻く泥とともにゆらめいている。水底にはボロボロに錆びた自転車のフレームが横倒しになり、半分泥に埋もれていた。そばには潰れた空き缶。透明さを失ったペットボトル。埋まり、水草のように揺れる茶色いビニール袋。誰かの脱ぎ捨てた靴までもが、無造作に沈んでいる。

 この穢れは、現世に間違いない。

 顔を上げると、空の光を鈍く透かす水面がある。

 彼はそっと両腕を伸ばした。すると、イメージ通り、ゆっくりと体が浮き上がる。

 泥水を抜け、光へと向かうにつれ、景色が明るく変わっていく。


 ――空だ。


 水面を突き破ると、目の前に広がるのは静かな朝焼け。

 紺色の空に黄金色の光がほのかに滲んでいく。

 ゆるやかにたなびく雲が、燃え尽きる直前の炎のように染まり、水面に映る景色もまた揺れながら、燃えるような光の道をゆっくりと広げていた。

 その美しさに、彼は思わず目を細めた。

 風が吹くと、ひんやりとした朝の空気を感じた気がした。

 さらに浮き上がると、河川敷が見えた。草むらの向こうに、まだ動き出していない街の輪郭が浮かんでいる。土手の上を一台の自転車が走っている。犬を連れた人、それを追い越すランナー。

 彼らは知らない。誰も。ここに、一つの魂が流れ着いたことに。


 ――持ち場を離れた自分は、これからどうなるのだろうか。


 消えるのか。それとも、連れ戻されるのか。

 ……どうでもいい。そう、どうでもいい。きっと大丈夫だと思えるから。


 彼は両腕を上げ、叫んだ。

 それは今、生まれて、そして死んでから初めて感じた自由への喜びと、世界への産声であった。

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