切腹でござる! :約6500文字
「大変申し訳ございません! かくなる上はこの渡瀬……この身、その骸を棺に納め、御社と弊社の架け橋となるべく切腹を……!」
とある会社のオフィス。渡瀬はそう叫ぶと、床に膝をつき、深々と頭を下げた。
相手の表情は「またか」と言わんばかり。やれやれもういいよ……。顔を伏せていたが、ため息が充満する空気が伝わってくる。
渡瀬はその雰囲気を察し、腹の中で笑った。今回もうまくいった、と。
「いやー、渡瀬君。またしても無事に事を収めたようだね」
社に戻った渡瀬の肩を叩きながら課長がそう言った。
「はい課長! いやー、肝が冷えましたよ! まだ切腹してないのに内臓が飛び出しちゃったみたいな、はははは!」
「ははは、しかし、君のおかげで助かった、と手放しで褒められないのが残念だなあ。だって、君のミスだからね」
「いやはっはっは! しかし、自分のミスは自分で取り返す男! どーも、渡瀬でございます! これからもどうぞご贔屓に! ぬははははは!」
高らかに笑う渡瀬。彼はいつもこの調子である。ミスをし、上司から怒鳴られ、取引先に謝罪へ向かえば、先ほどのような切腹――偽りの覚悟と熱意を見せる。結果、相手は折れ、許される。ゆえに反省もそこそこなので、またミスを繰り返すというわけ。
今夜もまた女の子がいる店で酒を飲み、脚色した武勇伝を語り、ますます調子に乗るのだろう。
と、そんな彼だったがある日、事は起こった。それも過去最大の……。
「……と、いうわけで渡瀬君。切腹してくれるね?」
「は、はい! ……はい? 今、なんと……?」
「切腹。君、事あるごとに切腹切腹と言っているそうじゃないか。なあ、頼むよ。わが社始まって以来の大ピンチなんだ」
昼、会社のオフィス。そう言ったのは社長だった。頼むよと言うわりに頭が高いのは身分の差ゆえか。ノーと言うのを許さない雰囲気をむんむんと漂わせている。
「え、えっと、し、しかしですねえ、わ、わた、私のミス、そう今回は私のミスではないと言いますか……」
「うんうん、わかるよ。しかし君は何度もミスをし、わが社に損害を与えてきた。相手方に謝罪に行き、許しを得たといっても、それですべてがプラスマイナスゼロというわけではないのだよ。わが社の信用は確実に損なわれている。そしてね……君をクビにしなかったのは、このためと言っていい。切腹の覚悟がある社員なんて、なかなかいないからね」
なるほど、確かにごもっとも……と、うんうん頷くわけにも首を縦に振るわけにもいかない。何せ、かかっているのは自分の命。頂戴しますときて、はい、差し上げますとは言えないのである。
もしこれが他人事なら、周囲の社員と一緒に高みの見物を決め込むところ。しかし今、渡瀬は膝をつき、全員から見下ろされている立場である。
視界がぐにゃりと歪む。社員たちの顔が不気味に引き伸ばされ、まるで樹海の中で絶望し、そびえ立つ木々を仰ぎ見ているような感覚に陥った。
末は崖下真っ逆さま。奈落の底で骸と化す。……いいや、まだ崖っぷち。踏みとどまれる。こんなこと了承できるはずがない。本物の切腹など。それならクビのほうがまだマシである。しかし、それも許されない雰囲気。どうにかしなければ――でなければ自ら腹を裂き、そして結局、首を落とされることになる。
「あ、あ、あ、あのですね! 切腹と言いましても、ええ、え? 嘘じゃありませんとも! 私は毎回本気で切腹しますと、ミスのたびに相手方や上司の皆様に誠心誠意、謝罪してきましたとも! で、でででですが、実際やるとなるとそれはその……相手も、そう! おめめめめ、お、お目汚しと言いますかねえ! 汚い、汚いですとも! ええ! 私のちょ、ちょうちょ! 腸は!」
渡瀬は必死に手を振り回し、汗をまき散らしながら訴えた。だが、社長はまるで駄々をこねる子供を見守る親のような表情で、ただ静かに頷いていた。
「いや、今回、その相手方が望んでいるのだよ。ぜひ、切腹をとね。むしろ、それ以外は望まないと。今、向こうの部屋でお待ちになられている。ああ、刀も用意してあるから安心してくれ」
社長はハンカチで額の汗を拭った。この社長も相当追い詰められ、物事の判断ができなくなっていた。
しかし、そんなものは比にならないほど渡瀬は汗だくである。薄いグレーのワイシャツの両脇には大きな汗染みが広がり、背中はまるで地図上の大陸のような有様になっていた。
喉が渇くのはパクパクと口を開けているせいだろうか。言いたいことは山ほどあるのに、うまく言葉が出てこない。脳は回転を停止したように感じられた。
「で、で、で、ですが、そ、そそその。そう、し、死死死、死?」
「うむ、君には死んでもらうことになるね。それもわが社のためだ。二階級特進といこうじゃないか、なあみんな!」
社長がそう言い、汗を飛ばしながら周囲を見回すと、「おおー!」という歓声が上がった。会社の存続の危機――ひいては自分たちの生活の危機に瀕した社員たちもまた、やはり正常とは言いがたい精神状態になっていた。
「いいぞー!」
「かっこいいー!」
「ワタセさーん!」
「やれー!」
「ワータセ、ワタセ!」
渡瀬の周囲から飛び交う熱狂の声。その勢いに、飛んでいたハエがふらついた。ハエは渡瀬の額に止まり、前足をこすりこすり。なんだ、もうディナーの時間か。甘露、甘露。
この声援が、いつ怒号や罵声に変わるのかわかったものではない。渡瀬はぶるると震え、そして快感が訪れた。
漏らしたのである。
渡瀬のズボンと床にできたシミに気づいた社長。しかし怒ることはせず、むしろ称えた。
「うむ、相手方の前で漏らすよりよかった! 天晴じゃ! おい、そこの君、拭いて差し上げなさい」
乾いた雑巾を手に駆け寄ってきたのは、会社一の美人。渡瀬の密かな想い人だった。
彼女は嫌な顔ひとつせずに、ごしごしと渡瀬の股間を拭う。さらに、社員の一人が差し出した消臭スプレーをシューッと吹きかけ、また拭く。再就職が難しいこの時代、「クビになるよりマシ」という合理的な計算が働いていた。
それに、社のために命を捧げる渡瀬の姿が、今この瞬間だけはカッコよく見えた。結局、彼女も冷静ではないのである。
そして、渡瀬はというと、ここまでされてしまい、ますます断りにくくなった。とはいえ、死にたいはずがない。股間の盛り上がりもそう言っている。
「で、で、ですが、しゃちょ、社長様! そ、その、自殺教唆と言いますか、その、罪になると言いますか……」
「うーん? 教唆? いやいや、君が進んで切腹するんだよ?」
社長は真顔でそう言い、次の瞬間、にっこりと笑った。その緩急の恐ろしさに、渡瀬はまた少し漏らした。
「あ、あ、あのですね! その、そう! 切腹ですけども! か、かあぁぁ! 介錯! そう! 首を斬る者が必要と聞きます! こ、ここに、い、いないでしょう!」
「あ、自分、剣道を習ったことがあるので、できます」
社員の一人がすっと手を挙げてる。社長はにんまりと頷いた。
「だ、そうだ。安心したまえ。それに、それ用の刀も相手方が用意してくださっている。かなり乗り気なようだ。なんなら相手方の会長自ら、君の首を切り落としてくれるかもしれん」
「そそそそ、それでは殺人罪! 殺人! 人殺し!」
「おいおいおい、苦しむ君のためにやってくれるのだから、そんな言い方はないだろう。それにまあ、そうなっても身代わりを立てるだろうな」
「非道! 非人! あ、あ、あ、ああああ」
渡瀬はこの場で糞を漏らし、周囲に投げつけて逃げることを思いついたが、それは叶わなかった。昼に食べたものがまだ糞になっていない上に、嘔吐したのである。
ぷうんと酸っぱい臭いが立ち昇る。内容物は牛丼。馴染みのある味とはいえ、こんなのが最後の晩餐になるのかと、渡瀬はかすかに後悔した。
おまけに、正座をしていたせいで足が痺れている。たとえ立ち上がれたとしても、ラグビー部出身の屈強な社員たちがドア付近に陣取っており、確実に取り押さえられるだろう。
「うんうん、いいぞ。汚いものは全部ここで出してしまいなさい。綺麗な身で、相手方に差し出さなければな」
まさに生贄。供物。渡瀬は、自分がもはや『人間』と見なされていないことを悟った。積み上げてきた信頼関係はこうもあっさりと崩れ落ちるのか。
否――周囲の社員たちが合唱を始めた。曲は『蛍の光』である。歌詞はネットで急いで調べたためか、たどたどしく、探り探りの歌声であった。
だが繰り返し歌い、三周目ともなると余裕が出たのか、彼らは歌詞を改変し始めた。
ワタセヨツクセ、シャノタメ。
ツクセヨワタセ、ツツガナク。
渡瀬はひひひひひっと笑った。涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら笑った。
社長も笑った。意中の彼女も、渡瀬の吐瀉物を拭きながら笑った。いずれも針が振り切れた笑いだった。
渡瀬は屈強な元ラグビー部社員二名に両脇を抱えられ、足を引きずりながら廊下を進む。まるでグランドに線を引く用具のようだった。実際、カーペットの廊下に線を引いた。それは、渡瀬の肛門からあふれた下痢便だった。
「おお、よく来たよく来た」
渡瀬は机が片付けられて広くなった会議室の中央――一枚の畳の上に座らされた。
その目の前の椅子に座る相手方の会社の会長が、満面の笑みで手を叩いた。その隣に立つ秘書の男も、調子を合わせるかのように笑みを浮かべている。
渡瀬は正座から深々と頭を下げ、「本日はお日柄も良く……」と、自分でも意味不明な挨拶をした。
会長はそれを見てさらに上機嫌になった。渡瀬の一挙一動にまるで動物園のパンダを愛でるように顔を崩して、ほっほっほと笑う。
「君のことは噂に聞いていたよ。切腹にふさわしい場所を探していたんだって? うんうん、会社のためにそこまでするとは何とも見上げた忠誠心よ。わが社の連中に見習わせたいものだな」
そう言い、会長は秘書に目をやった。秘書は頭を下げ、『はい』とも『へへへ』とも取れる声を発した。
――命乞いをするなら、今しかない。
渡瀬は必死に口を開こうとする。頭がふらつき、まともに前を向けない。それでも、迫りくる死を前に、生への執着心が股の間から喉へとこみ上げてきた。
「あ、ああのですね、せ、せっくす、いや、はは、せっぷくなのですが、わ、わたし、い、いや、といいますか、そのいや、はい、いや、はい、はいいや」
会長の黒目が、丸く見開かれていく。
まるで猫科の猛獣。渡瀬はその目を見た瞬間、口をつぐんだ。
次に、荒い息遣いが聞こえた。
それは渡瀬の後ろに控える社長のものだった。彼は刀を振り上げ、目を血走らせている。
「わたせくぅぅん! さあ、その短刀を取って! やって! やるんだ! わたし、もういくよ? いくよおお?」
食いしばった歯がパキッと音を立てた。社長の奥歯が折れた。そして、そのやや上。彼の脳裏には、背負う家族の姿があった。『パパやって』『あなた、首を綺麗に斬り落とすのよ』『父さんならできる!』
一方の渡瀬は、背負うべき家族もなし。気迫に押され、ついに手にした短刀。場の空気に流されて、とりあえずシャツをめくるも腹は括れず。
突き出た腹は脂汗に濡れ、蛍光灯の光で怪しく輝いた。
「ひひひひ」と漏れる笑い声は、やがて「ひっ、ひっ、ひっ」という断続的な呼吸へと変わった。
目は今に飛び出しそうなほど見開かれ、顔は茹でダコのように赤いのに、手は青白く震えていた。
これはドッキリなのでは? という希望的観測は、短刀の重みに沈んでいった。
閉ざされたドアの向こうから聞こえる社員たちの合唱は、いつの間にか勇ましい軍歌へと変わっていた。
もうこうなったら、腹の内を全部ぶちまけてやろうか。罵詈雑言とともに内臓を引きずり出し、小腸と大腸を花の首飾りのように会長の首に巻きつけてやるのだ。ウェルカム、ここは血と小便と糞の王国。
渡瀬は震える手で刃先を腹に当てた。皮膚に触れるだけで、想像以上の痛みがほとばしる。
会長は椅子から身を乗り出し、舌を垂らしながら、その腹からプクッと滲み出た一滴の血を凝視していた。まだかまだかまだなのか。焦らされることに、悦びと焦燥を覚えているようだった。
一方、社長は腕の感覚がなくなりかけていた。鉄の塊だ。振り上げたまま待っているのではそれも当然。
早く早く早く、腹を切るんだ。お前はそのためにいるのだ。渡瀬を見下ろし、ひたすら念じた。
渡瀬は呼吸を荒げ、目玉をぐるぐると回し続けた。世界が踊って見えた。
はやくはやく、と囁く会長。
渡瀬の尻から、沼の泡が弾けるような屁が鳴った。
軍歌が耳に近づいたり、遠のいたり。
渡瀬は考え、考え、考えた。楽になれる方法。それだけを。
「ひ、ひ、ひ、ひ、ひぃぃぃぃぃ!」
渡瀬が馬のような声を上げた瞬間、会長も興奮に満ちた声を上げた。刃はついに、その鋭い切っ先が完全に隠れるほど、渡瀬の腹の中に沈んでいった。
そして次の瞬間、渡瀬は「ふぎゃっ!」と声を上げた。
社長が堪えきれず、渡瀬の首筋に刀を振り下ろしたのだ。だが、刃は首の半分にも届かず、中途半端に食い込んだまま止まった。社長が手放しても、刀は首に刺さったまましっかりと固定されていた。
渡瀬は反射的に立ち上がり、刺さった衝撃で短刀をさらに深く腹に突き刺し、勢いのまま横に裂いた。
にゅるっと飛び出した小腸が、だらしなく垂れ下がる。それは、踊りと相まって飾り衣装のようであった。
そう、渡瀬は踊ったのだ。
痛みから逃れたいがための動きであった。腹の痛みに体を反らせば、今度は首の痛みから逃れようと前屈みになる。前へ後ろへ、前へ後ろへ――その繰り返しが、奇妙なダンスに見えたのだ。
会長は手を叩き、笑い転げた。
社長は震えながら、無理やり笑みを作った。
渡瀬は血を滴らせながら会長へ近づいた。
ぴちぴちと音を立てながら宙を舞う小腸に、会長は猫のように目を奪われた。
そして、そのまま渡瀬は倒れ込んだ。
「ひぎぃぃぃっ!」
会長の悲鳴が響いた。渡瀬が握っていた短刀の切っ先が、会長の腹へ深々と突き刺さったのである。
今度は渡瀬が笑った。まさに出血大サービス。渡瀬の体内に大量に分泌された脳内麻薬が、渡瀬の体の痛みを和らげ、愉快な気持ちにさせたのだ。
二人を引き剥がそうと、社長が慌てて駆け寄る。
だが、足がもつれ、渡瀬の上にのしかかった。その衝撃で短刀がさらに深く会長の腹へめり込んだ。会長は叫び、渡瀬はケラケラと笑う。
社長は焦りながら、渡瀬ごと短刀を会長から引き抜こうと、渡瀬の首の刀を両手で掴み、バーベルのように持ち上げる。
「いやよいやよいやよぉ」
渡瀬はいやいやする子供のように体を揺らす。その拍子に短刀がさらに横へと動き、会長の腹を豪快に裂いた。会長が口から血を噴き出し、渡瀬は「わあ」と声を上げた。
社長が渡瀬を引き剥がすと、会長はおぼつかない足取りで踊り始めた。
両手を刃で深く切った社長は、床に膝をつき、血に染まった手を高く掲げた。神へ祈りを捧げているようだった。
ドアの向こうから聞こえる歌は、サンバになっていた。
三人は痛みに狂いながら踊り続けた。
その光景に、秘書は嘔吐した。騒ぎはなおもしばらく続いた。
――うぉへらばらばらへーお! うぉーえばんばんばんばぶらあばばばばばばさんばどぅーあざんばらぶあばぶぶぶぶぶ!
結局、この件は公にはならなかった。方々に袖の下を使ったからだろう。
渡瀬は退院後、何事もなかったかのように職場に復帰した。『ハラキリシショー』と呼ばれ、その異名は本国の本社にまで届いた。
だが、彼が本社に呼び戻されることはなかった。
さすがは腹切りの本場。過去、渡瀬がいくら泣いても左遷を免れなかったように、切腹程度では許されないのだと、海外支社の社員たちは悟ったのだった。




