楽しげな歌 :約1500文字
とある家の庭。老人はスコップを土に突き刺し、小さく蠢くものを指で摘み上げた。ミミズだ。皺だらけの口元に微笑を浮かべ、それを遠くへ放り投げる。ミミズは怒ったように地面でばたついたあと、這って落ち葉の影へと消えた。
……定年退職して六年。土いじりが心や脳にいいと医者に勧められたときは、こいつは何を言っているのかと思ったものだが、いやはや、すっかりハマってしまったな。
老人はふっと息を漏らし、ラジオを止めた。そろそろ休憩にしよう。続きは妻を誘うのもいいかもしれない。
立ち上がり、腰を伸ばす。骨がパキポキと鳴り、痛みと心地よさがせめぎ合いながら背を駆け上がった。
「くふぅ……」
満足げに息をつき、目を閉じる。風が頬を撫で、穏やかな午後の匂いを運んできた。
――タン……トン……せー
風が止んだ瞬間だった。微かな囁き声が耳に届き、老人は目を開けた。
……妙だな。ラジオは止めたはず。どこからだ?
――タタン……トン……ろせー
こっちのほうからだ……。
耳を澄ませて辿ってみると、その声はどうやら庭の奥、古い木のうろから聞こえてくるようだ。
老人は静かに近づき、おそるおそる、うろの中に頭を入れた。
――タタン、トトン、たのしーなー
――タタン、トトン、まつりのじゅんびー
――タタン、トトン、あーまいなー
ほほう、どうやら妖精が歌っているらしいな……。
うろの中は真っ暗で何も見えなかったが、可愛らしい歌声に自然と顔が綻んだ。一緒に歌いたいところだが、人間に気づかれたら隠れるのがお話に出てくる妖精の定番。ここはおとなしく聞くだけにしよう。それだけでも十分だ。
そう考えた老人は目を細め、体をリズムに合わせて小さく揺らす。しかし――
――タタン、トトン、たのしみだー
――タタン、トトン、ジジイをころせー
――タタン、トトン、ちをしぼれー
「ひっ!」
短い悲鳴を漏らし、老人は猫のように飛び退いた。
鼓動が早鐘のように鳴り響き、思わず手を当てる。まだあの声は聞こえてくる。楽しげな音の中に、どうしようもないおぞましさが滲んでいた。無邪気な声なのが、なおさら気味が悪い。
「こ、こうしちゃいられない……」
老人は足をもつれさせながら物置へ駆け込んだ。
そして、抱えて戻ってきたのは――チェーンソー。エンジンをかけると、その音と振動が恐怖を掻き消し、心強さを与えてくれた。
――タタン、トトン……をころせー
声はエンジン音に塗りつぶされたが、まだ少し聞こえる。
だが、それもここまでだ。
刃を木の腹に叩きつける。削られた木屑が、血飛沫のように舞い散った。
やがて、音を立て、木は倒れた。歌声は消えた。まるで初めから何もなかったように、あたりは静寂に包まれている。老人はチェーンソーを置き、ほっと一息ついた。
「いやはや、思わぬ重労働になってしまったな……だが……」
老人は空を見上げた。
茜色の空に、うろこ雲が広がっている。一羽のカラスが一鳴きし、頭上を通過していった。まるで決着を告げるかのように。
長く伸びた老人の影は、機嫌良さそうに揺れ動くのだった。
「おーい、ただいまあ。まあ、庭にいたんだがな。水をくれるか? おーい?」
家の中へ入った老人は、妻を呼んだ。しかし、返事がない。
はて、出かけたのか? いや、靴はたぶん揃っているな……。
老人は首を傾げ、廊下を進んだ。
「ああ、いたじゃないか、どう……」
居間に足を踏み入れた瞬間、老人は言葉を失った。
妻はいた。
ただ、真っ暗なテレビに向かって、じっと座っていた。異様な気配に思わずたじろいだ。そして、何をしているのかと老人が訊ねようとした、そのとき。
妻がゆっくりと老人のほうを向いた。
そして、パカッと口を開けた。
――タタン、トトン、ジジイをころせー
老人の体にチェーンソーのエンジン音と感触が蘇った。




