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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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新妖怪の悩み        :約3000文字

 暗がりにぼうっと浮かぶ、一軒の小さなバー。

 看板は色あせ、灯りも弱々しく、存在そのものが希薄。目を離した瞬間、ふっと消えてしまいそうな儚さを漂わせている。そんなバー。

 路地裏のさらに奥、まるで社会から隔離されたかのように、人通りもほとんど絶えた場所に位置する。そんなバー。

 ここを訪れる人間はまずいない。きっと認識すらされない。まさに隠れ家。

 夜も明るい現代社会。恐怖は娯楽に堕ち、異物を晒し上げて笑う人間たち。そんな時代に、やる気をなくした妖怪たちが集う場所。

 ここでは彼らが主役。酒を片手に語り合い、時にはしんみり涙し、過ぎ去った昔を懐かしむ。そしてまた、同じ夜を静かに繰り返していく。そんなバー……。

 そこに今夜もまた一人、悩める妖怪が訪れた。


「ろくろ首さん! 子泣き爺さん! 河童さん! こんばんは!」


 その妖怪は店に入るなり、まっすぐカウンターに進むと、席に腰を落ち着けていた三人に向かってハキハキと頭を下げた。

 三人は振り向き、ぱちくりと目をしばたたかせた。今どき珍しい、好青年のような挨拶をされたことに面食らったのもあるが、彼らが戸惑ったのはそれだけが理由ではない。


「……あー、あんた、誰だい?」


 ろくろ首が長い首を少し傾げて訊ねた。


「僕、ブペバピポです!」


「ん? ブ、ブベパ……?」


「ブペバピポです!」


「覚えにくいねえ……それで、あたしらに何か用かい?」

「用かい、ようかい、妖怪、ふへへ……」

「子泣き爺、お前……」


「はい! 実は僕、最近生まれた妖怪なんです! なので、大先輩の御三方にアドバイスを頂きたく参りました!」


 ブペバピポの真っ直ぐな瞳を見て、三人は思わず吹き出した。


「はははは、冗談キツイよ。あたしらからアドバイスを?」

「まったくもって愉快、愉快じゃ」

「そうそう、今は人を脅かすこともなく、隠れ潜んでいるだけのおれらに?」


「いやいや、ご謙遜を! 事実、御三方は知名度も実績も十分な有名妖怪。今さら人を驚かさなくても忘れられたり、消えることもない。いわば殿堂入りじゃないですか!」


「ふふふ、まあねえ……漫画だのゲームだのに、何回か出演したこともあるしね」

「雪女に比べれば、カスみたいなもんじゃがのう」

「しぃ! 子泣き爺、し!」


 三人は照れくさそうに笑った。一方で、ブペバピポの表情は暗く沈んだ。


「それに比べて僕は……うう、忘れられたらそれまでなんです……」


「ああ……まあ、わかるよ。これまでも、ぽっと生まれてすぐ消えていった連中は山ほどいるしねえ」

「口裂け女みたいに定着できるのは稀じゃからのう」

「んで、お前はどんな妖怪なんだ?」


「はい! 僕はおなら妖怪です!」


「へ?」

「屁だけに、か? ひひひ……」

「子泣き……」


「僕は――あっ、見せたほうが早いですね!」


「おいおい、ここで一発ぶっこくのはやめておくれよ?」

「そうじゃ。店がぶーっと、ぶっ飛んだりして……はうわ! ああああ!」

「くっせ! おい爺! お前が屁をこくのかよ!」


「ふん!」


「やめなよ! く、臭っ!」

「ち、違う、ワシは、はあうううううう!」

「こ、これはまさか……」


「そう。僕の領域内にいる者を問答無用で屁をこかせる。これが僕の能力――『腸空間の支配者』です」


「大層な名前……」

「超と腸をかけて、はあああううううううううんんん!」

「やめろ!」


「というわけなんですけど……どうでしょう?」


「すごいはすごいけど、怖いかと言われるとねえ……」

「い、いや、恐ろしいぞ……ケツの穴が熱い……」

「ああ。実際、恐ろしいな。大事な局面で、それも思春期の男子、いや女子が食らったら……」


「はい。事実、僕はそうやって生まれたんです。演説、テスト中、好きな子への告白の瞬間、電車の中、エレベーター内、会議中、テレビの生放送など、“絶対におならをしてはいけない場面”で震える何十、何百という恐怖心が集まり、僕という存在が生まれたんです」


「なるほどねえ……確かに、考えてみれば恐ろしいわ」

「ああ、そうじゃのう。しかし、何が不満なんじゃ?」

「お前も人に気づかれずに出たり消えたりできるんだろ?」


「はい……。人に気づかれずに能力を使えるんですが……。でも、そのせいで僕の仕業だと思われないんです! 他にもできることがあるのに……」


「他? 屁以外にもかい?」


「いえ、屁だけです。むむむむむ」


「お、おい、まさかまたワシに……はわああああああ!」

「子泣き爺! おい、お前何した!」


「目、目がああああ!」


「目から屁を出しました。他にも……」


「うぎいいいい! こ、鼓膜が!」


「へえ、尻の穴だけじゃなく、他の穴や隙間からも出せるわけかい」

「感心している場合じゃ、鼻ああああぁぁぁ! ウップゥ! アップゥ!」

「おっかねえな……ああ、口からも……」


「いや、今のはワシのゲップじゃ」

「爺……」


「うう、顔がヒリヒリするわい。このワシをよくぞここまで……これは相当強力じゃぞ……」


 子泣き爺は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、ひりつく頬をさすった。


「確かに、あんた十分すごいじゃないか」


「ありがとうございます……でも、認知されなくて……」


「ん? お前、まさかずっと姿を隠したままやってんのか?」


「え、はい」


「あっはっは! それじゃダメだよ。ちょっとだけ姿を見せるのがコツさ」

「そうじゃそうじゃ。相手が悲鳴を上げたら、さっと消える。これが妖怪の基本じゃよ」

「ま、そういうこと。何回かやればタイミングも掴めるようになるさ」


「な、なるほど……! そうでしたか! 僕、やってみます! 必ず有名になります! 本当にありがとうございました!」


 勢いよく礼をすると、ブペバピポは風のように店を飛び出していった。


「あ、ふふ……もう行っちまったよ。いいね、若いってのは」

「そうじゃのう。ワシも少しは頑張ってみるかのう。……しかし、力みすぎないとよいがな。屁だけに」

「爺……」


 三人は遠い目をしながら、しかしどこか嬉しそうにグラスを軽くぶつけ合った。

 そして――。



「えー、ですので、このたびの問題につきましては、私自身も責任を痛感しております。ですが、私が責任を取ればいいという単純な話ではなく……」


「……?」

「どうされたんですか?」

「何を黙っているんですか!」

「何か言ってくださいよ!」

「……ん? 顔が真っ赤だ。だ、大丈夫ですか?」


「は、はうわ! あ、あ、あ……ぶぶび、ば、ばばあああ!」


「ひっ、きゃあああ!」

「は、破裂した!」

「そ、総理!?」

「爆弾!? テロか!?」

「あ、なんだあれは!」

「消えたぞ! ゆ、幽霊!?」

「怨霊だ……! 国を憂いて出てきた怨霊だ!」

「へひあああああああ!」


 ゆらりゆらり。総理大臣の記者会見場に一瞬だけ現れた顔は、煙のように輪郭を揺らめかせながら消えていった。

 誇らしげな笑みと異臭だけを残して――。

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