決定的瞬間 :約1500文字
――やった。やってしまった……!
夜の住宅街。青年は立ち止まり、胸に手を当てた。そこにタールのような罪悪感は溜まっていない。あるのは激しく跳ねる心臓だけ。その鼓動の理由は走っていたせいだけではない。高揚しているのだ。
青年は辺りを見回し、人がいないことを確認すると、震える手でポケットからスマートフォンを取り出した。
暗闇にぼうっと青年の顔が青白く浮かび上がる。緩む口元、見開いた目はしっかりと画面を捉えている。
――ああ、すごいものが撮れたぞ……!
数分前、青年は踏切が開くのをぼんやりと待っていた。ふと前方を見ると、スマートフォンを見つめながら歩く女性の姿が目に入った。
歩きスマホ。よくある光景だ。だが、その先は違っていた。
次の瞬間、彼女は遮断機のバーをくぐり、まるで何事もないかのようにゆっくりと歩き続けたのだ。
あまりに自然な動作だったので青年は一瞬、違和感を覚えなかった。おそらく、『なんか邪魔ね、これ』とでも思ったのだろう。
この警報音に気づいていないのか? もうすぐ電車が来るはず……。
そう思い、青年は遮断機のバーから身を乗り出し、線路を覗き込んだ。
線路の先に電車の姿があった。目のような二つの光、徐々にその姿形がはっきりとしていく。
――このままだと……。
青年は次に辺りを見回した。向こう側には数人の人影があったが、誰もが自分のスマートフォンの画面に釘付けになっていた。
――僕だけが気づいている。
――僕だけが助けられる。
――彼女に大声で警告を。
――それか、緊急停止ボタンを。
脳内でバチバチと考えが錯綜する。
青年は唾を飲み、口を開けた――が、再び閉じた。
ポケットからスマートフォンを取り出す。そして、女性にカメラを向けた。
彼女は直前で気づいて回避する……きっとそうさ。
青年はそう考えた。いや、言い訳した。
そして、結末は彼も知らない。まだ。彼女と電車が接触する瞬間、怖くなって目を逸らしたのだ。
それから電車が通過する前に、彼は背を向けて走り出した。鉄の塊が唸り声を上げた。まるで、責め立てるように。
見たぞ、見たぞ! お前のせいだ!
見殺しにした! 殺人者!
人殺しがここにいるぞ!
だが、現場から遠ざかるにつれて、その声も罪悪感も薄れ、代わりに興奮と達成感が込み上げてきた。
青年は何度か深呼吸し、息を整えると撮影した動画を再生した。
女性がゆっくりと線路を横断する場面から始まる。
――いいぞ、撮れてる。
青年は興奮で体を震わせた。背筋に快感が走り、膀胱が膨らむ。
一歩、また一歩。まるでモデルのように、魅せるように彼女がこちらへ向かって歩いてくる。
そして、ちょうど電車の進路上でぴたりと立ち止まった。
――えっ。
彼女がふいに顔を上げた。
その瞬間、電車が通過し、彼女の姿は画面の中から消えた。
青年は危うくスマートフォンを手から落としそうになった。
彼女は今、確かに顔を上げた。でも、迫る電車に気づいたわけじゃない。
彼女は間違いなく僕を見た。
そして、確かに微笑んでいた。
――なぜ?
――どうして微笑んだ?
――僕が撮っていることに気づいたのか?
――電車には気づいていたのか?
――僕のせい?
――それとも自殺?
――でも、血も音も録れていないのは、なぜ……。
青年は再び動画を再生した。
――あ、これ……。
よく見ると、女性は顔を上げたあと、自分のスマートフォンを青年に向けて突き出していた。
――彼女も僕を撮っていた? でも、どうし……
青年はパッと画面から顔を上げた。
しかし、遅かった。
甲高いブレーキ音が耳を裂き、眩しい光が目を突き刺し――




