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雉白書屋短編集  作者: 雉白書屋


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凱旋パレード

 地元にヒーローがやってくる。いや、帰ってくるといったほうが正しい。そう、凱旋パレードだ。

 ここは観光資源が何もない小さな町だが、アメコミのヒーローが治安の悪い地域で誕生するように、彼も生まれたのかもしれない。この町に光をもたらすために。

 その英雄の名は投山球彦。プロ野球選手で、驚異のトリプルフォーを達成した人物。世界的に見ても前例のない、打率4割、ホームラン40本、40回盗塁成功という偉業である。

 といっても、おれは野球にまったく興味がないため詳しくは知らないし、それがどれだけすごいことなのかも分からない。だが、有名人は見たい。

 だから駅前にやってきたわけだが、この人混みには驚かされた。屋外にもかかわらず、空気が薄く感じるのは気のせいではないだろう。肺を圧迫され、まったく身動きが取れないのだ。完全に出遅れたようだ。家を出る前に見たテレビのニュースによると、すでにこの田舎町の人口を大きく越える40万人が集まっているらしい。

 呆れたよ。他所者め、帰れ帰れ。どうせにわかファンだろう。そう悪態をついてみても人は捌けず、苛立ちが抑えられない。

 なんとか縫うようにして前に進むが、気を抜くと今、自分がどこにいるのかさえ見失いそうだ。

 季節は冬だが、日中は日差しのせいで暑い。頭がぼーっとする。おれは何しているんだ。ああ、クソが、また足を踏まれた……クソ……。


「死ねぇ、みんな死ねぇ……」


「え、おい、その声は磯原か?」


「ん? その声は大島か? でも、どこに……」


「下だ、下にいるぞ」


「下……? うおっ!」


 おれが下を向くとそこからズボッと指が現れて、左右に揺れた。どうやら手を振っているらしかったが、苦しむナメクジの触覚にしか見えなかった。


「そ、そんなところで何してるんだよ」


「はははっ、考えてみろ。下のほうがスペースがあるだろ? 足の間を縫って進むんだ。お前も来いよ」


「な、なるほど」


 おれは大島の言うとおり、しゃがんだ。すると、そこは地下世界。肉林とも呼ぶべき光景が広がっていた。日の光は届かず、ひしめき蠢く暗黒の大樹海。そこに身を堕としたおれは、隠花植物を餌にする軟体動物か。


「磯原? 大丈夫か?」


「あ、ああ。暑さで時々正気を失うみたいだ……」


「わかるよ。まあ、ここは直射日光が当たらない分マシだけどな。少し湿気があるが、あ、気をつけろよ。あまり体勢を低くすると踏まれるからな。俺も手に、ほら、靴跡がついちまったよ」


 大島はそう言ったが、まだ奴の姿は見えなかった。逆に向こうからはおれの姿が見えているようだ。それが、どこか悪魔に見られているようで不気味だった。おれは誘惑に乗り、地獄に引きずり込まれてしまったのかもしれない。口から硫黄の匂いを漂わせ、森の中で迷える者を嘲笑う悪魔に。


「おい、磯原。ほら、ボケッとしてないで行こうぜ」


「ん、ああ……。いや、行くってどこに?」


「決まってるだろ? 道路だよ。せっかくだ。最前列でこの騒ぎを引き起こした野郎を拝んでやろうぜ」


「……パレードか。でも、ニュースのヘリからの空撮を見る限り、まったくスペースがないみたいだぞ。到達しても立ち上がれるかどうか」


「確かにな。警官が二列にわたってガードしているらしい。だが警官だって人間だ。どこかに股が緩い奴がいるはずだ。ほら、行こうぜ。俺について来いよ」


 どこか不安は拭えなかったが、おれは大島についていくことにした。

 やはりまだその姿は見えないが、声のほうに向かって進めば問題ない。


「気をつけろよ。たまに糞が落ちてるからよ」


「え、それは――」


 それは犬の糞か? と訊こうとしたおれはハッと気づいた。パレードはまだ始まっていないが、場所取りなどで夜明け前から人が並んでいるとニュースを見たことを思い出したのだ。

 この状況だ。その連中が満足にトイレに行けたとは思えない。漏らした者、これから漏らす者もいるはずだ。油断はできない。鼻をひくつかせると確かに刺激のある臭いを嗅ぎとれた。

 おれは家を出る前に済ませてきたので、まだ平気だ。しかし、問題はその逆。喉の渇きだ。ビルの二階の喫茶店の窓の席から優雅に眺めようと考えていたから水分補給を怠っていたのだ。店に入るどころか、自販機の影すらも覆い隠されていることを知っていれば、ペットボトルのお茶か水でも持参してきたのに。


「喉が渇いたら湧水を飲め。美味いぞ。ただし若い女がいい。ストッキングや肌の張りで判断するんだ」


「湧水? 若い女? お前――」


 何を言っているんだ? そう訊こうとしたが、おれはまたしても口をつぐんだ。大島の「ひひひ」という笑い声と、液体をすする音が聞こえたのだ。

 奴は狂っているのかもしれない。だが、大島のそのアイデアを最高だと思ったおれもまた狂っているのかも。すでにおれの目は、肉林の中で若い女の足を探している。


「小刻みに震えているのがいいんだ。ちょっと上を刺激してやれば、滝のように流れ出るぞ」


 おれは大島のアドバイスに従い、見つけた足に指を這わせ、苔むした場所の奥の穴を突いた。するとちょろちょろと次第に流れは急になり、おれは慌てて唇を足につけ、流れ落ちる黄色の水を余すことなく飲み干そうと唇と舌を駆使して、吸いに吸った。

 女の悲鳴とも喘ぎともとれる声に、自分のモノが熱く硬くなっていくのを感じたが、今はそれ以上に喉の潤いと喜びを噛み締めたかった。


「さあ、どんどん行こうぜ」


 地面に根を生やしたように直立する足の間をこじ開けて、おれは進んだ。コツを掴んでくると、すいすい進むことができ、自分がナメクジになったような気分になった。どこへだろうと、どんな間だろうとスルリヌルリと行けた。

 自信とともに、『ここから出て日の光に当たれば、たちまち干上がってしまうのではないか』という恐怖も込み上げてきたが、その思いは悲鳴と地面を揺らす振動に掻き消された。


「大島! 今の悲鳴はなんだ?」


「ああ、ビルから誰かが落ちたんだろう。お前もここに来たときに見なかったか? ありゃ、地獄だぜ」


 ここは違うのか? と問おうかと思ったが、奴は違うと答えるだろう。

 奴の笑い声は時が経つにつれて下賤さと狂気を増し、まるで自分がパレードの主役だと言わんばかりに、フォオオウと歓喜の声を上げた。この状況を楽しんでいるようであった。

 確かに、思い返せばビルの屋上はどこも人がぎっしりと詰め込まれていた。

 目を閉じて、音だけで今、ビルの屋上で起きていることを想像する。

 先頭の者は苦痛の声を上げ、身を捩っている。おそらく後ろの人と柵の間に挟まれ圧迫され、骨が砕けているのだろう。その地獄から逃れようと柵の外側に身を乗り出したり、ビルの縁にしがみ付いている者もいる。

 その誰かが落ち、下の通行人に当たった。そして、潰れてできた空間はすぐにまた埋められたはずだ。

 今、おれの右斜め後ろのほうから聞こえる音がその証明だ。踏まれ、骨が砕ける音。肉が潰れ、裂ける音。地獄に救いはない。あるとすれば完全なる死だけだ。

 今度は窓ガラスが割れた音がした。もしかしたら、おれ行こうとしていた喫茶店かもしれない。

 その店内もきっと人が押し寄せ、窓ガラスに顔を押し付けられるほど混雑しているのだ。今、びちゃびちゃと打ち水したような音がした。もしかしたら割れたガラスで首を切り、血が噴きだしたのかもしれない。

 ……もったいない。どんな味がするのだろうか。

 今度は横のほうから悲鳴とも嬌声ともつかない声が上がった。ああ、巡礼者が恵みの雨に喜んでいるのかもしれない。


「磯原? 何を笑ってるんだよ。なんか面白いことでもあったか?」


 大島が嬉々とした声でおれに訊いてきた。そうか、おれは笑っていたのか。それはもったいないことをしたな。意識して笑い、身を委ねたほうが楽しい気分になれるだろう。


 ひひひひひひ。ひひひひひひひひひ。ひひひひひひひひひひひひ。

『ひ』って剥き出しのペニスみたいだなぁ。ここはペニスと窪みの森だぁ、ひひひひひひ…………。



 ……ひひひ、ひ? 今のは? ひとしきり笑ったあと、左斜め前のほうから歓声が聞こえた。

 まさか、現れたのだろうか。

 うん? 誰がだ? 神か? 悪魔か? 

 なんだ? 名前を呼んでいる? 球彦……?

 誰……ああ、そうだ、投山球彦とかいうカッペ野郎。打者なのか投手なのか紛らわしい名前の奴だ。


「お、おい! 行こうぜ! きっと間に合う!」


 大島が興奮した様子でそう言った。おれとしては投山球彦の尿など飲みたくないと思ったのだが、大島は違うらしい。変な野郎だ。

 いや、なんだ……? 目的がズレている気がする。ああ、暑いせいだ。それに、この悪臭。

 気づけば辺りは糞だらけで、蒸気のように立ち昇る糞の匂いと気化した尿の匂いが寄せ合う人の上半身に阻まれ出口をなくして滞留し、樹海全体が湿気で満ちていた。

 そうだ、目的はここから出ることだ。それでこの惨事を招いた投山球彦を殺して、おれが英雄になるのだ。

 ……違うか? まあどうでもいい。とにかく大島のあとに続いて進むことにした。


 おそらくパレードは駅前からスタートなのだと思うが、正確な場所も今の自分の位置もわからない。

 今、「球彦ー!」と叫んでいる人も実際には見えておらず、ただ周りに合わせているだけなのかもしれない。もしくは幻覚を見ているのか。

 それでも徐々に核心へと近づいている気がしていた。その根拠は立ち並ぶ紺色の足が見えてきたことだ。あれは警官の制服だ。二列になって並ぶ奴らはきっちりと股を閉め、そのガードは固そうだ。


「どうする、大島?」


「はっ、決まってるだろ? 強行突破さ」


 頼もしい奴だとおれは未だに姿の見えない大島を称えた。もしかしたら奴はおれの想像上の存在なのかもしれないが、それが奴を英雄だと思わない理由にはならない。

 警官の足はさすがに強靭だった。何度殴っても堪えない様子だった。

 もっとも、ここでは振りかぶることもできないので、小さなハンマーで独房の壁に穴を開けようとする囚人のように弱い一撃を繰り返している。

 たまに靴先で蹴り上げてくるので、サッと避けなければならなかった。

 何度かギャッ! と、大島の悲鳴が聞こえたので、さすがの奴も苦戦しているらしい。

 そのことに気づいた途端、おれの中にふと、奴への対抗心が芽生え始めた。

 ここまで奴におんぶにだっこだったが、おれだってできる。そうだ、美味しいところはおれがいただいてやる。

 ここを出て投山球彦が乗る車に飛び乗り、奴の首に噛みつき、血を啜り、おれが投山球彦を継ぐのだ。

 ……そうなのか?

 そうなのだろう。

 ほら、その証拠に道が開けた。

 これこそ導き、天啓。

 拝啓、お父様、お母様。息子は英雄になります。

 今、トンネルの出口。眩しい光の下へ……。


「あ、こら!」

「待て!」


 おれは警官の股をくぐり、立ち上がろうとしたが、うまくできなかった。

 もしかすると人魚のように半身が別の生き物、ナメクジに変わっているのではと思い、振り向いたが、ただ単に足がもつれていただけだった。

 ほっとして、前を向いた瞬間、視界の端に黒いものが見えた。そしてそれが何か確かめようと眼球を動かす間に、そう、あっという間にすべてが真っ黒になった。




「おい、磯原? 磯原!」


「……ん、あ、おお、大島か。ようやく顔を見られた……お前、本当にいたんだな」


「は? なんの話だ?」


「ふふっ、いや、別になんでもない。てか、あれ? ここってまさか……」


「そう、天国だ。俺たち死んだみたいだな」


「死んだ!?」


「ああ、お前は投山球彦が乗っていた二階建てオープンバスに頭を潰されたんだよ」


「潰され……ああ、あの黒いのはタイヤか……。投山の野郎、クソ生意気にもオープンバスとは……でも、お前はどうして」


「お前のすぐあとに飛び出した俺もバスの車体に巻き込まれたんだ。どうやら他にも警官たちを押しのけた奴らがいたらしい。それで、運転手がゾンビのように群がってくる見物客にびびって、アクセルを踏み込んだんだ。死んだ他の奴がそう話してくれたよ」


「そうか……それで投山は?」


「ヘリで命からがら脱出したらしい。ははは、身ぐるみを剥がされて全裸だったらしいぞ。びびった奴が放射した尿で虹ができて、群衆がそれに気を取られている間にうまく逃げたんだとさ」


「どこまでも英雄なんだな。いったいどんな味が……って、どうでもいい。頭がおかしくなっていたみたいだ。それにしてもそうか、お前も死んだのか……」


「ああ、世界の損失だな」


「自己評価高いな」


「それより、行こうぜ」


「うん? どこに?」


「あっちの山のほうに、野球界の歴代スーパースターが揃ってるってよ!」


「ええ!? マジかよ!」


「まあ、何人かは地獄行きになって、ここにはいないみたいだけどな。たぶん、ドーピングをやった奴だろう」


「そ、それで、まさか試合を!?」


「ああ、でもフットサルをやっているらしい。たぶん、野球には飽きたんだろうな」


「構うもんか! 行こう!」


 こうして、おれたちは走り出した。死んだからか痛みだのしがらみだの、肉体の不快、不自由がすべて消えてなくなったその爽快さにはしゃぎ、笑った。大島が指差したその山が、群れた人々で形成されていると知って、おれたちは狂ったように大笑いした。

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